李白:秋思 | 古代文化研究所:第2室

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○謝朓の「春思詩」を案内した後、続けて李白の「春思」詩を紹介した。ただ、李白には「春思」詩と関連して「秋思」詩も知られる。今回案内するのは李白の「秋思」詩である。

  【原文】
      秋思
       李白
    燕支黄葉落
    妾望白登台
    海上碧雲断
    単于秋色來
    胡兵沙塞合
    漢使玉関囘
    征客無帰日
    空悲蕙草摧

  【書き下し文】
      秋思
       李白
    燕支に黄葉の落ち、
    妾は望む、白登台。
    海上に碧雲の断え、
    単于に秋色の来る。
    胡兵は沙塞に合すと、
    漢使は玉関より囘る。
    征客は帰る日無く、
    空しく悲しむ 蕙草の摧かれるを。

  【我が儘勝手な私訳】
    北辺の燕支の山で、黄葉が散るころに、
    私が望んでいるところは、大同の白登台。
    湖上のほとり、青い空に浮かぶ雲も流れ行き、
    単于の住む北国に、秋の気配が満ちて来た。
    胡の兵たちが、砂漠の塞に集結したと、
    漢の国の使者は、玉門関から告げに帰ってきた。
    出征して行った者が帰ってくる日が何時になるのだろうか、
    残された者は空しく悲しく思うばかりである、まるで香草が霜枯れするように。

○李白の「春思」詩や「秋思」詩は辺塞詩と呼ばれる。詩中の白登台とあるけれども、白登台は現在の大同市郊外の马铺山であるとされる。大同市は嘗て平城と称された。中国の検索エンジン百度『百度百科』の平城項目に、次のようにある。

      平城
   平城(今山西省大同市),北魏中期都城。北魏平城是在汉朝的平城县之基础扩建而成。从北魏道武
  帝拓跋圭于天兴元年(公元398年)七月迁都至此,至太和十八年(公元494年)北魏孝文帝迁都洛阳,
  共建都于此97年之久,前后经历道武帝、明元帝、太武帝、文成帝、献文帝、孝文帝共六位皇帝,成为
  当时北方政治、经济、文化的中心。另有山西同名古镇和朝鲜同名城市及日本历史名城平城京(今奈
  良)。
  【郭城】
   “泰常七年(422年)秋九月,筑平城外郭,周回三十二里。”其郭城绕宫城南,悉筑为坊,坊开巷,
  大者容四五百家,小者六七十家。其郭城位于宫城南面。郭城略呈方形,边长4公里,周长16公里。郭
  城内规划了里坊、寺院、市廛、园林等。城郭外分为四郊,建有苑囿。东南有“基架博敞,为天下第
  一”的永安寺。再南(今柳航里)有明堂、辟雍,明堂上圆下方,四周十二户九堂。上设天文设施。周边
  有籍田、药圃等。西郊有郊天坛,坛东侧有郊天碑,碑上刻有《五经》及国记。坛西有西苑、洛阳殿、
  灵岩石室等。北郊有“皎若圆镜”的灵泉池、北苑、白杨泉、鹿野佛图。东郊有白登台、宁光宫、东
  苑,苑内建太祖庙。
  http://wapbaike.baidu.com/item/%E5%B9%B3%E5%9F%8E/34976?bd_page_type=1&st=0&step=9

○昨年2015年8月に大同市を訪れている。大同が辺塞の都市であることは理解していたつもりだったが、出掛けてみると、大同は大都市であった。それに現在に至るまで、城壁をしっかり残している古い都市でもあった。

○大同で見学したのは、雲崗石窟と北岳恒山であった。白登台は大同市北東10劼曚匹紡減澆垢觚什澆马铺山だと言う。そういうことをこの詩から学んだ。上記「郭城」にある『永安寺』は北岳恒山の麓、浑源县に存在する寺である。大同市から浑源县までは50劼曚匹△襦

○昨年8月には洛陽の龍門石窟まで見学した。雲崗石窟も龍門洞窟も北魏(386~534)の時代のものである。雲崗石窟は460年頃からのものであり、龍門洞窟は494年以降のものとなっている。

○北魏は北方の鮮卑族に拠って成立した王朝である。その北魏の時代に中国の仏教文化が華開いたことは見逃せない。北岳恒山や五台山と訪れると、そういうことが判る。このルートが中国仏教の根源の一つであることは間違いない。

○ただ、中国仏教の根源は北岳恒山や五台山ルートだけでは無い。それ以前に既に峨眉山や杭州などにも仏教は伝搬している。そういうことを理解する為にも、五岳参拝や中国四大仏教名山参詣は欠かせない。