「大化改新」論(五―三)
――「原詔」の検証――
一、「郡・評論争」
「改新の詔」の潤色問題から、一時「大化改新」否定説へまで発展した「郡・評論争」について検討を加えたい。
ⅰ坂本太郎氏と井上光貞氏との間で繰り広げられた「郡・評論争」は戦後古代史研究最大の論争としてつとに有名である。結果は、その後藤原宮跡から出土した木簡などから、地方は七〇〇年までが「評」であり、七〇一年からが「郡」であったことが判明した。井上氏の主張通りであった。
これにより、「書紀」に多く見られる「郡」の文字に対する不審が生じ、前述のような潤色疑惑や否定説が論ぜられるように拡大していったのである。
ⅱ一方、坂本氏からは「では何故書紀編者は、評ではなく郡と書いたのか」との疑問が再提出された。これに対しては「原詔」が判明しなければ明確な回答は成し得ない、との見解が多く示されたまま、約半世紀が過ぎようとしている。
ただ、九州王朝実在説を採る多元史観論者からは「九州王朝の存在を隠すことが書紀の基本方針だから」との説明で、ほぼ割り切られている。しかし、それは本来どのように記されているべきものなのかなどについての突っ込んだ議論は見られない。
ⅲ「郡司」の実態
(一)地方が「郡」ではなく「評」であったことにより、「郡司」の名称は正しくなかったことは確かである。では「郡司」を「評司」と書き換えればよいかと言えば、それもまた正しくないと思われる。何故なら実際に「立評」後に現れる史料に出てくる名称は、「皇大神宮儀式帳」などで見られるような「評督」や「助督」等であり、「評司」といった名称は全く見られないからである。
前稿(五―二)で論じたように、地方を統括・統治する者が「郡司」とするのが「詔」の本旨であったとすれば、この「郡司」たるものに与えられた名称こそが「評督」であったのではなかろうか。
即ち地方の行政組織は、それまでの各豪族支配を解体し、最小の組織を「五十戸」単位で一つの「里」を構成し、「四十里」以下で「大評・中評・小評」が構成された。その際、「里」毎に「長」が置かれ、「評」の大きさにより「大領・小領」が置かれた。それらの「大領・小領」をまとめるために「惣領」が置かれた。この「惣領」に中央の地位を与えるため「評督」と任ずることにしたのではないか。
(二)何故「評督」とせずに「郡司」と書かれているのか
ア、地方を「評」としたのは、この「詔」によるものである。それ以前の「国造」という豪族支配による時代に「評」という概念は存在しない。「官道整備」という大きな政策目標によって、その事業の迅速化のため、地方の支配体制を大きく変化させる必要が生じた。このためにこそ、地方の支配体制は豪族支配から、「評督」支配体制へと転換させられたのである。地方に対する新たな呼称が必要となり、その呼称が「評(こほり)」であり、そこを「とりしまる」のが「評督」とされたのである。
一方で、この「詔」を発したのは、その時の宗主国であった「九州王朝」であった。即ち「評」を定めたのは、古田武彦氏も言うように「九州王朝」そのものであった。しかし「書紀」が「評督」と書くことは、「評」とは何か、との問題を表面化させることを意味する。そのために「評督」と書くことができなかったのである。裏返して言えば、「評督」と書けなかったことが、他王朝=九州王朝の存在を認めていたことに他ならないのである。そのため、中央の「国司」に対応する用語として「郡司」なる用語が選ばれたものと考える。
イ、このことは、二項本文の信憑性に係るものではなく、単に一つの職掌に関する用語の書き換えに過ぎないことを意味する。そのような理解によってこそ、これまで述べてきたような「原詔」の存在と何らの矛盾もない整合が図れるのである。
逆に、このことを以って「改新の詔」の存在を否定しようとするのであれば、「乙巳の変」以降、緊迫する東アジアの情勢を踏まえて、倭国はどのような政治運営をしようとしていたのか、根本的な説明が必要となろう。ただ単に、「郡司」や「町段歩」の文字のみに囚われて、本質的な政治・政策の実態を見誤ってはならないと考える。
かつて坂本太郎氏はその著書「大化改新の研究」で、「改新詔は政策大綱」との見解を示された。極めて大局に立った見解であると考える。「郡評論争」の結果、氏の見解は顧みられることがなくなっていたが、改めて氏の見解の大きさを見直すべきものと考える。
ウ、「詔」と「評制」施行時期
この「評制」が実際に何時施行されたのかについては、必ずしも明らかではない。
正木裕氏は、「伊勢神宮の『皇大神宮儀式帳』『神宮雑例集』や『常陸国風土記』から、常色三年(六四九)ごろ、全国に「評制」が敷かれた」との見解を示している(「古代史の争点所収『九州王朝の全盛期』一四一頁」)。
確かに「詔」を発出したからと言って、直ちに全国一斉に「評制」が敷かれたとは考えにくい。そもそも、「評制」施行が「官道整備」を行いやすくするための地方統治機構の大幅な改正、との私見の立場からは、道路整備の順番によって随時「評制」は拡大していったものと見て良いものだからである。
地方の一斉の改革は、逆に地方の豪族や農民たちの不安を掻き立てるだけであり、実際にはモデルともなるべき地区の整備を行い、その実績を各地に浸透させる遣り方の方が、スムーズに事業を進捗させたのではないかと考えられる。
このように考えると、正木氏の六四九年説は魅力的ではあるものの、それより以前に着手され、六四九年時点ではかなり「評制」が確立されてきていた時点とも言いうるのではないか、とも思われる。
三、では「助督」とは何か。
前述の伊勢神宮の『皇大神宮儀式帳』には「評督」のほか「助督」の記述が見られる。「評督」については、「都督」の用語に置き換えられて「書紀」の「詔」に記されたものであることを述べてきた。その一方で「助督」に対応すべきと見られる職掌等を「書紀」の「詔」に見ることができない。そのため「助督」については、その内容を推認するほかはない。
用語から見て「助督」は「評督」を手助けする存在と考える。即ち補佐的役割である。「大領・小領」の代表者が「惣領」となり、かつ中央官人として「評督」となった時、それを補佐する人物としては、「評督」自身が信頼できる人物を指名できたと考えるのが最も合理的だと思われる。それは必ずしも他の「大領・小領」から選ばれることを意味するものではなく、中央で一定の縛りをかけることを必要としないもので、「評督」の意思に任せることを意味していたのではないかと推論する。
四、以上「大化改新」論(五―二)及び本稿の検討から、「郡司」を「評督」に置き換えれば、二項本文及び副文ⅰ・ⅱについても「原詔」であったものと考える。
五、新システムに基づく中央と地方を結ぶ行政組織の解明
(一)「詔」は「官道整備」や「軍事増強」という目標のため、「校田・造籍」などの事業行う必要から、地方の豪族支配を打破し、中央直轄の支配へと大転換を図る地方行政組織(国―評―里―五十戸)の新たな制度を創設するものであった。そこには中央の行政組織に関するものは基本的に見られない。
しかし、このような国家的大事業を進めるために、地方との軋轢を乗り越えるには、中央から地方への人の派遣がなければならないであろう。この人物には、単なる従者のみならず、中央において班田整備の訓練を受けた技術者たちが伴われていたはずである。
翻って言えば、中央から地方へと多くの人々が派遣され、中央にはそこに仕える人々の空白が生じたであろう。これを埋めるために必要となったのが「仕丁や采女」の中央への出仕命令である。それも自前での衣食持参である。「詔」四項の副文ⅳ・ⅴはそれを意味するものとして「原詔」にあったものと考えられる。
(二)こうしたことは当然ながら、中央内部における組織内容の変更をもたらしたはずである。それが「詔」に見られないのは何故か。その変更は従来の「令」の変更をもってして為されたはずである。即ち、「詔」発出時点において中央には官人の地位・所掌を規定した「令」があったことを推認させる。
これまで、「近江令」をもって最も早い「令」の存在としての議論がなされてきたが、「改新の詔」が専ら地方行政組織の大転換を図ったものとして認められるとした以上、「令」の存在もまた認めざるを得ないのである。しかし「書紀」はそれについて触れるところがない。何故か。それこそが、「九州王朝」内部の「令」であったからである。
では、その存在を認める史料は存在するのであろうか。「九州王朝」の事績であるため、正面から記載された史料を確認できるものはないと言ってよいであろう。ただ一つ推認できる史料として「十七条憲法」をあげることができよう。この憲法は、中央内部の官人に対しての規律等を示したものであり、一般民衆に対してなされたものではない。「官位十二階制」と相俟って考えるならば、多くの官人に対し、その地位や所掌が決められていなければ政治・行政を運営していくことはできなかったと考えられる。六〇〇年の第一回遣隋使の派遣により、「隋」に見た先進的な「中央集権的国家」の存在に目を開かされた「多利思北孤」は「律令」制定の意向を固め、その中でも「令」の制定を急いだものと見られる。そこに「令」の存在を推認させる根拠があると考えるのである。
六、「大化改新」という呼称について
(一)これまで「大化改新」論(序)に始まって本稿の五、まで縷々述べてきたが、最後に「大化改新」という呼称について私見を述べておきたい。
「日本書紀」には「大化改新」という呼び名はない。大化年間に出された「改新の詔」をもって学術上「大化改新」と呼んでいるに過ぎないことは周知のところである。
ところが、この「大化」という年号について、「多元史観論者」から多くの疑問が寄せられている。一つに、「書紀」に改元として突如「大化」年号が現れることへの不審。また、数々発見されている「九州年号」の痕跡などから、六四五年は「命長」であり、それが改元された六五七年の新年号は「常色」であり、「大化」は少なくとも持統期まで繰り下がる、というものである。ここから、「大化改新」ではなく「常色改新」と呼称すべきとの主張が正木裕氏によってなされている。氏の見解は誠に傾聴すべきものと考える。
だがそれだけでは、何故「書紀」が六四五年に「大化」なる年号を書き記すことになったのかが説明されていない。
(二)一つの仮説を提起しておきたい。それは、「持統朝においても『改新の詔』なるものがあったのではないか」という仮説である。「書紀」が編纂された七二〇年当時、人々の耳目に残る大きな政策の「詔」が発出されていたのではないか、という仮説である。
後に「九州王朝と九州年号」論において詳述する予定であるが、「天武朝」を引き継ぎながらその根源を「天智天皇の近江朝」に求め「近畿天皇家」による列島支配を改めて宣言したことが「持統による改新の詔」であったと考えるものである。
しかし、「九州王朝」の存在を書かなかった「書紀」の建前から、その「詔」を正面から記すことができなかったため、「大化」という年号を「孝徳朝」の時代に移し、その時に出されていた「改新の詔」をもって「大化時代の改新の詔」としたものではないかと考えるのである。仮説の域を出ないこと、承知の上である。
七、最後に
これまでに論述したことは、河野道明氏の「大化改新は身近にあった」(二〇一五年和泉書院)をベースに置いたものであった。氏の研究は文献史学と言うよりは、実際の農地に足を運んで古代の痕跡を丹念に調査したことを根底に立論されたものである。小生の机上の勉強などでは到底足元にも及ばない、極めて貴重な研究成果を記した著書である。
ただ、惜しむらくは「一元史観論」の通説的見解に折り合いをつけようと努力されることにより、その見解のあてはめに通説側を納得させることができなかったのではないか。
同時に、「九州王朝」の実在を認める小生からも、納得できるあてはめになっていなかったとしか言い得ない論となってしまったと見えるのである。
しかし、氏の見解の基本を為した「官道整備」と「防衛力増強」の政策によって「改新の詔」が発せられたとする見解は、「大化改新」を論ずる上で、従来誰も指摘できなかった根本的な問題であり、それも実地検証によって確認されている点において、画期を為す極めて貴重な研究著書と思われる。
氏の著書をどの程度理解できたかは、はなはだ心もとないところではあるが、六四五年当時の宗主国を「九州王朝」とする考えを基本として、氏の見解(著書)をベースに小生なりに「大化改新」を検討・再構築したものであったことを改めて述べておきたい。