おれは魔法を用いて、櫛名田姫を小さな櫛に変えると、その櫛を自分の髪に差して隠した。それから大蛇を倒すための計略に取りかかった。おれは老夫と老女に、八回重ねて醸んだ強い酒を作らせた。また垣を作って周囲に張り廻らせ、その垣には八つの門を作り、各々の門には桟敷を備えて、その八つの桟敷にはそれぞれに酒舟を置くように命じた。そしてその八つの酒舟には、出来上がった強い酒をたっぷり盛らせて、大蛇を待ち受けた。

  少しの間待つと、八つの谷と八つの丘にまたかり、地を這って、八俣の大蛇は本当にやって来た。そして大蛇は各々の頭をそれぞれの門に入れ、酒舟の中に突っ込んで酒を飲み始めた。しばらくするとたらふく飲んだ大蛇は、そのまま酔っぱらって深く眠り込んだ。そこでおれは十拳の剣を抜くと、大蛇をずたずたに斬っていった。

  こうして八俣の大蛇は死に、大蛇の身体からは夥しい血が流れ出て、肥の川は真っ赤な血の色で染まったんだ。

  こんなふうにしておれは大蛇から櫛名田姫を救い出すことができた。それからおれは須賀という場所に、姫とおれの新婚の宮を造った。そしておれたちが出来上がった宮に住もうとして、移ってきたとき、にわかにその上に、幾重もの雲が立ち昇った。その雲の様子は、まるでおれの妻が籠る宮を、湧き出る雲が八重垣を作って、護ってくれているように見えた。


  その後おれはこの出雲の地を治め、櫛名田姫を初めとして幾人もの奥さんを持ち、多くの子供に恵まれて、幸せな日々を送った。そして年老いた後になって、おれは若い頃の願い通りに母の地下の国へ移り、それからは心安らかに過ごして今に至っている。 


  こうして須佐之男は話し終えたが、八郎には再び疑問に思うことがあったので、質問をした。

 「ちょっと教えてくれ。 

 あんたはその八俣の大蛇を、だまし討ちにして倒したようだが、そのやり方は果たして正義にかなっていたといえるのか。 

 それともあんたは、正義がどうてあるのかはお構いなしに、ただ単に悪知恵で八俣の大蛇を上回っていたために、奴をだまして倒すことができただけなのか?
 つまりあんたというのは、真心からの正義を持った神なのか、それともそうではなく、はっきり言えば悪い神なのか、それを教えてほしいんだ」 

 こう聞かれて須佐之男は、少々不機嫌な顔になりながら答えた。

 「おいおい、おれの今までしてきた話を、もれなくしっかりと聞いていれば、おれが正義の真心を持つ神だということは、ちゃんと分かったはずだぞ。 

 おれは人間ではなく神なのであり、おれの行った八俣の大蛇退治も、人間のやるようなだまし討ちとは全く違ったものだった。 

 すなわち人間たちは、おれがやった大蛇退治を、だまし討ちだと考えてはならず、これが文化的に、あるいは政治的に行われたと、解釈するへきなのだ。

  それにしてもおれが真心に正義を持つ神だということは、いったいどうしたら納得してもらえるのだろうか。これについて説明しようと思う。

  まずおれは高天の原でひどい悪事をはたらいたものの、それらの罪についてしっかりと咎められ、相応の罰を受けている。つまりおれは野放しで悪をはたらく神なのではなく、きちんと罪を償ったのであり、反省をした神だといえる。 

 また八俣の大蛇を倒した後、おれが建国した出雲の国は、皆が仲良く集うことのできる良い国となった。これはおれがもし悪い神であったなら為しえず、おれが正義の神だったからこそ、実現可能なことだったといえるのだ。

  八郎さん、あんたはおれのことを、悪い神ではないかと疑っているようだけど、今は決してそんなことはないんだ。少しはおれのことを信用しろよ」

  こう言われて八郎は、

 「まあ、よかろう。 

 あんたを信じることにしよう」と答えた。すると須佐之男は話を続けた。

 「それにしてもなぜ和人たちは、あんたが主をしているこの八郎潟までおれを連れて来て、ここの祭神に祀り上げようとしているのだろうか。その理由は、今まで話したおれの神話と、あんたのこれまでの歴史的経験とが、よく似ており共通点が多いためなんだ。つまりそれはおれとおれが倒した八俣の大蛇と、それにあんたとが、皆それぞれに稲作への敵対者だったという事なんだ」


 (12/30) 

「神話をよく調べてもらえば分かるが、一連の話の隠れた主役は『稲作』であり、おれは稲作が嫌いだったために、天照大御神の田を壊して嫌がらせをはたらいたのだし、また八俣の大蛇が、足名椎・手名椎の営む田からの収穫を狙って、略奪をはたらく妖怪てあったことも明白なんだ。

  それではあんたはどうだろうか。あんたはエゾの民の昔からの生き方、野や山で獣を狩り、川で魚を漁る暮らしをあくまで続けようとして、広い田を造って暮らす和人の生き方に、ずっと反対してきたじやないか。このようにあんたとおれと八俣の大蛇とは、稲作による秩序への敵対という、同じ神話を共有しているんだ」

  須佐之男は少し黙って、にやりと笑ってから、話を続けた。

 「そこで和人たちは、よそ者の外国の神であるあんたに、この神話をなぞらえて和の神の役を与えることにした。つまりあんたに、八俣の大蛇になってもらうことにしたんだ」

  これには八郎も呆れ返ってしまった。

 「あのなあ、なんでこのおれが、そんな極悪の妖怪の役を引き受けねばならんのだ? 

 もちろんおれはお断りするよ」

  須佐之男は言った。

 「まあ、和人たちが八郎さんを八俣の大蛇にならせたいのは、彼らの持つ根強い差別意識のせいだといえる。和人は自分たちの仏教と神道の価値観こそが正しくて、世界の中心にあると考えている。そして外国の神であるあんたは、この価値観にとって外道すなわち邪魔者であり、出しゃばられては困ると考えてもいる。そこで悪い妖怪で敗北者である大蛇の役を、あんたに押し付けることによって、自分たちが中心であるという身勝手な信念を、守ろうとしているんだ。 

 ただしこれは建前上のこと、和人の体面を守るための形式であるに過ぎない。つまり和人たちだって、この八郎潟の本当の主が八郎さんであることはちゃんと承知しているし、あんたを退治しようというつもりは全くない。それにこの船越の対岸に建てられようとしているおれの社には、おれは時々しか来る予定はないんだ。つまり八郎さんは、これまで通りこの八郎潟の主として、羽後地方の平和と繁栄を護る責任と権能とを持ち続けることになる。

  そしてあんたが大蛇の役を引き受け、和人の体面を守ってやることによって、あんたは大きな恩恵を受けることができる。それはあんたが、仏教による多くの知恵の宝を得られるということなんだ。たった今おれは、和人たちが仏教中心の価値観による差別意識を持っていると言ったが、そんな差別意識を抜きにして考えれば、仏教は良いものであって、学び従うに値するものだ。 

 かく言うおれは日本神話の神、健速須佐之男なんだが、実は同時に天竺の祇園精舎を護る神、牛頭天王でもある。なぜそうなったのかと言うと、おれは和人たちから牛頭天王になって欲しいと頼まれ、承知したからなんだ。そしておれは仏教の様々な経文や説話を読んで教理を学び、知識を得て、仏の国土と衆生の悟りの道を護る神として、使命を果たすようになった。
 八郎さん、これはあんたに無関係な話ではなく、是非あんたにも、そうなってもらいたいんだ。そしてきっとあんたが仏教を学んでいくという事は、あたかも輝く財宝を見いだし、我が物にしていくような、そんな素晴らしい経験になると思うんだよ」 

 こう言われて八郎は困惑してしまい、悩みながら答えた。
「いや、おれは止めとくよ。 

 おれは今まで通り、エゾの神としてエゾの民の面倒を見ていければ、それで良いと思っているんだ」 

 「しかしそれでは、あんたの今後の命運は開けぬままになってしまう。もう既にエゾの民は日常に和の言葉を話し、エゾの言葉を忘れてしまいつつある。そしてもしかするとこれから彼らは、あんたという神の存在を、忘れ去ってしまうかもしれないだろう。 

 しかしエゾの民がこれからも団結を忘れず、まとまって生き抜いていくためには、彼らにはどうしても八郎さんという神が必要だ。つまりエゾの民の未来にとっても、また八郎さん自身にとっても、あんたが和の言葉で祀られ、和の神として生き延びるという事が必要なんだ」 

 すると八郎は言った。

 「おれは自分がエゾの神でなくなり、変わっていってしまうのが一番辛い。だがもう既に時は流れてしまい、おれたちの時代は過ぎ去ってしまった。

  それでもおれにとっては、これまでずっと続いてきた、かけがえのないエゾの民の生き方を、守り続けるということこそが、一番大切なんだ」 


 (2026/1/6)

 「仏教には『諸行無常』という言葉があるんだが、この言葉の通りに民の生き方も、また神自身の有り様も、時が過ぎるのに伴って変わっていってしまうものだ。

  八郎さんは、エゾのこれまでにあった伝統は、かけがえがないと言う。しかし八郎さんのその過去への思いと同じ思いを、以前にはおれも持っていたんだ。おれが神として生まれる前、母の国は地下にではなく、まだ地上にあったんだが、そこは美しくて何もかもが素晴らしく、おれが生きていた現実の世とは全く違っていたと言い、おれはそこへ行ってみたくてたまらなかった。

  だがおれの生まれた時には、もう母の国は地下へ下りてしまって、様変わりしていた。そしてその後時が移るにつれ、おれ自身も変わっていってしまった。元々おれは出雲の国を治めていたのだが、それから和の国の面倒を見るようになって仏教の勉強をし、その後もずっと国の有り様の移り変わりを眺めてきた。しかしその間に、おれは過去の大切な想い出を忘却してしまったし、それにすっかり年を取って、変わり果ててしまった」

  八郎が須佐之男を見ると、若いと思っていたその顔は、いつの間にか白髪白鬚の何歳かも知れぬ老人に変わっていた。そんな須佐之男は、八郎を眺めながら言った。 

「八郎さん、おれが話したことをよく考えてもらい、すぐにではなくてもかまわんので、是非とも良い返事をもらいたいと思う。 

 今宵はおれの長い話を最後まで聞いてくれて、どうも有り難う。 

 では、御機嫌よう」 

 こうして話を終えた須佐之男は、立ち上がると社の外へ出て、帰っていった。 


  その後八郎は、須佐之男の提案についてどうすれば良いのか分からず、ずっと思案し、悩み続けた。確かに須佐之男の言う通り、もうエゾの民は日常に和の言葉を用いていて、エゾの言葉は忘れられつつあり、それと同時にエゾの神話が謡われることや儀礼が行われることも、少なくなってしまった。だから八郎が皆から忘れられないためには、何らかの手を打たねばならず、もはや和の神の仲間となり、和の言葉で祀られなければ、生き残るのは無理だと思われた。 

 しかしそうなるためには、血塗られた妖怪八俣の大蛇の役を引き受けるしかないというのは、あまりにも屈辱的であり、腹立たしく惨めであった。ただし八郎は、もし大蛇の役を引き受けた場合に相手役となる、須佐之男命については好意を持っており、きっと良い仲間になれると思っていた。それに須佐之男の言った通り、仏教を学んで新しい世界を知っていくという事については、大きな可能性があると感じられた。

  これらのような様々な事柄について思い悩みつつ、数ヶ月が過ぎた。そしてとうとう八郎は、須佐之男の提案を受け入れることを決心した。それは八郎が和人の世間に入っていき、居場所を見いだす方法が、他に何も見つからないためだった。つまりこれまで八郎がずっと面倒を見てきたエゾの民の、また八郎自身の未来のためには、他には選択肢がなく、八郎が八俣の大蛇になるしかなかった。 

 須佐之男が再び八郎潟にやって来た時、八郎は船越からは水道を隔てた東側にある、新たに建てられた須佐之男の社を訪ねた。そして出迎えた須佐之男に、自らの決心を伝えた。須佐之男は八郎の言うことを聞いて喜び、その後で二人は共に和人たちの祭事に出席して、彼らの儀礼を受けた。


  この事があって後、東北地方の各地を巡る修験者たちや聖(ひじり)たちは、エゾの龍(大蛇)である「八郎」あるいは「八郎太郎」についての一連の伝説を、人々に話して回るようになった。するとそれらの八郎伝説を聞いた、今は和人となったが先祖はエゾであった人々は、自分の家系がかつてはエゾだったことを思い出し、先祖たちの暮らしや以前は信仰していたエゾの神たちに、強く思いを馳せるようになった。 

 しかし彼らはもうエゾの言葉も儀礼も分からないため、過去の信仰を実践することができなかった。そしてその代わりに和の神となった「八郎」「八郎太郎」を、熱烈に支持し、信仰するようになり、羽後の国や陸奥の北部では、八郎への信仰は広範囲に広まっていった。そしてそれらの各地の「元エゾ」の人たちは、それぞれに自分たちの故郷こそが八郎の出身地であると主張し、それぞれに八郎の話を物語るようになったため、各地に「八郎伝説」が林立するに至った。

  こうして八郎はもはやエゾの神ではなく、和の神として復活を遂げた。そして八郎潟の主としての、八郎の地位も安泰であった。しかしそれまで八郎潟周辺や北方の山間部で生き延びていた、エゾの言葉を話し儀礼を行うエゾの民は、それからしばらく後に、皆もうエゾの言葉を話さなくなり、和の習俗によって生活するようになった。そして津軽海峡の沿岸部を除いて、東北地方のエゾの民はもうほとんどいなくなってしまった。(しかし東北地方の各地に伝わる「山男・山女伝説」からすると、その後なおもエゾの民は細々と存続していたようである)


 (第三部終わり。第四部の連載開始までは、しばらく時間がかかります)