「乙巳の変」論考(二の二)

 

一,「日本書紀」が記す高向玄理

①推古天皇十六年(六〇八)九月の条「裴世清帰国にあわせ,高向漢人玄理・南淵請安ら八人を唐に遣わす。」

②舒明十二年(六四〇)冬十月の条「大唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理,新羅より伝りて至けり。」

③孝徳即位前紀(六四五)「高向玄理を以て,国博士とす。」

④大化二年(六四六)九月の条「高向博士黒麻呂を新羅に遣す。」(割注:黒麻呂更の名は玄理)

⑤大化三年(六四七)七月の条「新羅,上臣大阿飡金春秋等を遣して,博士小徳高向黒麻呂を送りて,・・・来りて・・・献る。仍りて春秋を以て質とす。」

⑥大化五年(六四九)是の月の条「博士高向玄理と釈僧旻とに詔して八省・百官を置かしむ。」

 ⑦白雉四年(六五三)二月の条「大唐に遣す押使大錦上高向史玄理・・・等,二船に分かれ乗らしむ。」

 「押使高向玄理,大唐に卒せぬ。」

 

二,高向玄理に対する見解

大和岩雄氏は次のように記す。

(一)『井上光貞氏は,玄理を歓迎する立場に舒明朝はなかったから,玄理の帰国を「唐朝の意志」と想定している(「大化の改新と東アジア」岩波講座・日本の歴史2所収)。玄理は新羅使とともに新羅から帰国しているので,金鉉球氏は「唐・新羅の意図によるもの」(大和政権の対外的研究所収)とみている。』(「天武天皇出生の謎」昭和六二年六興出版)。

(二)『石母田正氏は,日本と新羅と唐をむすぶ路線をつくったのは,この時期(筆者注:「旧唐書日本国伝」記載の貞観二年(六四八)の唐帝に対する上表文を奉じた時期)の新羅と日本の支配層を代表する二人のすぐれた外交家である金春秋と高向玄理とみる。』とし,氏の見解として「新新羅派の高向玄理は,改新政権の国博士として,金春秋をとおして唐との国交回復をはかったのである」と述べる。加えて『金鉉球氏も,金春秋の来日は,改新政権との「軍事協力体制を成立させるためであった」とみるが,金春秋が来日後,すぐ入唐しているのは,石母田正氏と同じに,「日・唐間の国交回復の仲介」であったとみる。』(同書六八頁)。

 

三,高向玄理と唐・新羅との関係

(一)高向玄理が帰国する際,百済ではなく新羅経由で金春秋を伴っていたことから,井上・金・大和等の言うよう,「そこには唐・新羅の意思が働いていた」とみるのが妥当であると考える。

 そしてその意志とは何か。それは,唐に対し「臣下」の地位の確認であろう。それは拙論:「推古朝における遣唐使」論で論述したように,「書紀」推古十六年の条における「唐からの使者・裴世清」と「推古天皇」の遣り取りの中にあった。即ち,「裴世清」のもたらした唐からの国書に対し,「推古天皇」は「臣下」としての返書をもたらしたのである。この時を以て,「近畿天皇家」は唐から日本列島を代表する王朝として国際的承認を得たのであるが,その地位は飽くまで唐の「臣下」としての位置付けであった。

 だが,それは国内的に見れば,それまでの宗主国たる「九州王朝」に対し,唐を後ろ盾として「近畿天皇家」の地位の向上を意味するものであった。

 それまで依然として「天子」の称号を自称して譲らず,「唐」に敵対心を抱く「九州王朝」に対し,「近畿天皇家」は唐の「臣下」であることの確認を得ようとしたものであった,と考えられるのである。それ故にこそ,高向玄理の帰国は,百済経由ではなく,新羅経由であったのである。

(二)総じて言えば,留学生として入唐した高向玄理は,中央集権国家としての唐の現状を目の当たりにして,その文化や軍事力がいかに突出しているかを実感したのではなかろうか。ひるがえって倭国の実状と照らし合わせた時,到底比肩できるような存在ではないことを知ったのであろうことは言を俟たない。

 これを裏付けるようなことが「日本書紀」にも記述されている。

推古三一年(六二三)秋七月条『是に,惠日等,共に奏聞して曰さく,「唐国に留まる学者,皆学びて業を成しつ。喚すべし。且其の大唐国は,法式備り定れる国なり。常に達ふべし』

この時期,高向玄理はすでに留学生として入唐し,唐に留まっていたのである。

(三)また,貞観二年の倭国側から唐帝にあてた上表文についても「唐と近畿天皇家との近い関係」を再確認させようとするものと考えれば,金・石母田両氏の見解も納得することができる。

 なお,「書紀」は大化三年(六四六)に高向玄理が金春秋らと帰国しているが,金春秋について新羅からの「質」と記している。しかし,金春秋はその六年後に新羅の王(武烈王)に即位しており,かつ日本での滞在期間が一年と極めて短かったことから,大和岩雄氏は「金春秋は質では無かった」としている(同書六八頁)。同感である。ただこうしたことからも,「高向玄理と唐・新羅の極めて近い関係」を窺い知ることができる。

 

四,高向玄理と近畿天皇家

(一)高向玄理を裴世清につけて唐へ派遣したのは「推古天皇」である。舒明十二年(六四〇)の帰国は当然のことながら「近畿天皇家」の下である。その時,玄理は「大国唐」の実状を学んだ上で,新羅経由で帰国しているのである。

玄理の帰国報告は,「大唐とは相争う相手ではなく,学ぶべき国である」ということに尽きるのではなかったろうか。

(二)こうした報告を受けて,「近畿天皇家」は,親百済の基本方針を持つ「九州王朝」との関係をどのようにしていったのだろうか。

 ここに「乙巳の変」に至る混迷の萌芽がみられるのである。