西岩絶唱 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

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○雲崗石窟は、日本のウィキペディアフリー百科事典に拠れば、
      雲崗石窟
   雲崗石窟(うんこうせっくつ)は、中華人民共和国山西省大同市の西方20kmに所在する、東西1km
  にわたる約40窟の石窟寺院。「雲岡石窟」としてユネスコの世界遺産 (文化遺産) に登録されてい
  る。雲岡と表記する事も有る。
   元は霊巌寺といい、現在では石仏寺などとも呼ばれる。北魏の沙門統である曇曜が文成帝に上奏し
  て460年(和平元年)頃に、桑乾河の支流の武周川の断崖に開いた所謂「曇曜五窟」 (第16窟、第17
  窟、第18窟、第19窟、第20窟) に始まる。三武一宗の廃仏の第一回、太武帝の廃仏の後を受けた仏教
  復興事業のシンボル的存在が、この5窟の巨大な石仏であった。
とあるように、『東西1km』もある、『約40窟の石窟寺院』だと言うことになる。そのスケールそのものが何とも凄まじい。

○本ブログでは、その雲崗石窟を、
  ・雲崗石窟:第一窟~第七窟
  ・雲崗石窟:第八窟~第十五窟
  ・曇曜五窟
の3回に分けて、案内してきた。「曇曜五窟」は第十六窟~第二十窟だから、この後に第二十一窟から第四十窟までが延々と続いているわけである。

○ただ、現在の雲崗石窟では、特に見るべきものも無いと言うことで、第二十一窟から第四十窟は公開されていない。

○その第二十窟の先に、『西岩絶唱』と言う石碑を見付けた。まだ、真新しいものであった。碑文には、次のようにあった。

      西岩絶唱
  公元四九四年、北魏孝文帝遷都洛陽、
  雲崗皇家工程宣告結束、西都山崖成為民間造像楽土。
  晩期雕飾更加精美、法像清秀脱俗、
  中國早期佛教藝術改梵為夏的歴史過程至此完結。

○北魏は、鲜卑族が打ち立てた王朝である。だから、当然、彼らは北からやって来た。そういう意味で、大同は彼らにとって、もっとも故郷に近い中国だと言えよう。ここに北岳恒山が存在するのは、そういうことである。

○上記『西岩絶唱』にあるように、北魏の孝文帝は、公元四九四年に洛陽へ遷都を決行している。その後、洛陽に造営されたのが龍門石窟である。中国を代表する石窟のうち、雲崗石窟と龍門石窟との両方を造営したのが北魏の孝文帝である。

○陳寿の「三国志」『巻三十・烏丸鮮卑東夷伝』には、1221字も用いて、その鲜卑族の動向を詳しく載せている。陳寿の心配は見事に当たったと言わざるを得ない。

○私たち日本人にとって、烏丸族とか鮮卑族とか言われても、ほとんど理解し難い。それが中国人にとっては、差し迫った憂愁であった。そういうことを陳寿の「三国志」『巻三十・烏丸鮮卑東夷伝』は記録しているのである。

○同じことが中国の南でも生じている。南の野蛮人は「蛮」だが、どっこい、ここまで「東夷」が進出していることに驚く。それが「倭人」である。

○そういうことを詳しく記録しているのが陳寿の「三国志」『巻三十・烏丸鮮卑東夷伝』である。編者である陳寿の判断は『倭は百越の一国である』と言うものであった。「三国志」『巻三十・烏丸鮮卑東夷伝』を読んで、そういう陳寿の深謀遠慮に気付いている人は居ない。

○あまりに頭が良いと、その記述がなかなか理解されない。史家陳寿の悲哀は、優れた読者に恵まれなかったことにある。それほど、陳寿は天才史家なのである。

○大同市の雲崗石窟を訪れ、そういうことを思った。