「閑話休題」(八九)

 

一、令和八年五月三日(日)、横浜で合田洋一氏の出版記念講演会が開かれた。氏は四月下旬に「我が国皇室の知られざる古代 九州王朝から大和王朝への政権交代」なる書を出版しており、これを記念してのものだった。

 主催した実行委員会の話によれば、定員六〇名で予定した会場も、ややオーバー気味の参加者であった、とのことである。

 ご本人の話によれば、御年八四歳とのことであるが、二時間を越えての熱の入った講演は

ますます「意気軒高」と呼ぶにふさわしいものであった。

 

二、合田氏と言えば、かねてから地元愛媛県に残る数々の「斉明天皇」伝承を広く紹介され、そこに「九州王朝」の存在を主張されてきている。多元史観論者にあって、その主張・存在を知る人も多いのではないかと思われる。

 氏の主張を最初に正面から取り上げたのは、誰知ろう「古田武彦」先生ではなかったかと思われる。氏の著書にそのことが書き記されている。

 

三、その一方で、合田・古田見解も、多元史観論者の中でも定説たる位置を未だ獲得することが出来ずにいることもまた事実であろう。

 通説を形作り、「九州王朝」の存在を認めない一元史観論者が、合田・古田見解を無視し、或いは否定的に見ることは、ある意味当然のことであろう。だが、「古田史学」をベースに古代史を研究する多元史観論者においても、六六一年の「斉明崩御」記事を振りかざして、突っ込んだ論証もせず否定的な見解を採る論者が、未だに多いのは何故であろうか。

 

四、合田・古田見解を論議する場合、「日本書紀」の六六一年「斉明崩御」の記事を、何らかの形で否定し、「白村江の戦い」当時も生存していたとせざるを得ないことが、その出発時点に出てこざるを得ない。すると「白村江の戦い」との関係はどうなるのか、実際何時まで生きていたのか、その間何処でどうしていたのか、などの問題が出てこざるを得なくなってくる。

 更に、「書紀」は「近畿天皇家」の天皇として「皇極天皇の重祚」とも言っていることへの整合を図れるのか、といった問題もある。

 こうしたことが、多元史観論者においても合田・古田説を認めることに二の足を踏ませる原因となっているように、小生には思われる。

 

五、だが古田先生が、新庄千恵子氏からの書簡をもとに、「持統の吉野行き」に疑問をもたれ、「三四年遡り説」と唱え、結果「皇極・斉明別人説、斉明天皇生存説、斉明天皇の九州王朝天皇説」に至ったことを我々は十分知っている。明らかに「書紀」の記事の否定である。

 この見解をベースに、小生も天武八年の「天皇、越智に幸して、後岡本天皇陵を拝む」との記事こそ、本来の「斉明崩御」記事だと解する見解を述べてきた。その際、「六六一年斉明崩御」記事は、唐に対する「政治的・外交的」にとられたもの、との考えを述べても来た。それは、「白村江の戦い」の敗戦の責任を逃れさせるために採られた措置でもある、とした。その結果、伊豫国へは逃避のために行ったものとしたものである。

 愛媛の痕跡は、合田・古田説が「九州王朝の遷都」と捉えるのに対し、小生は逃避のための仮住まいと見る点は異なる。ただ、合田氏が愛媛における「斉明痕跡」を強く主張され、古田先生がそれを正面から認めたことは、古代史を復元される意味から、極めて大きな功績だと考える。

 

六、一時は、合田見解も議論の隅に追いやられたようなきらいもあったが、ここにきて今回の出版記念講演会に多くの参加者を得、また二次会にもほとんどの人たちが参加してにぎやかに過ごす会場を目の当たりにして、再び合田・古田見解が息を吹き返してきたとの思いを強くした。多元史観もまだまだ捨てたものではない、との思いで帰路についた。

 合田氏の今後の活躍にも大いに期待したい。