「九州王朝と九州年号」論(三―一)
――仮説:「改新の詔」は二つあった――
一、「朱鳥」年号について
「日本書紀」は、天武十五年七月に「朱鳥」に改元が行われ、その年をもって「朱鳥」元年とする、としている。更に、「朱鳥」について「此れをば阿訶美苔利と云ふ」との和訓をつけている。
この改元後の九月に「天武天皇」は崩御となった。これ以降「持統天皇」の時代に元号についての記事はなく、持統十一年(六九七)八月に皇太子(珂瑠皇子)に天皇位を譲るとして「書紀」は閉じられている。
これに続く「続日本紀」は、六九七年「文武天皇」の即位と宣命文の記述に始まり、七〇一年に「大宝」の元号を建てた、とするまで、元号に関する記事はない。
こうしたことから、「書紀」に記された「朱鳥」年号について、
①「書紀」の記述上は、「白雉」から突然「朱鳥」への改元となっていることへの不審。
②「続日本紀」の記事に見える「白鳳」が跳んでいることへの疑問。
③そもそも「朱鳥」が一年間しか使われていないことへの不審。
④「書紀」に見える大化や白雉年号には和訓はないが、「朱鳥」についてのみ「阿訶美苔利」と和訓がつけられていることへの疑問。などが述べられている。
二、「朱鳥」以降の年号の混乱
(一)混乱の実態
①「二中歴」 六八六年「朱鳥」→六九五年「大化」→七〇一年「大宝」
②「如是院」 六八六年「大化」→六九二年「大長」→七〇一年「大宝」
③「海東諸国記」六八六年「朱鳥」→六九五年「大和」→六九八年「大長」
④「日本大文典」六九二年「大長」→七〇一年「大宝」
⑤「永光寺」 六八六年「朱鳥」→六九五年「大長」→七〇一年「大宝」
以上、「『失われた倭国年号』収録、服部静尚:安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した倭国年号一六九頁より」
ア、これらをみると、「朱雀」の後最初の改元を、「日本大文典」以外の四例は、いづれも六八六年としている。
イ、そのうちの三例はいずれも「朱鳥」であり、「如是院」のみが「大化」としている。
ウ、次の改元年を六九二年とするのが二例で、いづれも「大長」とする。
エ、次の改元年を六九五年とするのが三例であるが、「大化」「大和」「大長」と年号は三者三様である。
オ、これ以降は、四例が七〇一年の「大宝」とするが、「「海東諸国記」のみ六九八年の「大長」改元を記した上で「大宝」年号には触れていない。
(二)古田武彦氏は、これらの年号の信憑性を確認する上で、「多数決によるべきではない」との基本的考え方を主張している。だが、「朱雀」までは概ね共通する「年号」を記してきた古代年号に関する各書が、「朱鳥」以降何故ここまで区々となっているのかを検討することは決して意義のないこととは考えない。これらの文献の共通項を更に絞り出して、検討事項を抽出してみたい。
(三)共通項の抽出と問題点
①六八六年の改元を三例が「朱鳥」とするのに対して、「書紀」にある「大化」をここに記した「如是院」の意味は何なのか。また六八六年の改元に触れない「日本大文典」の意味は何なのか。
②六九二年の改元を「大長」と共通するのが「如是院」と「日本大文典」と二例あるのに、他の三例はこの年の改元はなかったようにスルーしているのは何故なのか。
③六九二年の「大長」改元を記した二例は、いづれも六九五年の改元はスルーしている。逆に六九二年の改元をスルーした三例が六九五年の改元を記している。しかしその年号がまちまちなのは何故なのか。
④これ以降は四例が七〇一年の「大宝」までの改元を記していない中で、「海東諸国記」のみが六九八年の「大長」改元を記していることにどのような意味があるのか。
⑤こうした問題を考える上で、「書紀」に記されている「大化」年号との関係をどう考えるべきなのか。
⑥時期は異なりながら「大長」なる年号が四例みられることをどう理解すべきなのか。
三、出土物等から確認された「朱鳥」年号
(一)滋賀県の「鬼室神社」に古くから祀られている石柱がある。平成六年度、石が外来か国産かの調査が行われた。結果は、国内産でかつ近隣の山から切り出されたものとのであることが確認された。この時の調査の際、この墓碑に「朱鳥三年戊子」の文字が確認された。これは、六八八年と解される。「朱鳥三年」の存在を示す金石文である。
(二)茨城県岩井市(現坂東市)の富山家から、「大化五子年」の文字が記された土器が確認された。ただ、大化五年の「子」の年の表記は、「日本書紀」の大化五年(六四九)とも「二中歴」の大化五年(六九九)とも干支があわない。
(三)この二つの出土物を巡って、古賀達也氏が『「九州年号」の研究3 二つの試金石』に論考を載せている。そこでは詳細な調査をもとに、少なくとも同時代金石文と見做すことができるとされた。
これにより、「書紀」にも見られる「朱鳥」年号を記さない「如是院」と「日本大文典」の信憑性が低下し、「朱鳥」改元を記す「二中歴」・「海東諸国記」・「永光寺」が、信憑性の高いものと解される。
四、「朱鳥」改元の理由は徳政令
(一)「書紀」によれば、「朱鳥」改元は天武十五年七月であり、前述の三書の六八六年改元と一致している。また、「書紀」によれば、改元の二ヶ月後に天武が崩御していることから、「朱鳥」改元は、天武の病状回復を願っての改元であったのではないかと考えられている。
しかしこの「朱鳥」について、幾つかの疑問が呈せられている。
①「書紀」は何故「阿訶美苔利」という和訓を付しているのか。
②「書紀」は「白雉」以降の年号を記さずに、何故いきなり「朱鳥」改元を記しているのか。
③「書紀」は、他の三書と異なり、「朱鳥」年号を何故一年間としているのか。
(二)これについて正木裕氏は『「失われた倭国年号」所収『書紀』三年号の盗用理由について』で次のように述べる。
ⅰ「朱鳥」元年(六八六)七月二十日の朱鳥改元にあたり、七月十九日に貸稲(出挙)・資財の返還を免除する「徳政令」が詔された。
ⅱ持統元年(六八七)七月に、利息免除令が出されている。
ⅲこれらは九州年号(倭国年号)朱鳥改元に伴う徳政令ですから、九州王朝(倭国)の事績となるでしょう。(六五~六六頁)。
また古賀達也氏も、「『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独」において次のように述べる。
朱鳥元年と翌年に出された詔勅は九州王朝と九州年号が健在だった当時であれば,「朱鳥」年号付き文書で(徳政令が)通達されたと考えざるを得ません(一四七頁)。
(三)改元者は誰なのか?
前述の「朱鳥改元に伴う徳政令」という見解については同意できる。しかし、その発令者についての見解については直ちに同意できるものではない。
正木氏は「九州年号の朱鳥改元に伴う徳政令であるから九州王朝の事績」と結論付けている。また古賀氏は、「九州王朝と九州年号が健在だった当時」としている。
しかし、二つの詔勅を出したのは「九州王朝」なのか「近畿天皇家」なのか、の検討が十分には為されていないのではないか、疑問が残る。
古田武彦氏が、七〇一年を「九州王朝」から「近畿天皇家」への王朝交代の時点と捉える見解を述べて以降、多元史観論者の多くが、この見解を踏襲してその後の立論へと展開させている。だがこの古田説も、それを支える史・資料を十分には見い出せないでいる。
むしろ、六六七年天智天皇による「近江朝」の成立によって、「九州王朝」から「近畿天皇家」への王朝交代は為されていると見るべきであろう。(詳細は当ブログ「近江朝」論や「七世紀の王朝交代と遷都」論に譲る)。
こうした見解に立てば、正木・古賀両氏の見解に反し、両詔勅は「天武・持統」=「近畿天皇家」によって発せられたものと考えるべきものと思われる。
ただこれによっても「日本書紀」に対する四、(一)①~③の疑問については、何ら回答とはなり得ていない。
(四)「阿訶美苔利」と「しゅちょう」に区分した理由
徳政令を出すにあたって考慮されたことは何か。
最も重要なことは、徳政令の対象とすべき人々の負債の限定である。徳政令発出後に新たに生ずるであろう負債までも、ズルズルと引きずることは、政策の本旨にはなり得ない。少なくとも、徳政令発出までに既存債務となっているものが免除の対象となり、仮に「朱鳥〇年」の負債だと主張しても、元年以外の物は対象からはずされる。その表記がいずれも「朱鳥」であっても元年の場合だけが「阿訶美苔利」と音読され、二年以降のものは「しゅちょう」と音読されて区別されたのではないか。
この時代区分を明確にさせるために、「朱鳥」改元に伴って、その元年のみを「阿訶美苔利」と呼び、二年後以降に現れた負債については、「しゅちょう」であって「阿訶美苔利」ではないとして、徳政令の適用から除外したものではないだろうか。朱鳥以前の負債であれば対象であること、論を俟たない。
そして徳政令発出のためには、人々の間に「朱鳥」年号が、天武十五年の改元として行き渡っており、その改元時期を移動させることができなかったものと考えられる。
(五)「朱鳥」年号は六九五年まで続いた
ア、前述の「鬼室神社」の石柱に「朱鳥三年」の文字が刻まれていることから、少なくとも三年は続いたと見て良いと思われる。それ以外に「朱鳥」年号について記された史・資料はあるのだろうか。それについては、万葉集に見ることができる。
イ、万葉集に収録されている歌には、左注のあるものがあり、その中に「日本紀」を引用したものがある。そこに幾つか「朱鳥」年号が記されている。
ⅰ三四番歌:「朱鳥四年」
ⅱ四四番歌:「朱鳥六年」
ⅲ五十番歌:「朱鳥七年」及び「八年正月」
ⅳ一九五番歌:「朱鳥五年」
これらから、「朱鳥」は「八年正月」まで続いていたことが推認できる。
また先の「二中歴」・「海東諸国記」・「永光寺」等が、次の改元時期を六九五年としていることと照合すると、次の改元時期は六九五年と解するものである。