八郎 22巻


  そして日本は北海道に止まることなく、海外へ向かい次々と植民地を求めていった。八郎と辰子、またアイヌ民族の物語とは直接には関係ないものの、この過程について一通り述べておくことにしたい。

  一八七二(明治五)年明治政府は、九州のはるか南方にある琉球王国を、一方的に日本領であると宣言し、沖縄藩とした。その後一八七九(明治一二)年、今度は軍の力を用いて強制的に併合し、沖縄県とした。 

 それからしばらくして、一八九四(明治二七)年七月から、日本は清国と戦争を行って勝利した。そして清国から台湾の領有を承諾させ、台湾でも戦争を行った末に、併合して植民地とした。

  それに日本は朝鮮半島の支配を狙っていた。そのためにロシアとの対立が生じ、一九〇四(明治三七)年二月に日露戦争が始まった。この戦争で日本は八万人以上もの膨大な死者を出しながらも、なんとか勝利した。 

 その後韓国皇帝が実権を失うと、一九一〇(明治四三)年八月に、日本は韓国を併合し、植民地とした。それから韓国では一切の言論の自由は許されず、民衆は憲兵によって弾圧された。農民の大半は土地を取り上げられ、取り上げた土地は日本人に安く払い下げられた。後の一九三八(昭和一三)年五月に国家総動員法が制定されると、朝鮮半島では学校教育において、母国語である韓国語の使用が禁止され、日本語のみの教育が強制された。また徴兵や徴用工による強制労働、若い女性を連行して、大勢の軍人の相手をさせ性の奴隷とする「従軍慰安婦」などの、数々の非人道行為が行われた。

  一九三一(昭和六)年九月に話を戻すと、日本政府の統制を離れて暴走した関東軍が、自作自演で南満州鉄道の爆破事件を起こし、これをきっかけとして満州全土を占領した(満州事変)。それから関東軍は傀儡の満州国の建国を宣言し、満州を実質支配した。そして大勢の日本人を移民させ、現地の人々の土地や資産を奪い取った。 

 日本の政府や軍中枢は、広大な中国大陸での戦争継続に不安を覚え、もはや新たな戦闘を望まなかったが、事態はその逆に動いていった。一九三七(昭和一二)年七月七日に、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍の小競合いが発生し、それがきっかけとなって日本と中国とは、全面的な戦争へと突入していった。中国では国民政府の蒋介石と共産党の毛沢東が、統一して抗日戦を戦うことで合意していた。日本は中国に短期間で勝利し、降伏させられると楽観していたが、そうはならなかった。上海で日中両軍は交戦し、双方に多数の戦死者を出した後に、日本が上海を占領した。 

 それから日本は中国の首都南京を目指した。しかし既に中国側は政権中枢を内陸の重慶へ移し、主力部隊も南京から撤退させた後だった。一九三七(昭和一二)年一二月に、十万人以上の日本兵が南京を包囲し、数万人の中国兵が守備する市城内へ攻撃を仕掛け、陥落させた。それから日本兵は大勢の捕虜や敗残兵、市民を虐殺し、女性を強姦した。中国側の犠牲者の数は数万人、あるいは三十万人以上とも言われている。

  日本の中国に対する戦争は行き詰まってしまい、日本は資源不足を解決するため、フランス領ベトナムへ侵攻した。そしてドイツやイタリアと手を結んで三国同盟を結成し、とうとうアメリカやイギリスを敵に回すことになった。

  日本は一九四一(昭和一六)年一二月八日に、ハワイ島真珠湾の米軍へ攻撃を仕掛けて、太平洋戦争が始まった。東南アジア・南太平洋の各地へ出兵した日本は、緒戦こそ勝利したものの、広範囲へ拡がった戦線を維持する能力を持たず、アメリカなど連合国軍との実力差は歴然としていた。日本はミッドウェー海戦で敗北し、海軍の主力艦を失った。それから日本軍は占領した太平洋の諸島を次々に奪われ、退却していき、制空圏を失って、本土への大空襲が始まった。

  そして米軍は沖縄へ上陸し、激戦の結果日本の守備隊は全滅した。さらに広島と長崎には原子爆弾が投下された。一九四五(昭和二〇)年八月一四日に、日本は無条件降伏をするに至った。日中戦争から太平洋戦争へ至る間に、中国の軍人や市民の死者数は、数百万から二千万人以上にもなったと推定されている。また日本側の死者数は、日中戦争では四十万人前後、太平洋戦争では約三百万人になったと推定されている。また米軍の死者数は約一一万人と推定されている。 

  このように途方もなく残忍で大規模な戦争を実行した日本に対して、連合国側は紳士的に占領策を実行した。彼らは日本に対しては、日本が戦時中に宣伝したような、「鬼畜米英」などではなかったわけである。それでも四十万人もの米軍・英軍を主体とした連合国軍が到来して、日本全国に占領軍として駐留した。GHQ(連合国総司令部)は、戦犯を指定して裁判にかけ、死刑を実行していった。また日本の軍国主義を廃するため、国の制度から人間の精神面に至るまでの改変がなされていった。 

 日本国憲法が大日本帝国憲法に代わって、新たに制定された。また天皇制は廃止されなかったものの、天皇はもはや実権を持たず、象徴とされた。民主化政策が実行されていって、教育制度が改革され、それに財閥が解体され、農地改革が断行されていった。これらのような改革の結果、日本は復興可能となり、その後朝鮮戦争による特需やインフラの再整備などの需要のため、経済は急速に復興していった。こうして日本は戦後の困窮を克服することができたのであったが、戦時中に犯した大きな罪について、償いを果たしたとはとても言い難いだろう。 


(次週に続く)