古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2025年7月15日、南充を訪れた。せっかくだから、ここで陳壽が「三国志」に記録する三世紀の倭国の状況について、触れてみたい。そういう意味で、これまで、ブログ『陳壽の倭国評価』、『陳壽の倭国観』、『邪馬台国の風景』、『卑弥呼の肖像』、『狗奴国の風景』、『神代三山陵の先坣僑位』、『投馬国の風景』と続けて来た。

○こうなると、どうしても投馬国の内実を探らないわけにはいかない。それで、今回はブログ『住吉三神』となる。具体的には、投馬国がどんな国家であったかについて、述べることになる。一口で言うと、投馬国の宗教が住吉神社であり、住吉三神だと言うことである。

○すでに前回、案内済みだが、まず、ウイキペディアフリー百科事典が案内する住吉神社から見ておきたい。

      住吉神社

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、主に住吉三神を祀る神社。日本全国に約600社ある。

ここでは「住吉神社」を法人名とする神社を記す。

【三大住吉神社】

  ・住吉大社 – 大阪府大阪市住吉区住吉 : 総本社

  ・住吉神社 (下関市) – 山口県下関市一の宮住吉

  ・住吉神社 (福岡市) – 福岡県福岡市博多区住吉

  住吉神社 - Wikipedia

○併せて、ウイキペディアフリー百科事典が案内する住吉三神は、次の通り。

      住吉三神

住吉三神(すみよしさんじん)は、神道で信仰されるである。

日本書紀』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される3神の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。

  住吉三神 - Wikipedia

○このように検証すれば、ウイキペディアフリー百科事典が案内する住吉神社も住吉三神も、住吉神について、まるで学習していないことが判る。第一、住吉神が何処で誕生したかさえ、明らかにしない。それでは本末転倒も甚だしい。

○日向神話の舞台は広い。旧国名では、薩摩国・大隅国・日向国になる。その何処に住吉神が存在し、住吉信仰とは、どういうものであったか。そういうことを考慮しないで、住吉神を語ることは、誰にもできない。当たり前のことである。

○ところが、そういう肝心の話を聞いたことが無い。上記した大阪の住吉大社、下関の住吉神社、福岡の住吉神社のいずれでも、そういう話をなさらない。自分の神社の神様が何処で、どのように誕生したか。皆目、御存じ無い。不思議な話である。

○同じように、住吉三神にしたところで、「古事記」には底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命とあり、「日本書紀」ではそれを底筒男命・中筒男命・表筒男命とすることだけは述べても、それがどういう意味なのかを知らない。実に、不思議な話である。

○そういうことを理解するには、日向神話を研究するしかない。そうすれば、住吉三神とされる底筒男命・中筒男命・表筒男命がどういう神様かが見えて来る。また、住吉神の故郷がどんなところであるかも大事な要件となる。

○何故か、誰もそういうことをなさらないで、堂々と、住吉神社について語り、住吉三神に言及なさる。それこそ、おかしな話である。当古代文化研究所では、長年に渡って、そういう研究を続けている。住吉神を知らないで、住吉神社や住吉三神について語ることは、誰にもできない。

○ここでは十分なスペースが無いので、結論のみを案内するしかない。まず、住吉神の故郷は、前回、案内したように、鹿児島県曽於市末吉町住吉になる。現在でも、ここには、住吉神社が鎮座まします。

○住吉神の故郷、鹿児島県曽於市末吉町住吉を訪れると、ここが 諸県国であって、山背国であることが判る。もちろん、山背国とは、霧島山高千穂峰の東に位置するから山背国であることが判る。ちなみに、霧島山高千穂峰の西側は邪馬台国(大和国)であることが判る。

○もともと大和地名や山城地名は、日向国のものなのである。その境に存在する山が天孫降臨の世界山、霧島山高千穂峰なのである。ある意味、霧島山高千穂峰が最も大きく、美しく見えるところが鹿児島県曽於市末吉町住吉なのである。

○これも結論を述べるしか無いが、住吉三神は、「古事記」や「日本書紀」が述べるような、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命などでは無い。そういうことは、鹿児島県曽於市末吉町住吉を訪れてみて、初めて判る。まさに、「百聞不如一見」なのである。

○住吉三神とは、

  上水流男命

  中水流男命

  下水流男命

の謂いである。つまり、住吉神とは、水神であり、水分(みくまり)信仰であることが判る。そういうことは、住吉神誕生の地、鹿児島県曽於市末吉町住吉を訪れないと、絶対に、理解できない。それが現地現場の強みであることは、言うまでも無い。

○もっと言うと、その住吉神を奉祀する人々の存在を見逃してはなるまい。それが諸県の人々である。後世の八世紀の行政区分では日向国となる。「三国志」の表現では投馬国となる。

○中国の正史「三国志」が案内する倭国も、意外に、詳細な情報を得ることが出来る。それが

ブログ『邪馬台国の風景』、『卑弥呼の肖像』、『狗奴国の風景』、『神代三山陵の先坣僑位』、『投馬国の風景』、『住吉三神』である。

○もっとも、それには、十分な検証が必要であることは言うまでも無い。丁寧な検証を加えない限り、何も見えて来ない。ただ、幸い、偉大な先人が居て、非常に助かる。それが白尾國柱の「麑藩名勝考」であり、「三國名勝図会」、「薩隅日地理纂考」になる。

○最後に。住吉三神、

  上水流男命

  中水流男命

  下水流男命

を斎き祀る神社は、それぞれ、

  住吉神社:鹿児島県曽於市末吉町住吉

  科長神社:都城市上水流町志和地

  住吉神社:宮崎県宮崎市塩路

として、現在も存在することを、当古代文化研究所では確認している。

○知らないことを語っても仕方の無いことである。まずは、しっかり読み、しっかり検証することだろう。当古代文化研究所では、そのために、わざわざ、四川省の南充市の陳壽の故郷を訪れた次第である。

 

○2025年7月15日、南充を訪れた。せっかくだから、ここで陳壽が「三国志」に記録する三世紀の倭国の状況について、触れてみたい。そういう意味で、これまで、ブログ『陳壽の倭国評価』、『陳壽の倭国観』、『邪馬台国の風景』、『卑弥呼の肖像』、『狗奴国の風景』、『神代三山陵の先坣僑位』と続けて来た。

○よくよく日向国を検証すると、そういうことが判る。中でも、白尾國柱の功績は大きい。当古代文化研究所では、その白尾國柱の研究を継承して、真実の神代三山陵比定地を発見したと自負している。それは次のようになる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○それが真実の神代三山陵比定地であることを証明するのが、前回案内した『神代三山陵の先坣僑位』である。『神代三山陵の先坣僑位』なるものを造成した古代人の知恵と信仰心には、脱帽せざるを得ない。ちなみに、『神代三山陵の先坣僑位』とは、次のようなものであった。

  吉野山

  高野山

  熊野本宮

○ところが、同じ吉野山・高野山・熊野本宮が「紀伊山地の霊場と参詣道」と言う世界遺産だと言うのを知って、なおさら、驚いた。世界遺産に申請したのは、もちろん、文化庁だろう。何とも酷い話である。

○文化は耕さないと享受出来ない。したがって、文化を享受するには、日々、耕し続けなければならない。それが出来ないのが日本の文化庁と言うのだから、驚く。『神代三山陵の先坣僑位』を「紀伊山地の霊場と参詣道」などと、とんでもないネーミングをするのが文化庁である。

○日本の文化行政とは、たかだか、こんなものである。底が見えている。おそらく、文化庁には神代三山陵そのものが理解されていない。そういう長年の蓄積が無いから、このようなつまらないことになる。ただ、愚痴を言っても仕方が無いので、この話はこれくらいで止めておく。

○今回お話しするのは、ブログ『投馬国の風景』になる。すでに、ブログ『邪馬台国の風景』、『狗奴国の風景』と済ませているから、その続きになる。三世紀当時、倭国の中心となっていた三国の話の最後になる。

○「三国志」倭人条1986字の記述では、邪馬台国・狗奴国・投馬国の案内は、ほとんど無い。したがって、それを説明補足するには、どうしても日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」に頼るしかない。

○ところが、「三国志」が三世紀の中国の史書であるのに対し、「古事記」や「日本書紀」は日本最古の史書とされながら、実は八世紀の書物なのである。この時代差は大きい。前にも書いたが、現代に於いて、500年前と言えば、戦国時代である。1525年であれば、織田信長もまだ生まれていない。それが「三国志」と「古事記」や「日本書紀」との時代差である。

○それに、「古事記」や「日本書紀」には、八世紀当時の国家が深く関わり合っていて、当時の時代感覚が極めて色濃く反映されていることも見逃せない。歴史は決して、真実では無い。その証拠に、「古事記」や「日本書紀」は、直截に、卑弥呼や邪馬台国に言及しない。

○したがって、「古事記」や「日本書紀」から、邪馬台国や卑弥呼の肖像を描き出すことは、相当に難しい。もともと、「古事記」や「日本書紀」の編者が敢えて隠しているものなのだから。「古事記」や「日本書紀」は、そういうふうにして、読むものなのである。

○閑話休題。『投馬国の風景」 に戻ろう。まずは、投馬国が何処かと言う話から。邪馬台国が薩摩国であり、狗奴国が大隅国なら、当然、投馬国は日向国だと言うことになる。ただ、日向国そのものが時代によって、随分と異なる。

○八世紀以降では、旧日向国は、次の三国に分離する。

  薩摩国

  大隅国

  日向国

ただ、旧日向国の中心は、あくまで、薩摩国になる。そういう意味では、大隅国は熊襲国であって、日向国は諸県国になる。

○後世、日向国の行政府が日向国児湯郡妻にあったことから、この付近を日向国の中心と考える方が多い。しかし、それは、あくまで、新しい日向国が成立した、八世紀以降の話であって、それ以前、日向国の中心は諸県になる。

○誰もそういう話をなさらない。それに諸県がどういうところであり、何処から発生したか。誰も御存じ無い。ここが日向国の中心であったことすら、認識できない。それくらい、日向国は研究されていない。

○スペースが十分ではないので、ここでも、結論のみを案内するしかない。当時の日向国は諸県国になる。諸県国の中心は、現在の行政区分では、鹿児島県曽於市末吉町になる。その諸県国の中心に位置するのが住吉神社である。

○ウイキペディアフリー百科事典が案内する住吉神社は、次の通り。

      住吉神社

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、主に住吉三神を祀る神社。日本全国に約600社ある。

ここでは「住吉神社」を法人名とする神社を記す。

【三大住吉神社】

  ・住吉大社 – 大阪府大阪市住吉区住吉 : 総本社

  ・住吉神社 (下関市) – 山口県下関市一の宮住吉

  ・住吉神社 (福岡市) – 福岡県福岡市博多区住吉

  住吉神社 - Wikipedia

○何ともつまらない案内である。住吉神社について、何もご存じ無い。住吉神社の起源こそが、この鹿児島県曽於市末吉町住吉の住吉山になる。その証拠に、住吉地名には枕詞が存在する。それが「すゑよしの住吉」なのである。もともと、住吉信仰は水神信仰であり、水分(みくまり)信仰なのである。

○つまり、『投馬国の風景』とは、何かと言うことを考えた場合、それは投馬国の名の由来に関するしかないことが判る。投馬(つま)とは東の謂いになる。もちろん、比較対象となるのは山である。山の西側は邪馬台国である。山の東側が投馬国であることは、誰が考えても判る。

○もともと、畿内の大和、山城地名の起源も、当然、ここになる。だから、山城は山背と書く。畿内では、それが逆転して、大和が東側、山城が西側となっている。しかし、本来は、邪馬台国が山の西側、投馬国が山の東側である。

○その山の名は霧島山と申し上げる。天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が降臨なさった山が霧島山の高千穂峰である。その高千穂峰を真北に仰ぐ地が児島県曽於市末吉町住吉なのである。ある意味、霧島山の高千穂峰が最も大きく、美しく見えるところが児島県曽於市末吉町住吉である。

○よくよく日向国を研究すると、そういうことが判る。

○2025年7月15日、南充を訪れた。2015年5月以来、10年振りの南充である。南充は「三国志」をものした陳寿の故郷になる。それで2015年5月に訪れた。当時、書いたブログのテーマも「陳寿の故郷・南充」としている。

○これまで、ブログ『陳壽の倭国評価』、『陳壽の倭国観』と書いて来た。こうなると、実際、陳壽が編纂した、中国の正史である「三国志」から浮かび上がる邪馬台国や卑弥呼像がどういうものなのか、それを説明する必要を感じる。

○それでここまで、ブログ『邪馬台国の風景』、『卑弥呼の肖像』、『狗奴国の風景』と続けている。こうなると、次は当然、ブログ『投馬国の風景』 となるべきはずである。ただ、ブログ『狗奴国の風景』には、何とも興味深い話がある。

○それで、今回は、ブログ『神代三山陵の先坣僑位』と題して、ブログ『狗奴国の風景』の話を続けたい。前回、ブログ『狗奴国の風景』の最後に、こう書いた。

  ・前々回、ブログ『邪馬台国の風景』で案内した邪馬台国の風景に比して、今回の

  ブログ『狗奴国の風景』が神代三山陵であっては、あまりに格差があるではないか。

  そう思われる方は、真実をご存じ無い方である。それが『神代三山陵の先坣僑位』に

  なる。次回はそういう話をしたい。

○前々回、ブログ『邪馬台国の風景』で案内した邪馬台国の風景は邪馬台国三山の風景の話だった。邪馬台国三山とは、次の山々を指す。

  うねびやま=霧島山(1700m)
  かぐやま=桜島山(1111m)
  みみなしやま=開聞岳(924m)

○当古代文化研究所では、毎年、最低でも、一回は邪馬台国三山を訪れるようにしている。邪馬台国三山である霧島山・桜島山・開聞岳は、見る者を圧倒する、何とも壮大な山々である。ここから枕詞「そらみつ」が誕生した意義は大きい。

○それに比して、神代三山陵である、

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

は、何とも、スケールが小さい。比べる方が無理と言うものである。

○ところが、奈良県橿原市に存在する大和三山、

  畝傍山(199.2m)
  香具山(152.4m)
  耳成山(139.7m)

が、何ともちっぽけな山々であることに、驚く。これを「大和三山」と命名すること自体が恥ずかしい。山と言うよりも、それはまるで丘である。

○判るように、本物の大和三山、

  うねびやま=霧島山(1700m)
  かぐやま=桜島山(1111m)
  みみなしやま=開聞岳(924m)

のレプリカが、奈良県橿原市に存在する大和三山、

  畝傍山(199.2m)
  香具山(152.4m)
  耳成山(139.7m)

なのである。あまりの変容に言葉を失う。「万葉集」がこれらの山々を大和三山だと表現しなかったら、おそらく、誰一人、振り向きもしない。そんな山が奈良県橿原市に存在する大和三山なのである。

○閑話休題。当古代文化研究所では、白尾國柱の研究を継承して、真実の神代三山陵を発見することが出来た。その発見を喜び、興奮した記憶がある。しかし、神代三山陵とは、その名の通り、神代のものである。二十一世紀の現代に於いて、それを証明することなど、誰が考えても不可能である。真実の神代三山陵だと言ったところで、誰も認めてはくれない。

○そう思っていた。ところが、世の中、捨てたものでもない。「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったものである。

○2008年ころ、偶々、「日本書紀」を読んでいて、持統天皇の吉野行幸が気になった。持統天皇は、在位九年の間に、都合、三十一回もの吉野行幸を繰り返している。この数字は、どう考えても異常だろう。当時のことは、次のブログに書いている。

  ・テーマ「吉野山の正体」:40個のブログ

  吉野山の正体|古代文化研究所

○何が持統天皇をして、駆り立てて、三十一回もの吉野行幸を繰り返させたのか。それが気になった。スペースが十分無いので、結論だけを述べると、持統天皇の場合、それは祖霊信仰だと言うことだった。

○つまり、持統天皇は天皇家の祖霊である彦火瓊々杵尊の御陵、可愛山陵に見立てて、吉野行幸を繰り返していた。それが「日本書紀」が記録する持統天皇の吉野行幸だと言うことになる。これが最初の発見だった。

○そうなると、近所に、高屋山陵や吾平山陵が存在してもおかしくない。それとも、天皇家の祖霊として、特別に、可愛山陵だけを祀っているのかも知れない。あれこれ探索しているうちに、高野山が高屋山陵だと気付いて、驚いた。

○結果、最後に残った吾平山陵が皆目、不明だった。結局、何度も出掛けたのは、逆に、大隅半島の真実の神代三山陵の方だった。何故なら、大和三山のように、神代三山陵のレプリカを造るなら、全くの相似形として造作するはずだからである。

○そうした最後に出現したのが熊野本宮なのに、なおさら、驚いた。あまりに有名過ぎて、信じられなかった。本当だろうかと、何度も反芻した次第である。しかし、どう考えても、吉野山・高野山・熊野本宮が神代三山陵のレプリカだと確信して、古代人の信仰心に驚き呆れた。

○それにしても、吉野山・高野山・熊野本宮が神代三山陵のレプリカだと言う表現が、何とも物足りない。神代三山陵に相応しくない気がした。それで『神代三山陵の先坣僑位』と改めた。これなら、申し分あるまい。

○この「先坣僑位」と言う言葉を知ったのは、宮崎県日南市飫肥板敷にある日向安国寺墓地で、安井滄洲先生墓碑を探した時のことだった。日向安国寺墓地の安井滄洲先生墓碑は、何とも立派なものだった。建てたのは息子の安井息軒である。

○その安井滄洲先生墓碑の隣に、小さな墓碑がふたつあった。一つが「安井氏先堂僑位」で、もう一つが「知幻童子墓」である。詳しくは、以下のブログに書いている。

  ・テーマ「鹿児島を彩る人々」:ブログ『安井氏先堂僑位』

  安井氏先坣僑位 | 古代文化研究所

  ・テーマ「鹿児島を彩る人々」:ブログ『知幻童子墓』

  知幻童子墓 | 古代文化研究所

○つまり、「先堂僑位」とは、他郷にある者が建てた先祖を祭る墓の意である。神代三山陵に相応しいので、『神代三山陵の先坣僑位』と命名した。つまり、神代三山陵である、

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

の『神代三山陵の先坣僑位』が、

  吉野山

  高野山

  熊野本宮

だと言うことである。何とも、恐ろしい話である。これが古代人の知恵であり、信仰心であることは言うまでも無い。

 

○2025年7月15日、南充を訪れた。2015年5月以来、10年振りの南充である。南充は「三国志」をものした陳寿の故郷になる。それで2015年5月に訪れた。当時、書いたブログのテーマも「陳寿の故郷・南充」としている。

○これまで、ブログ『陳壽の倭国評価』、『陳壽の倭国観』と書いて来た。こうなると、実際、陳壽が編纂した、中国の正史である「三国志」から浮かび上がる邪馬台国や卑弥呼像がどういうものなのか、それを説明する必要を感じる。

○それでここまで、ブログ『邪馬台国の風景』、『卑弥呼の肖像』と続けている。こうなると、もう少し、説明を続けなくてはならない。したがって、今回は、ブログ『狗奴国の風景』と題して述べてみたい。

○「三国志」を丁寧に読むと、「魏志倭人伝」(倭人条、1986字)の主題は、倭国三十国の案内にあると言うことが判る。そして、それは次のように案内される。

  【渡海三国】
    ・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
  【北九州四国】
    ・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
  【中九州二十国】
    ・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
    ・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
    ・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
  【南九州三国】
    ・投馬国・邪馬台国・狗奴国

○前々回、その『邪馬台国の風景』について述べ、前回、『卑弥呼の肖像』について、述べた。そうなると、どうしても、狗奴国の存在が気になる。これまで、多くの学者先生が狗奴国について、言及なさっている。

○それは例えば、狗奴国=熊襲説であったり、熊野説であって、挙句の果ては、東海説まで出現し、驚き、呆れる。どうしても初めに邪馬台国ありきの話では、そういう無理をしないと、狗奴国が説明できない。

○しかし、「古事記」や「日本書紀」を読む限り、狗奴国=熊襲説も、熊野説、東海説も、それが狗奴国だとするには、不十分であることが判る。実際、丁寧に「古事記」や「日本書紀」を読むと、邪馬台国と対峙している狗奴国は、日向神話に頼るしかない。

○既にブログ『邪馬台国の風景』で案内しているが、日向神話を整理すれば、日向神話は次の三つの話に集約される。

  1)天孫降臨神話

  2)海幸山幸神話

  3)神武東征神話

○そう考えると、邪馬台国と狗奴国の争いは「海幸山幸神話」になる。そういうふうに説明しても、なかなか理解していただけない。しかし、南九州で薩摩国と大隅国の仲の悪さは、昔から有名なのである。有史以来、事ある度に、薩摩と大隅は争いを続けて来ている。

○それは現代に於いても、そうである。鹿児島の方に、「薩摩と大隅は仲が悪いですか」と尋ねると、多くの方は「まあね」とおっしゃって否定なさらない。神代の昔から、薩摩と大隅は兄弟分であり、それでいてライバルでもあり、争って来た長い長い歴史が存在する。

○その薩摩が邪馬台国なら、当然、大隅が狗奴国だとするしかない。結論は、そういうことになる。何しろ、日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」が記録していることなのだから。

○そういう意味で、日向国を探求すると大いなる先人が居ることが判る。それが江戸時代の国学者、白尾國柱である。日向国を研究するのに、白尾國柱を抜きに語ることは誰にもできない。その白尾國柱が寛政七年(1785年)に刊行したのが「麑藩名勝考」である。

○白尾國柱の「麑藩名勝考」は名著である。その博覧強記ぶりには驚かされる。彼に教わったことは多い。日向神話を研究するなら、そのベースになるのは、間違いなく、白尾國柱の「麑藩名勝考」だろう。

○その白尾國柱の「麑藩名勝考」がしっかり、狗奴国を記録している。それは次のような記事になる。

  「麑藩名勝考」巻七、

  大隅国部第三

  肝属郡内浦郷小串村

  ○救仁湊(くにのみなと):

    現存六帖○即内浦の湊にて、此処及大崎・志布志等の地を

    救仁院、亦救仁郷と云ふ。

○お分かりだろうか。この地名、救仁湊(くにのみなと)、救仁院、救仁郷は現在でも残っている。現在は、鹿児島県曽於郡大崎町に、「くにの松原」が存在する。漢字に改めると、「救仁の松原」のことである。

○同様に、この辺りには、救仁郷姓も存在する。つまり、「救仁郷さん」が現在でもいらっしゃる。当古代文化研究所の知人にも、「救仁郷さん」が居るから、間違いない。

○白尾國柱の凄さは、そんなものではない。もともと、白尾國柱が「麑藩名勝考」をものしたのは、神代三山陵の研究のためであった。そのことは、白尾國柱が「麑藩名勝考」の序言で、しっかり言及している。

○白尾國柱の神代三山陵の研究にも、見るものがある。ただ、白尾國柱には、江戸時代と言う、時代の壁があった。それを抜きにしても、白尾國柱の神代三山陵の研究は抜きん出ている。当古代文化研究所では、白尾國柱の神代三山陵の研究を継承して、神代三山陵の研究を行っている。

○その研究成果が、次のブログになる。

  ・テーマ「神代三山陵の研究」:16個のブログ

  神代三山陵の研究|古代文化研究所

○現在、宮内庁が神代三山陵の比定地としているのは、次のようになる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○それに対して、白尾國柱は次のように案内する。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○その白尾國柱の研究を継承して、当古代文化研究所が案内するのは、次のものになる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○これが狗奴国の風景である。よくよく神代三山陵を理解していない方には、何のこと判らない。神代三山陵とは、何か。それは天皇家の故郷が神代三山陵だと言うことである。つまり、天皇家の祖先が居たところが神代三山陵の所在地だと言うことになる。

○「三国志」を読んで、狗奴国の名が出現したところで、普通の人には、何のことか、皆目、不明である。しかし、邪馬台国が卑弥呼の国であり、狗奴国が天皇家の故郷だとすると、俄然、話は違ってくる。

○江戸時代の国学者、白尾國柱が神代三山陵を研究し、「麑藩名勝考」をものしたのも、そういう理由からである。なかなか白尾國柱には先見の目がある。日向国を研究しようとすれば、まず、白尾國柱の「麑藩名勝考」を読むことである。

○今どき、神代三山陵を訪れる人も少ない。当古代文化研究所では、毎年、最低でも一回は、可愛山陵・高屋山陵・吾平山陵へ詣でて、そのことを検証し、確認している。知らないことをしゃべることはできないからである。

○前々回、ブログ『邪馬台国の風景』で案内した邪馬台国の風景に比して、今回のブログ『狗奴国の風景』が神代三山陵であっては、あまりに格差があるではないか。そう思われる方は、真実をご存じ無い方である。それが『神代三山陵の先坣僑位』になる。次回はそういう話をしたい。

○2025年7月15日、南充を訪れた。2015年5月以来、10年振りの南充である。南充は「三国志」をものした陳寿の故郷になる。それで2015年5月に訪れた。当時、書いたブログのテーマも「陳寿の故郷・南充」としている。

○これまで、ブログ『陳壽の倭国評価』、『陳壽の倭国観』と書いて来た。こうなると、実際、陳壽が編纂した、中国の正史である「三国志」から浮かび上がる邪馬台国や卑弥呼像がどういうものなのか、それを説明する必要を感じる。

○それで、前回は、ブログ『邪馬台国の風景』と題して、「三国志」が案内する邪馬台国の風景について、述べてみた。「三国志」が邪馬台国だと言うところに広がっている風景が、次の邪馬台国三山の風景だった。

  うねびやま=霧島山(1700m)
  かぐやま=桜島山(1111m)
  みみなしやま=開聞岳(924m)

○もっとも、邪馬台国三山など、誰もおっしゃらない。それは畢竟、誰も「万葉集」など読まないからである。肝心の万葉学者先生がそのことをご存じ無いのだから、致し方無いことなのかも知れない。当古代文化研究所では、そういう研究をしている。

○ブログ『邪馬台国の風景』を済ませたのであれば、次に来るのは、ブログ『卑弥呼の肖像』しかない。「魏志倭人伝」が案内する邪馬台国の女王が卑弥呼である。考古学者先生は卑弥呼がシャーマンだと言って憚らない。

○しかし、よくよく「三国志」を読むと判るのだが、三世紀の倭国を取り巻く状況は、まさに国際社会の只中にある。そんな状況の中で、シャーマニズムなどで国際社会が乗り切れるはずもなかろう。時代錯誤も甚だしい。卑弥呼は当時の時代の最先端に居た女性なのである。

○今回、「旅游巴蜀」旅で、漢中を訪れた。その漢中に30年もの間、平和をもたらしたのが張魯と言う宗教家なのである。その張魯と卑弥呼、陳壽の時代差を考えると、次のようになる。

  張魯( ?~216)

  卑弥呼(170ころ~247)

  陳壽(233~297)

○つまり、張魯と卑弥呼、陳壽とは、それぞれ、一世代ほどずれて存在したことが判る。張魯と卑弥呼は同時代に生き、また、卑弥呼と陳壽も同じ時代に生きている。そういう張魯について、陳壽は、「三国志」魏書巻第八『二公孫陶四張伝』の中で、

  公孫瓚・陶謙・張楊・公孫度(公孫康・公孫恭・公孫淵)・張燕・張繡・張魯

と10人の伝記を載せるが、その最後に張魯伝がある。

○偶々、今回、漢中を訪れ、そのことに気付き、驚いた。「魏志倭人伝」には、『卑弥呼の鬼道』を載せるが、その「鬼道」と言う表現を、陳壽が張魯伝で表現していたのである。迂闊にも、これまで、全然、気付かなかった。

○それで、この話は、次のブログに、丁寧に載せている。

  ・テーマ「旅游巴蜀」:ブログ『張魯』

  張魯 | 古代文化研究所

  ・テーマ「旅游巴蜀」:ブログ『鬼道』

  鬼道 | 古代文化研究所

○卑弥呼が何者か。誰でも気になる。その卑弥呼を規定するのに、最も大事な要件が『卑弥呼の鬼道』であることは、間違いない。卑弥呼は宗教家だったと、陳壽は記録している。

○そういう意味で、邪馬台国三山の存在は大きい。後に、そのレプリカが大和国に作られた。それが「万葉集」でお馴染みの大和三山になる。

  畝傍山(199.2m)
  香具山(152.4m)
  耳成山(139.7m)

○当古代文化研究所ではこれまで、奈良県橿原市を訪れ、八回、実際に大和三山に登り、そのことを確認している。

  第一回  1992年3月28日
  第二回  2003年8月11日
  第三回  2005年5月10日
  第四回  2009年3月29日
  第五回  2010年4月3日
  第六回  2011年5月3日

  第七回  2017年9月5日

  第八回  2022年12月19日

○また、本物の大和三山である邪馬台国三山にも、毎年、訪れ、霧島山と開聞岳には、必ず、登っている。桜島山は活火山で登れないが、『天降り付く天の香具山の風景』を検証するために、毎年、一、二回は訪れている。

○以前、奈良県橿原市を訪れている最中に、唐突に、「大和三山を正式に眺めるところは何処か」という命題が浮かんだ。山は何処からでも眺めることができる。そんな命題など、存在しない。そういうふうにも、考えられるが、実際、大和三山を正式に眺めるところが存在することを知って、驚いた。

○これも話が長くなるので、結論だけを述べるが、大和三山を正式に眺めるところは三輪山山頂なのである。もちろん、三輪山が、大和国一宮である大神神社の御神体であることは言うまでも無い。それに、眺める者も決まっていて、それは大神神社の主祭神である大物主大神となる。

○つまり、大和国を領知する大物主大神が大和国の象徴である大和三山を眺めることが「大和三山を正式に眺めるところ」だと言うことになる。世に言う「国見」である。

○そう考えれば、それは日向国でも同様だろう。邪馬台国三山を眺めるところは何処か。それは鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島の硫黄岳(704m)山頂だと言うことになる。実は、意外なことに、大物主大神は出雲神なのである。
○大物主大神が出雲神なら、大物主大神の故郷は出雲国だろうと、誰もが思う。しかし、出雲神の故郷は出雲国では無くて、日向国なのである。その証拠に、大和国一宮である大神神社と大和三山の関係は、そのまま、日向国の硫黄島と邪馬台国三山の関係と、見事に一致する。

○そして、それを裏付けるものに、出雲に掛かる枕詞の存在がある。出雲地名に掛かる枕詞は「八雲立つ」と言う。次の和歌で知られる。
  八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を
作者は、須佐之男命と申し上げ、天照大御神の弟になる。したがって、日本で最も古い和歌とも言われる。
○スペースが十分に無いので、これも、結論だけを案内するしかないが、出雲地名そのものが日向国のものである。それは大和地名にしたところで、同様である。「八雲立つ出雲」の風景は、現在でも、日向国では、普通に見ることができる。
○今回、ブログ名を『卑弥呼の肖像』とした。もうそろそろその肖像を明らかにすべきだろう。それには、卑弥呼の現住所を知ることで判る。卑弥呼の現住所は、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島字長濱である。
○そういうことは、日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」を読むことで明らかとなる。「古事記」や「日本書紀」も、しっかり、卑弥呼を記録している。それが大山祇神である。ただ、「古事記」や「日本書紀」には、それをぼかそうとする意図も見て取れる。
○したがって、大山祇神は、散々、名前を変えられる。それが上記した大神神社の大物主大神であったり、須佐之男命であったりする。おまけに、大山祇神は、神仏習合の神様であり、仏様だから、なおさら、混乱する。
○逆に言うと、「卑弥呼の鬼道」そのものが、ここで初めてはっきりする。硫黄島には硫黄島三岳が存在する。
  ・硫黄岳(703m)
  ・矢筈岳(349m)
  ・稲村岳(236m)
これと全く同じ風景を奈良県吉野郡天川村大峰山で見ることができる。
  ・大峰山(山上ケ岳:1719m)
  ・大天井ケ岳(1438m)
  ・稲村ケ岳(1726m)
○これが卑弥呼の正体であり、卑弥呼の肖像だと言うことになる。つまり、卑弥呼とは日本へ仏教を勧請した女性であり、彦火瓊瓊杵尊の后、木花開耶姫の親だから、日本の国母だと言うことになる。そして、卑弥呼は現在でも、日本中に祀られている。ただ、誰もそのことに気付いていない。それは日本の歴史が卑弥呼を抹殺しようと目論んでいるからに他ならない。