その次には辰子が拡声器を手に握って、皆に向かって話し始めた。
「皆さん、私たちは田沢湖から来ました。
田沢湖には戦争中の昭和一五年に、軍の始めた事業で、玉川の強酸性の水が入れられ、魚たちは皆死滅してしまいました。
それまで魚の大きな群れが、生き生きと泳ぎ回っていた水中に、魚が一匹もいなくなって、空っぽの死の湖に変わってしまうと、その寂しさ、悲しさは耐え難いものです。そんな田沢湖を見てきた私たちにとって、八郎潟の生きものたちの賑わい、豊かさは、あまりにも素晴らしく、貴重なものなんです。
もし八郎潟が干拓されてしまうと、そんな潟の貴重な自然は喪われてしまい、もう戻ってはきません。
そうなってしまってからではもう遅く、どんなに取り戻したいと思ったって、もう取り戻すことはできねえんです。
だから皆さん、どうか今頑張って、八郎潟干拓を中止させ、潟を存続させて下さい。お願いします!」
座り込んでいる皆は、この辰子の演説を聴いて、その通りだと思ってうなずいて、「パチパチパチパチ」と拍手をした。そして皆はそれまで厳しい顔をしていたのだが、二人の応援演説を聞いて、少し安心する思いがして、顔がほころんだ。しかしその時、路上の遠くの方から、厳しい声が飛んできた。
「おれたちはもう負けそうなのに、そんな理想論をいくら拝聴したって、何の足しにもなりゃしねえんだよ!」
八郎と辰子はぎくりとして、お互いに顔を見合わせた。たしかにこの罵声の言う通り、国家が干拓の実現を目論んで、政財界や国際社会までも味方に付け、干拓反対の漁師たちはもはや多勢に無勢であった。八郎と辰子は胸の中に、何か恐怖に似たものがこみ上げるのを感じていた。
それからも八郎と辰子は、頻繁に反対派の人々と会って応援し、励まし続けた。しかし干拓推進派の側は、着々と干拓実現に向けて手を打ってきた。八郎潟干拓協議会が相次いで開かれ、各町村の議長や農協の組合長は、次々に干拓推進を決議した。その後なんと世界銀行の調査団がやって来て、現地を視察し、莫大な金額の融資を決定した。
そして追い詰められた干拓反対派は、とうとう干拓阻止を諦め、作戦を変えて中央に湖の残される、沿岸干拓にすることを主張した。しかし推進派の圧力によってそれも不可能となり、とうとう湖の大半が潰される全面干拓を、呑まざるを得なくなった。そして漁業補償問題の検討が始まることとなった。
八郎と辰子は必死になって抵抗した。干拓を推進する政治家や官僚たちの夜見る夢の中に現れ、干拓は非道な自然破壊であること、そして漁業の断絶による経済的不利益はあまりに大きく、米の生産による利益はそれを埋め合わせるには不足である事を説明した。しかし彼らの意思は干拓実現に凝り固まっており、聞く耳を持たなかった。それに彼らはそもそも神や仏のお告げを信じる習慣など持っていないので、八郎や辰子が夢に現れた事自体を、気にも留めなかった。
そうなると八郎と辰子の最後の頼みの綱は、仲間である八郎潟の漁師たちであったが、彼らももう二人の夢のお告げに、聞き従っている訳にはいかなかった。八郎潟の干拓実行はもう多数決で決まってしまい、抵抗しても無駄であった。そして漁師や漁業関係者たちは、干拓が実行された後の生計の立て方を考えねばならず、行政側との補償金交渉に全力を上げねばならなかった。だから彼らは、いつまでも干拓阻止にこだわる八郎と辰子の言い分に従って、抵抗運動を行う事はもうできなかった。こうして八郎と辰子は社会の人間たち全てから裏切られてしまった。そしてなんとか八郎潟干拓を中止させようにも、二人には誰も仲間がおらず、干拓実行に対して為す術がなかった。
干拓計画は着々と進められ、とうとう昭和三三年四月に、潟の西部沿岸の堤防工事が開始された。それに先立つ昭和三二年一二月には、もう国と主だった漁民たち三千人との間に、総額一六億九千万円で漁業補償が妥結されていた。そして干拓地の試験堤防の工事が実施され、それから広大な中央干拓地を取り囲む堤防の造成が始められた。また海からの潮水の流入を止める、防潮水門も建設されていった。
そして中央干拓地の堤防が完成し、広大な水面が囲い込まれると、昭和三八年一一月に排水機場の巨大なポンプが稼働を始め、ついに干拓地の水抜きが始まった。水深の浅い八郎潟の水抜きは意外に早く、どんどん湖底の泥地が顔を出していった。
その光景を見ている八郎は、断腸の苦しみを味わわなくてはならなかった。八郎にとって自らの家であり、数限りない魚類と鳥類という家族と共に暮す八郎潟を、何百年もの昔から、代々の漁師たちと苦楽を共にしてきた八郎潟を、じわじわと滅ぼされていく苦しみは、まるで地獄の責め苦のようだった。
八郎は水抜き工事がほぼ完了し、湖底の灰色の泥が露出して、ずっと遠くの地平線の近くまで、一面に続く光景を眺めていた。するとどうしょうもなく涙が込み上げてきて、八郎は泣き始めた。八郎の隣には辰子がいたが、嗚咽する八郎を辰子は慰めようがなく、どうすることもできなかった。
八郎は見るも無残な姿となった八郎潟を、もうそれ以上眺めていることができなかった。それで八郎は龍の姿に変わると、空へと舞い上がり、潟を後にして田沢湖へ向かい、飛び始めた。八郎に続いて辰子も空へ舞い上がり、田沢湖へと帰っていった。八郎はこんな酷い目に遭った八郎潟をもう見たくはなく、二度と潟へ来るつもりはなかった。
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このようにして八郎潟は、湖の南側に残されたわずかな面積の調整池を除いて、全体の五分の四が干拓地に変えられた。そして防潮水門にょって潟は日本海と遮断されてしまい、もう海水と淡水が混ざり合って豊かな漁場のつくられることはなく、太古から今に至るまで続いてきた潟の伝統ある漁業は、おおよそ壊滅させられてしまった。
それから広大な中央干拓地には、「大潟村」という名称の新たな村が発足した。広い泥の地面には碁盤の目のように直線の道路が敷かれて、圃場(田)の造成が進められた。それに巨大なカントリーエレベーター(米の貯蔵庫)が建てられた。また役場の建物も建てられ、入植者の暮らす住宅も次々に建てられ、入植者の子供たちの通う小学校や中学校も建てられた。そして第一次から第五次にわたって、入植者の募集・選抜が行われ、選ばれた人たちは順次入村して研修を受け、やがて稲作を開始したのだった。
しかし入植者たちが取り組んだ、海水面下に広がる軟弱な泥地での稲作は、困難の連続だった。省力化のためヘリコプターで直播きされた種籾は、泥に埋もれてしまい、発芽しなかった。そして結局直播きを諦めて、人手をかき集めて苗の手植えをすることになった。また持ち込まれた大型トラクターなど農業機械は、深い泥地の中で、しばしば埋もれて身動きが取れなくなり、掘り出さねばならなかった。しかし入植者たちは、そのような苦難に遭っても諦めることなく稲作を続け、どうにか成功にこぎつけ、採算を得ることができるようになった。
八郎と辰子が八郎潟を去ってから、三年ほどの歳月が流れた。八郎潟を潰された八郎の悲しみや怒りは、癒されようがなくまだ続いていた。しかし八郎は同時に、潟周辺に暮らす元漁師の住民たちや、残存湖に生きる生きものたちが無事にやっているのか、心配でもあった。それに船越の八龍神社や天王の東湖八坂神社では、今もなお八郎のための祭事が、欠かすことなく続けられていた。
そこで八郎は、自らの抱える怒りや悲しみはぐっと堪えて、八郎潟と周辺に暮らす人々と生きものたちの様子を見るため、度々八郎潟へ通うことにした。そして困ったり悩んだりしている人間がいれば夢のお告げで相談に乗り、また魚たちや鳥たちなど生きものたちの面倒も見ることにした。それに八龍神社や東湖八坂神社にも度々立ち寄り、祭事にはちゃんと出席することにした。このようにして八郎は、八郎潟の主に復帰したのである。そしてそれからさらに六十数年の年月が流れて、現在にまで至っている。
(なお、田沢湖では一九九〇年代以降、水質改善事業が行われ、その結果現在、ウグイ、コイなど一部の魚種が戻ってきている。また八郎潟では干拓工事後、漁業が完全に終結した訳ではなく、規模は小さいものの続けられ、ワカサギ、シラウオ、フナなどが漁獲されている)
八郎には現代の社会を生きる我々日本人に対して、言いたいことが山ほどある。それらの全てをここに書き連ねることはできないが、ほんの一部なりとも、述べておこうと思う。
「現代の人間たちは、霊の存在について何も知らないし、気付いていない。だが現代人が、霊の存在とは迷信に過ぎない、と思っているのは間違いであり、ちゃんと霊は実在するのだ。
すなわち八郎太郎と呼ばれるこのおれは、伝説・言い伝え上の存在なのではなく、まぎれもなく霊的な実在者なのである。それに辰子もまたそうなのであり、十和田湖の南祖坊だってそうである。おれたちに限らず、八百万(やおろず)の神や仏たちとはちゃんと実在している。また人間には霊魂というものがあり、肉体の死後も生き続けるのだ。それに動物たちだってそれぞれに霊魂を持ち、死後も生き続ける。それだけでなく、土地や家に住み着く精霊や霊魂たちだって実在しているし、また悪事をはたらき人間を苦しめようとする、悪い妖怪たちだって、ちゃんと実在している。
このように神や仏がいて、人間や動物の霊魂があるということは、霊界や死後の世界があることを意味している。人間の一生は短く数十年しかないが、死後の世界は長く、測り知れない時間の先まで続いている。だから人間は死後の世界で地獄に落ちたりせず、より幸福に過ごせるように、生存中には責任ある人生を送らねばならない。そのためには何よりも、人間と動物を含めた他者の生命と権利を尊重して生きねばならないのだ。
日本人は明治維新以降、生命のかけがえのない価値を説く仏教の教えを軽んじ、忘れ去ってしまった。日本政府は維新後すぐに『神仏分離令』という法律を発したが、これは日本人の生活から、仏教による倫理や規範を引き離すものとなった。
その結果としてその後日本は軍国主義への道を進み、日中戦争と太平洋戦争という、途方もない規模の侵略戦争を引き起こし、数限りなく大勢の他国と自国の兵士や市民の犠牲者を生じさせてしまった。それから日本は敗北し、連合国側に無条件降伏して、軍国主義は終焉を、迎えた。そしてアメリカなど占領国の指導により、日本は平和国家となった。
こうして軍国主義が終わった事それ自体はもちろん良い事だった。しかし日本人の抱える、霊と生命の価値の忘却という過ちは、まだ治ってはいない。そして戦後にはそれによって、物質主義、自然破壊と環境汚染、動物たちを閉じ込めて苦しめる家畜工場など、様々な問題いが生じてしまっている。
こうして生じた生き過ぎた開発による自然破壊の代表例が、八郎潟の干拓なのである。八郎潟の干拓は戦後すぐの高度成長期初期に実行されたのだが、その後時が経っても、自然破壊は止まることはなく、ずっと続いている。その例としては、例えば一九九〇年代に工事の行われた、九州の『諫早湾干拓事業』を挙げることができる。
現代には環境問題や自然破壊の問題の他にも、地方の過疎化問題など、様々な難題が山積している。これらの問題を解決するためには、生活の便利さと効率ばかりを追求してきた、これまでのやり方を改め、大きく発想を転換した暮らし方や事業の有り方が求められる。それは文化や霊たち、自然界や動物たちに目を向けた、他者を思いやる暮らし方や事業でなければならないだろう。
これを実現するためには現代人にほ、明治維新より以前の人々には常識だった、民俗的なまた宗教的な深い感受性が、取り戻されなければならないのである」
(終わり)