古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○昨日、2026年6月21日、都城市山之口町麓で、『山之口麓文弥節人形浄瑠璃:第136回6月定期公演』が開催され、出掛けて来た。最初に、山之口麓文弥節人形浄瑠璃:定期公演を見たのは2019年3月公演で、その後、コロナ等で、2020年、2021年、2022年で、一般人が見物できたのは、第118回11月公演と第120回6月公演のみだった。

○したがって、当古代文化研究所では、2019年、2023年、2024年、2025年の、年4回開催の山之口麓文弥節人形浄瑠璃:定期公演を全て見ている。今年、2026年も3月公演を見た。つまり、今回の6月公演が20回目の山之口麓文弥節人形浄瑠璃:定期公演見物だと言うことになる。

○山之口麓文弥節人形浄瑠璃:定期公演は年4回開催で、演目は一年の公演を通して見ると、全部を見たことになる。その演目は、次の通り。

  【3月公演】

    ・娘手踊り(お伊勢参り)
    ・出世景清:大仏殿普請の段(ちゅのたて)
    ・出世景清:阿古屋住家の段(つくりぶん)
    ・間狂言:東岳猪狩(ひがしだけのししがり)

  【6月公演】

    ・娘手踊り(お伊勢参り)
    ・出世景清:拷問の段(水責め火責め)
    ・出世景清:牢舎の段(ずやんば)
    ・間狂言:太郎の御前迎(ごぜむけ)

  【9月公演】

    ・娘手踊り(お伊勢参り)

    ・門出八嶋:出陣の段(うっがんめい)

    ・門出八嶋:軍の場(いくさんば)

    ・間狂言:東岳猪狩(ひがしだけのししがり)

  【11月公演】

    ・娘手踊り(お伊勢参り)

    ・門出八嶋:八嶋合戦の段(弁慶の段切)

    ・門出八嶋:八嶋の浦の段(提灯とぼし)

    ・間狂言:太郎の御前迎(ごぜむけ)

○したがって、もう4回、通年を通して見ている。それでも、毎回、舞台は新鮮で、見ていて楽しい。田舎芝居と言う言葉があるが、良い意味で、田舎芝居は面白い。それは演者が素人なのにも拘わらず、必死だからである。

○そういう姿を見る楽しみがある。もともと演劇と言うのは、そういうものだろう。田舎の叔父さん、叔母さんが演じている。演目は近松門左衛門と言う専門の作者が手掛けたものだが、演者は田舎の叔父さん叔母さんなのである。

○だから、何が起こるか、判らない。ハラハラドキドキものの舞台になる。そういうものを楽しむのが田舎芝居の醍醐味である。毎回、舞台は全部違う。それが面白くて、毎年毎回、通っている。

○昔は外でやっていたという。今は資料館が出来て、立派な会場で開催されている。昔とは雲泥の差がある。しかし、本当は昔の方が楽しかったのではないか。それは演じる者と見る者とが同じ環境にあったからである。

○もともと田舎芝居だから、家族が演者で出ていた。それを家族が見て楽しむ。それが山之口麓文弥節人形浄瑠璃だったような気がしてならない。わざわざ人に見せるものでも無かった。自分達で演じ、自分達が楽しむ。そこに山之口麓文弥節人形浄瑠璃の本願がある気がしてならない。

 

○2025年7月16日、四川省成都で、四川博物院を見学した。ここまで、すでに、ブログ『四川博物院』、『四川博物院:古代四川・先秦』、『四川博物院:古代四川・秦漢三国時期』、『四川博物院:古代四川・田園農耕』、『四川博物院:俑と画像砖』、『四川博物院:摇钱树』、『蜀都才俊』、『鞠躬尽瘁』、『巴蜀史学双璧』、『四川博物院:古代四川・両晋至唐五代時期』と、10個ものブログをものしている。

○四川博物院訪問は、今回が確か、3回目である。いつも、杜甫草堂から来て、四川博物院見学後、青羊宮へ向かっている。おおよそ、これで終日を要する。ただ、四川博物院について、これだけブログを書くのは、今回が初めてである。

○なかなか一回訪れただけでは、その全容を理解することは難しい。それでこうやって、何度も訪れるしかない。そうすると、何時かはものが見えて来る。それを信じて、何度も訪れるようにしている。

○最初に成都を訪れた2015年5月、泊まったホテルが春熙路の成都正熙国际酒店で、此処に二泊した。近くに大きな寺が存在すると言うので、出掛けた。それが大慈寺である。詳しくは、次のブログに書いている。

  ・テーマ「武侯祠と杜甫草堂:成都」:ブログ『大慈寺』

  大慈寺 | 古代文化研究所:第2室

○その大慈寺へ参拝して、驚いた。何と、大慈寺は蘭渓道隆が修業した寺だと言うのである。蘭渓道隆なら、日本人なら、誰でも知っている高僧だし、有名人である。鎌倉五山の筆頭、建長寺の開山が蘭渓道隆である。建長寺には、これまで、何度か、参詣している。

  ・テーマ「鎌倉五山旅」:ブログ「建長寺」

  建長寺 | 古代文化研究所:第2室

○蘭渓道隆は13世紀に、今の重慶で生まれ、この成都の大慈寺で修業し、遥々、日本へ渡っている。その移動距離に、驚く。また、この時代より、少し前、日宋貿易のころや、もう少し後、日明貿易の時代には、多くの渡来僧が日本を訪れ、また多くの日本人僧が中国を訪れている。

○そういうことは、なかなか理解されない。それが寧波や杭州を訪れると、よく判る。もっとも、単なる観光旅行では無理だろう。当古代文化研究所では、寧波を9回訪れ、杭州にも5回、訪問済みである。もちろん、中国五山の全てに参詣済みである。

○四川省の西は西蔵(チベット)なのである。その西蔵(チベット)のすぐ南は、もうネパールであり、インドなのである。したがって、四川省には、相当早い時期に仏教が伝来していたことが想像できる。

○そういう意味では、四川省の仏教文化は凄い。一例を挙げるなら、やはり、峨眉山であり、楽山大仏だろう。もちろん、当古代文化研究所では、その両方に、すでに三回、訪問している。

  ・テーマ「樂山大佛と峨眉山」:ブログ『樂山大佛』

  樂山大佛 | 古代文化研究所:第2室

  ・テーマ「樂山大佛と峨眉山」:ブログ『二度目の峨眉山参詣』

  二度目の峨眉山参詣 | 古代文化研究所:第2室

○中国で、峨眉山は「中国四大仏教名山」の一つなのである。

      中国四大仏教名山
   中国四大仏教名山(ちゅうごく しだい ぶっきょう めいざん)は、中国で用いられる、

  四ヶ所の著名な仏教名山・霊山・聖山に対する呼び名である。
    ・山西省五台県の五台山 - 文殊菩薩の霊場(世界遺産)
    ・四川省楽山市の峨眉山 - 普賢菩薩の霊場(世界遺産)
    ・安徽省池州市の九華山 - 地蔵菩薩の霊場
    ・浙江省舟山市の普陀山 - 観音菩薩の霊場
    ただし、普陀山は実際には山ではなく島である。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/中国四大仏教名山

○当古代文化研究所では、この「中国四大仏教名山」に全て参詣済みである。そうしないと、中国仏教が理解出来ないと判断したからである。なかなか中国仏教理解も大変である。

 

○2025年7月16日、四川省成都で、四川博物院を見学した。ここまで、すでに、ブログ『四川博物院』、『四川博物院:古代四川・先秦』、『四川博物院:古代四川・秦漢三国時期』、『四川博物院:古代四川・田園農耕』、『四川博物院:俑と画像砖』、『四川博物院:摇钱树』、『蜀都才俊』、『鞠躬尽瘁』、『巴蜀史学双璧』と、9個ものブログをものしている。

○その中で、「古代四川」として、先秦、秦漢三国時期の話をすでに済ませている。今回は、その続きで、『四川博物院:古代四川・両晋至唐五代時期』の話になる。先秦時期が紀元前三世紀までの話であり、秦漢三国時期が三世紀までで、両晋至唐五代時期は十世紀までの話になる。

○もっとも、古代、中世、近世、近代、現代と言う概念は西洋からもたらされたもので、それがそのまま、東洋にも当て嵌まるわけではない。日本では、おおよそ、平安時代までを古代とすることが多い。

○それで、中国での概念はどうなっているのか。気になったので、中国の検索エンジン、百度百科で、古代を見ると、次のようにあった。

      古代[gǔ dài]

      汉语词汇

古代,汉语词汇。指1840年鸦片战争之前的中国,都属于古代;1840年-1949年中华人民共和国成立为近现代,1949年以后则为当代。

一般也包括原始公社制时代。因历史发展的不平衡性,在世界范围内无统一之时限。埃及两河流域中国印度波斯等,约当公元前三十世纪到公元初的几个世纪(各国情形不一)。希腊和罗马,约当公元前八世纪到公元五世纪(公元476 年)。

  古代(汉语词汇)_百度百科

○これが中国に於ける古代の概念だと言うのに、驚く。つまり、中国では、

  古代:1840年鸦片战争之前まで

  近现代:1840年-1949年中华人民共和国成立

  当代:1949年以后

だと言うのだから、驚く。

○判るように、あくまで、歴史の中心は現代だと言う考えである。ここには中世も近世も近代も存在しない。存在するのは、現代に直結する近現代のみであることに、驚く。それが中国の歴史認識の仕方である。

○こういう考え方からすれば、四川博物院の「古代四川」も19世紀まで続くのかも知れない。残念ながら、そのことは確認していない。ただ、中国の古代概念がどういうものであるかを知りたかっただけである。

○そういう意味で、中国の検索エンジン、百度百科が案内する中世は気になる。それは次のようにあった。

       中世[zhōng shì]

      汉语词语

中世,汉语词语,读音zhōng shì,基本含义为“中古”,出自《商君书·徕民》。

该词在历史文献中可指代商周、春秋等不同时期。在历史分期研究中,“中世”常被用以指代中国历史上的特定阶段,如日本学者内藤湖南将六朝隋唐时代划定为“中世”,其概念被视为连接古代与近世的桥梁。

20世纪以来,日本京都学派等学者围绕“中世”论展开了对中国历史分期的研究,探讨了如“唐宋变革”等重要议题。中国史学界在历史分期中也曾使用“中古”这一概念。

  中世_百度百科

○そもそも中国には、中世の概念そのものが存在しない。したがって、それを規定するものは無い。それで、中世を案内するのに、日本の東洋史学で説明している。なかなか興味深い話である。

○四川博物院では、「古代四川」を

  先秦、

  秦漢三国時期、

  両晋至唐五代時期

に分けて案内していた。

○中国の歴史は、何とも長い。まして、四川省は中国中央の歴史とは繋がったり、離れたり、様々に変化している。そういう地方史の面白さがあるような気がする。それを四川博物院では「盛世華章」の文言で表現している。中味に付いては、写真をご覧いただきたい。

 

○2025年7月16日、四川省成都で、四川博物院を見学した。ここまで、すでに、ブログ『四川博物院』、『四川博物院:古代四川・先秦』、『四川博物院:古代四川・秦漢三国時期』、『四川博物院:古代四川・秦漢三国時期』、『四川博物院:俑と画像砖』、『四川博物院:摇钱树』、『蜀都才俊』、『鞠躬尽瘁』と、8個ものブログをものしている。

○まさか、ここまで、深入りするとは、思いもしなかった。せいぜい、三つか四つのブログで終えるだろうばかり思っていた。実際、四川博物院を見学すると、なかなか面白い。それでこういう羽目になってしまった。

○もっとも、四川博物院は、今回が三回目の見学になる。前二回では、それ程、気にならなかったものが、どんどん気になって仕方が無い。それだけ、当古代文化研究所に知識が増えたと言うことなのだろう。文化を吸収するには相応の素養が無いと駄目である。

○今回案内するブログ『巴蜀史学双璧』にしたところで、以前から知っては居た。ただ、それが気にならなかった。ところが今回は、目に付いて仕方が無い。それで今回、ブログ『巴蜀史学双璧』を書くこととなった。

○もちろん、『巴蜀史学双璧』と言えば、陳壽であり常璩である。陳壽がものしたのが中国の正史「三国志」であり、常璩が書いたのが「華陽国志」だと言うことになる。両著ともに、難解なものとして知られる。

○中国の検索エンジン、百度百科が案内する陳壽は、次の通り。

      陈寿[chén shòu]

      三国蜀汉至西晋官员、史学家

陈寿(233年-297年),字承祚,巴西郡安汉县(今四川省南充市)人。三国蜀汉时至西晋官员、史学家

陈寿少时好学,师事同郡学者谯周,在蜀汉时曾任卫将军主簿、东观秘书郎、观阁令史、散骑黄门侍郎等职。当时,宦官黄皓专权,大臣都曲意附从。陈寿因为不肯屈从黄皓,所以屡遭遣黜。蜀汉灭亡后,“沉滞者累年”。后受张华荐举,在西晋历任著作郎、长广太守、治书侍御史、太子中庶子等职。 [26]晚年多次被贬,屡次受人非议。元康七年(297年)病逝,享年六十五岁。

太康元年(280年),晋灭吴结束了分裂局面后,陈寿历经十年的艰辛,终于完成了纪传体史学巨著《三国志》。此书脱稿后,颇受称赞,时人谓其善叙史,有良史之才。《三国志》完整地记叙了自汉末至晋初近百年间中国由分裂走向统一的历史全貌,与《史记》《汉书》《后汉书》并称“前四史”。陈寿的著作还有《益部耆旧传》《古国志》,今已佚失。

  陈寿(三国蜀汉至西晋官员、史学家)_百度百科

○常璩については、次のように載せる。

      常璩[cháng qú]

      东晋史学家

常璩(约291年~约361年),字道将(一说字元琰),蜀郡江原小亭乡(今四川成都崇州)人。东晋时期史学家。

常璩出生于西晋末年。成汉时期,常璩曾担任散骑常侍。公元347年,东晋大将桓温伐蜀,常璩劝成汉皇帝李势降晋。成汉灭亡后,常璩入晋,却受到东晋士族的歧视、轻藐,因此专注于修史,撰写成《华阳国志》。

华阳国志》全书共十二卷,是中国现存最早、最完整的一部地方志,为研究中国西南地区山川、历史、人物、民俗的重要史料。

  常璩_百度百科

○一般には「華陽国志」自体がよく知られていない気がする。

      华阳国志

      东晋常璩著地方志

《华阳国志》,原作《华阳国记》,是东晋史学家常璩创作的地方志,成书于东晋永和四年—永和十年(348—354年)之间。

《华阳国志》记载了从远古至东晋穆帝永和三年(347年)今西南以及陕甘鄂部分地区的山川地理、物产资源、经济文化、历史人物与民族关系的丰富内容。《华阳国志》一至四卷主要记述梁、益、宁三州的历史、地理,五至九卷以编年体的形式叙述公孙述、刘焉刘璋父子、蜀汉、成汉四个割据政权以及西晋统一时期的历史,十至十二卷记载三州自西汉至东晋初年的“贤士列女”。《华阳国志》首创方志序跋,魏晋及以前志书未见有序跋,常璩于志成后撰序,叙述修志过程,阐发修志宗旨;按类立目,暗分区域、人物两类,为后来志书准确分类奠定了基础;将人物、地理、风土、历史合为一书,较全面地反映梁、益、宁三州情况。魏晋以前,编年体、纪传体、书志体流行,《华阳国志》大胆吸收前人成果,将三者融合为一,形成一新体裁。

《华阳国志》取材广博,记载精审,基本反映了当时方志发展水平,是研究古代西南地方史和西南少数民族史以及蜀汉、成汉史的重要史料,推动了方志的进步。如徐广的《晋记》、范晔的《后汉书》、裴松之的《三国志注》、刘昭的《后汉书注》、李膺的《益州记》、郦道元的《水经注》、贾思勰的《齐民要术》、司马光的《资治通鉴》等名著均从中大量取材。

  华阳国志(东晋常璩著地方志)_百度百科

○「三国志」は中国の正史だから、いくらでも目にする機会はある。しかし、常璩の「華陽国志」は、一地方誌に過ぎない。それも完本すら、存在しない。当古代文化研究所が知ったのも、陳壽の伝記を記録しているからに過ぎない。

○その常璩の「華陽国志」が現在では注目されるようになっていると聞く。それで、百度百科でも上記のように、詳細な説明を施している。今後、大いに研究されることを願っている。

 

○2025年7月16日、四川省成都を訪れた。成都へは2015年5月、2018年5月、2018年10月に引き続き、今回で四回目の訪問になる。最初に杜甫草堂を訪れ、次に、四川博物院へ向かった。四川博物院は杜甫草堂のすぐ隣に存在する。

○その四川博物院に、『鞠躬尽瘁』なる案内があった。今回は、その『鞠躬尽瘁』を案内したい。百度百科で、『鞠躬尽瘁』を検索すると、次のようにあった。

      鞠躬尽瘁[jū gōng jìn cuì]

      汉语成语

鞠躬尽瘁,是汉语中来源于古代奏表的一则成语,语出三国·蜀·诸葛亮后出师表》:“臣鞠躬尽力,死而后已。”

这则成语指不辞辛劳,恭敬谨慎,竭尽心力于国事;形容做事小心谨慎,贡献出全部精力。其自身结构为补充式,在句子中可充当谓语,含褒义。

  鞠躬尽瘁(汉语成语)_百度百科

○巴蜀で、三国時代は特別な時代であったような気がしてならない。今でも、成都で、一番の人気観光地が武侯祠であることからも、そのことが判る。当古代文化研究所では、成都を訪れ、まず、杜甫草堂にお参りしたが、多くの人々は、最初に、武侯祠へ出掛けるのである。

○そういう意味で、四川博物院が、

  蜀漢風雲  蜀漢立国  鞠躬尽瘁  漢風留存  三国文化

の案内を掲げていることが判る。それだけ、巴蜀の地で、三国時代は特別だったことが判る。

○そのことは、併せて、三国時代を記録する「三国志」の編者が四川省南充の陳壽であることとも大いに関係していると言えよう。四川省南充市には、陳壽を顕彰する萬巻楼が建っている。当古代文化研究所では、2015年5月に引き続き、今回も南充市の萬巻楼を訪れている。

  ・テーマ「陳寿の故郷・南充」:ブログ『南充西山萬卷楼』

  南充西山萬卷楼 | 古代文化研究所:第2室

  ・テーマ「旅游巴蜀」:ブログ『萬卷楼』

  萬巻楼 | 古代文化研究所

○陳壽の「三国志」は、日本にとっても大いに意義がある。それは三世紀の日本のことを1986字で丁寧に記録してくれているのが陳壽の「三国志」だからである。三世紀の日本をこのように記録している記録は、何処にも無い。

○日本最古の歴史書は「古事記」であり「日本書紀」だとされる。その「古事記」や「日本書紀」が記録されたのは八世紀のことである。「三国志」とは、500年もの時代差がある。この時代差は大きい。

○2026年の現代からすれば、500年前と言えば戦国時代になる。まだ日本人は刀を差して丁髷を結っていた時代の話である。1526年と言えば、まだ織田信長も生まれていない。それが「三国志」と「古事記」「日本書紀」の時代差である。

○意外と、陳壽の「三国志」が日本のことを大いに評価していることに、誰も気付かない。それ程、誰も陳壽の「三国志」を真面目に読んでくれない。まことに残念な話である。

○ちなみに、陳壽は次のように、日本を評価している。

【原文】

  雖夷狄之邦,而俎豆之象存。

  中國失禮,求之四夷,猶信。

【書き下し文】

  夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。

  中國禮を失し、之を四夷に求むるは、猶ほ信なり。

【我が儘勝手な私訳】

  東夷は野蛮な国だとは言っても、東夷には、ちゃんとした礼儀作法が存在する。

  すでに中国が失ってしまっている礼儀作法を東夷に求める、しかしそれは本当のことだ。

○この記録は、「三国志」倭人条1986字には無い。あるのは「東夷伝序文」の仲である。上記した、

  雖夷狄之邦,而俎豆之象存。

  中國失禮,求之四夷,猶信。

の何処にも、倭国の話は無い。しかし、東夷9国の中で、評価されている国は、ただ一つしかない。それが倭国なのである。したがって、

  中國失禮,求之四夷,猶信。

の東夷が倭国であることが判る。

○ある意味、「三国志」唯一の外国伝である巻三十『烏丸鮮卑東夷伝』は、倭国を中国に知らしめるために書かれたと言えよう。それが、陳壽の、倭国評価、

  中國失禮,求之四夷,猶信。

だと言うことになる。

○もともと、「三国志」は、そういうふうに読む書物なのである。ところが編者があまりに立派過ぎて、読者が付いていけない。何とも寂しい話である。

○もっとも、日本に居て、「三国志」を読むこと自体に無理がある。もともと、中国の史書は、中国の専門史家のみを、その読者対象としている。中国人でも中国の史書は読めない。それが中国の常識である。

○したがって、仕方が無いから、このように、何度も、中国各地を旅している。中国を知らないで、中国の史書は読めないと判断するからである。陳壽は倭人条1986字は会稽か寧波で読めと諭す。それが理解できないようでは、倭人条1986字は読めない。

○ちなみに、これまで、当古代文化研究所では、寧波に9回、会稽に4回訪問している。そうしないと倭人条1986字は読めないと思うからである。陳壽の故郷、南充を訪れたのも、そういう理由からである。南充は嘉陵江の賜物である。そんなことは訪れないと判らない。