論文集・目次 (平成三十年八月~令和七年十二月)
アップ番号 標 題 アップ 年 月 日
(一) 論文
二,黒澤正延の古代史探求の契機 (平成三〇年八月一五日)
「閑話休題」(二一)「大和朝廷」の疑問 (令和二年九月二一日)
「閑話休題」(四九)古田史学の会№一六二掲載の藤井謙介氏の論稿について(特に、古田武彦の研究姿勢に対する評価) (令和五年一月十七日)
「閑話休題」(六六)対立する作業仮説とフランクな討論(古田武彦氏と作業仮説) (令和六年六月十八日)
「閑話休題」(二六)令和三年一月五日 NHK歴史ヒストリア「日本誕生 知られざる物語 日本書紀一三〇〇年」 (令和 三年二月一六日)
「閑話休題」(三九)古田武彦著「古代通史」について (令和四年三月十七日)
「閑話休題」(二七)令和三年一月三日 NHK英雄たちの選択 スペシャル「古代人のこころを発掘せよ」 (令和三年三月一七日)
「閑話休題」(十)BS・TBS『にっぽん!歴史鑑定「こんなに変わった!?歴史の教科書』及びBSフジ『大人が知らな い!日本史の新常識3 なぜ変わった?教科書ミステリー』 (令和元年十二月十六日 全面編集替え)
「閑話休題」(十二)閑話休題(十)の続編 (令和二年一月十八日)
「閑話休題」(三六)?・「日本書紀の不思議」のはじまりについて (令和三年十二月十七日)
四八,?・「『日本書紀』の不思議」(一) (令和四年一月一日)
四九,?・「『日本書紀』の不思議」(二) (令和四年二月三日)
五七,?・「『日本書紀』の不思議」(三) (令和四年十月四日)
五八,?・「『日本書紀』の不思議」(四) (令和四年十一月四日)
「閑話休題」(十八)令和二年六月一日付朝日新聞「文化の扉」(特に、日本書紀書き手の二系統) (令和二年六月十七日)
七一,「古代史における『時代区分』に関する古田氏の異論」について (令和五年十二月三日)
九六、「古代史セミナー2025」まとめ (令和七年十二月二日)
「閑話休題」(七三)茨城新聞「金印」記事について (令和七年一月十八日)
「閑話休題」(四)BS・TBS「邪馬台国はここにあった」 (令和元年五月二一日)
「閑話休題」(十四)BSイレブン歴史化学捜査班「最新発掘調査!邪馬台国はどこに?」 (令和二年三月一六日)
「閑話休題」(二五)令和三年一月一日 NHK「邪馬台国サミット」 (令和三年一月一七日)
「閑話休題」(八三)「古代史セミナー2025」について(「卑弥呼はどこにいたか」を主題とする講演) (令和七年十一月二三日)
「閑話休題」(六五)「NHKスペシャル古代史ミステリー」(多元史観を無視した報道への正木氏の抗議) (令和六年五月十五日)
「閑話休題」(二)大原重雄氏による「吉野ヶ里遺跡」についての重要な指摘 (平成三一年二月三日)
「閑話休題」(五四)「吉野ヶ里遺跡」エリアにおける「石棺墓」発掘 (令和五年六月十六日)
「閑話休題」(五)NHK歴史秘話ヒストリア「巨大古墳誕生 世界遺産目前!百舌鳥・古市古墳群」 (令和元年六月一七日)
「閑話休題」(三十)令和三年五月二九日 NHK・ETV特集「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す~」 (令和三年六月一七日)
「閑話休題」(五五)「富雄丸山古墳」出土の「蛇行剣」について (令和五年七月十六日)
「閑話休題」(五七)桜井茶臼山古墳出土銅鏡について (令和五年九月十六日)
「閑話休題」(七四)「虎塚古墳と十五郎穴」講演会 (令和七年二月十七日)
「閑話休題」(七八)朝日新聞「七支刀」記事について (令和七年六月十九日)
「閑話休題」(三七)「倭の五王」を巡るセミナーについて (令和四年一月十六日)
「閑話休題」(三二)倭武は武烈か雄略か (令和三年八月十七日)
「閑話休題」(三三)倉本一宏氏の「古代史の・核心×革新」について(特に、倭武問題) (令和三年九月十七日)
「閑話休題」(八四)「北部九州の都」はどこへ移ったか (令和七年十二月十五日)
一.「継体紀」論考(一)~(四) (平成三〇年八月一五日)
六八,「継体紀論」(序) (令和五年九月四日)
六九,「継体紀論」(一) (令和五年十月四日)
七十,「継体紀」論(其の二) (令和五年十一月六日)
七二,「継体紀論」(補稿) (令和六年一月十日)
未アップ 「継体紀論」「磐井の乱」の真相・・・「多元」№一七七に掲載
未アップ 「継体紀」(其の二)・・・「多元」№一七八に掲載
未アップ 「磐井=継体天皇誕生」論・・・多元№一八五に掲載
「閑話休題」(十九)令和二年四月二二日NHK・BS英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」 (令和二年七月十八日)
「閑話休題」(三二)倭武は武烈か雄略か (令和三年八月十七日)
八,「年号『継体』は実在したか」 (平成三〇年一二月六日)
「閑話休題」(八)服部静尚氏の「二つの古田説 天皇称号のはじめ」 (令和元年九月一七日)
七九,「物部大連と蘇我大臣は共に九州王朝の人物であった」 (令和六年七月五日)・・・「多元」№一八二に掲載
三三,「物部・蘇我の抗争」論(令和二年一〇月三日)
「閑話休題」(四十)BS・TBS歴史鑑定「古代ミステリー!物部氏と蘇我氏の争い」について(令和四年四月十六日)
「閑話休題」(二三)船原古墳出土の「玉虫装飾馬具」について (令和二年十一月二十日)
二七,「目多利思北孤」考 (令和二年四月四日)
「閑話休題」(四四)BS・TBSにっぽん!歴史鑑定「古代ミステリー日本初の女性天皇 推古天皇」について(令和四年八月十八日)
四二,「多利思北孤の政策論」考 (令和三年七月三日)
「閑話休題」(四五)令和四年八月十九日付け朝日新聞記事 関根淳著「日本古代史書研究」の紹介記事に関する感想(特に 「天皇紀」・「国記」) (令和四年九月十七日)
「閑話休題」(十一)NHK英雄たちの選択「〝日出づる処の天子〟の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」 (令和元年十一月十九日)
「閑話休題」(三)西村氏の官道仮説への疑問 (平成三一年四月一日)
「閑話休題」(五九)川端俊一郎「法隆寺移築」論について (令和五年十一月十八日)
「閑話休題」(十三)BSフジ「令和の法隆寺~千四百年の伝承と聖徳太子の残響~」 (令和二年二月一五日)
「閑話休題」(十五)令和二年二月二七日(木)付け,朝日新聞掲載の「法隆寺シンポジウム」に係る講演内容記事 (令和二年四月十七日)
「閑話休題」(四七)「現法隆寺」に関する幻想的仮説 (令和四年十一月十七日)
七三,「筑後遷都説」について (令和六年二月五日)・・・「多元」№一八〇に掲載
七四,「筑後遷都説」に対するS・K氏の疑問に答える (令和六年三月三日)
四七,「『隋書』に見る附庸の意味すること」 (令和三年一二月二日)
五十,『「隋書」に見る「倭国」と「俀国」について』 (令和四年三月四日)
七六,「倭国・俀国・竹斯国について」 (令和六年五月四日)
「閑話休題」(三一)野田利郎氏の「『隋書』の俀と倭」について (令和三年七月十六日)
「閑話休題」(二二)「近畿天皇家」の国名は何であったのか (令和二年十月二十三日)
五,「法興年号」論 (平成三〇年八月一五日)・・・「多元」№一四三に掲載
六,「文字論」考 (平成三〇年九月二三日)
四六,「隋書行路記事について」 (令和三年一一月三日)
「閑話休題」(四一)服部静尚氏の「水陸三千里」関連論考について (令和四年五月十七日)
四五,「秦王国」について (令和三年一〇月三日)
三六,「『竹斯国』と『俀国』」考 (令和三年一月三日)
五二,「推古朝における遣唐使について」(一) (令和四年五月四日)
五三,「推古朝における遣唐使について」(二) (令和四年六月三日)
五四,「推古朝における遣唐使について」(三) (令和四年七月四日)
五五,「推古朝における遣唐使について」(四) (令和四年八月五日)
五六,「推古朝における遣唐使について」(五) (令和四年九月四日)
五九,「推古朝における遣唐使について」(六) (令和四年十二月三日)
未アップ 「推古朝における遣唐使」(一)・・・多元№一七五に掲載
未アップ 「推古朝における遣唐使」(二)・・・多元№一七六に掲載
六五,「推古朝遣唐使」についての日野氏の疑問に答える (令和五年五月二一日)
「閑話休題」(五三)多元№一七五掲載の「推古朝における遣隋使」(一) (令和五年五月十七日)
四一,「第一回遣隋使派遣」論・・・(令和三年六月四日)
四三,「第二回遣隋使派遣」論(一) (令和三年八月四日)
四四,「第二回遣隋使派遣」論(二) (令和三年九月三日)
五一,「遣隋使の派遣者と使者は誰か」 (令和四年四月四日)
「閑話休題」(四二)NHK知恵泉「遣隋使 格上相手にどうつきあう?」について (令和四年六月一六日)
未アップ 「文林朗裴清の帰国は何時と見るべきか・・・ 多元№一八七に掲載
「閑話休題」(六)BS・TBS『にっぽん!歴史鑑定「古代ミステリー 遣隋使と遣唐使」』 (令和元年七月一七日)
七,「薬師仏光背銘」について (平成三〇年一一月一〇日)
「閑話休題」(八)服部静尚氏の「二つの古田説 天皇称号のはじめ」 (令和元年九月一七日)
六十,「高表仁と倭国」論 (令和五年一月四日)
「閑話休題」(七七)「東京古田会ニュース№221」(息長氏) (令和七年五月十九日)
未アップ 一〇,「高表仁」考・・・多元№一八六に掲載
「閑話休題」(六三)「九州倭国通信」の「今村義則」論考について (令和六年三月十七日)
八十,「乙巳の変」論考(一) (令和六年八月三日)
八一,「乙巳の変」論考(二の一) (令和六年九月七日)
八二,「乙巳の変」論考(二の二) (令和六年十月五日)
八三,「乙巳の変」論考(三の一) (令和六年十一月十七日)
八五,「乙巳の変」論考(三―二) (令和七年一月四日)
八六、「乙巳の変」論考(四) (令和七年二月四日)
三五,「孝徳天皇の難波遷都について」(令和二年一二月五日)
十八,「即位と改元」考(一) (令和元年八月九日)
二六,「即位と改元」考(二) (令和二年三月二日)
十,「分裂した唐への使節団」考(一) (平成三一年二月一五日)
十二,「分裂した唐への使節団」考(二) (平成三一年三月十四日)
八七,「大化改新」論(序) (令和七年三月三日)
八八、「大化改新」論(一) (令和七年四月四日)
八九、「大化改新」論(二) (令和七年五月三日)
九十、「大化改新」論(三―一) (令和七年六月四日)
九一、「大化改新」論(三―二) (令和七年七月四日)
九五、「大化改新」論(三―三) (令和七年十一月三日)
「閑話休題」(五十)多元№一七三における吉村八洲男氏の「神科条理と『番匠』」について (令和五年二月十七日)
十六,「鼠移動記事の意味するもの」考(一) (令和元年七月三日)
二九,「鼠移動記事の意味するもの」考(二) (令和二年六月三日)
十五,「万葉集:二三九・二四〇番歌と大王の事故死」考 (令和元年六月五日)
二二,「万葉集一〇~一二(続)番歌」考 (令和元年一二月三日)
二四,「万葉集第三番歌」論考 (令和二年一月四日)
二五,「万葉集第三番歌」論考(続) (令和二年二月三日)
六七,「中皇命」論 (令和五年七月四日)
九,「斉明天皇生存説」 (平成三一年一月一日)
十一,「斉明天皇生存説」補稿(一) (平成三一年三月二日)
十三,「斉明天皇生存説」補稿(二) (平成三一年四月一五日)
十四,「斉明天皇生存説」補稿(三) (令和元年五月一日)
「閑話休題」(四三)「古代史の争点」論考(特に、「斉明天皇」問題) (令和四年七月十八日)
「閑話休題」(五六)「新・古代史の会」での話と遺跡めぐり(特に、「斉明天皇や娜大津」問題) (令和五年八月十七日)
「閑話休題」(八十)「九州倭国通信」№二一八「木村寧海」論考(「朝倉橘広庭宮」問題) (令和七年八月十八日)
四十,「斉明天皇の防衛施設整備」論 (令和三年五月三日)
「閑話休題」(五八)「神籠石山城」と「高安城」について (令和五年十月十八日)
「閑話休題」(六二)「神籠石と強制収容所」 (令和六年二月十五日)
「閑話休題」(三五)大原重雄氏の「狂心の渠は水城のことだった」について (令和三年十一月十六日)
二一,「狂心の渠」考 (令和元年一一月四日)
「閑話休題」(七五)NHK「英雄の選択」(牽牛塚古墳と狂心の渠) (令和七年三月十九日)
六三,「中宮天皇」論考(一) (令和五年四月三日)
六四,「中宮天皇」論考(二) (令和五年五月三日)
六六,「中宮天皇と仲天皇」について 付:「皇極・斉明・及び袁智天皇」に関する補稿
(令和五年六月二日)
三七,「中宮天皇と仲天皇」について (令和三年二月三日)
十九,「白鳳改元と白村江の戦い」 (令和元年九月四日)
「閑話休題」(四六)BS・TBSにっぽん!歴史鑑定「古代日本最大の危機!白村江の戦い」について(令和四年十月十九日)
未アップ 「白鳳年号」論 №一八三(二〇二四年九月)・・・「多元」№一八三に掲載
三九,「薩野馬」の帰還について (令和三年四月三日)
四,「崇道天皇とは誰か」についての一考察(一)~(五) (平成三〇年八月一五日)
三.「近江朝」論考 (平成三〇年八月一五日)
三十,『「近江朝」論考』補稿 (令和二年七月四日)
「閑話休題」(二八)令和三年二月九日 NHK先人たちの底力 知恵泉「天智天皇 失敗から築いた礎」(令和三年四月一七日)
三二,「甲子の宣」考 (令和二年九月四日)
三四,「都府楼」考 (令和二年一一月三日)
三一,「船王後墓誌」論考 (令和二年八月四日)
六一,「船王後墓誌」考(続) (令和五年二月三日)
七五,「船王後墓誌」考・(続)に関する疑問に答える (令和六年四月四日)
二八,「野中寺の弥勒像」考 (令和二年五月三日)
「閑話休題」(五二)「野中寺弥勒像」発見の経緯から想うこと (令和五年四月十七日)
三八,「日本鎮西筑紫大将軍」について (令和三年三月四日)
二十,「斉明天皇の崩御と天武天皇」 (令和元年一〇月二日)
「閑話休題」(九)服部静尚氏の「壬申の乱」 (令和元年十月二十日)
「閑話休題」(二九)令和三年二月一六日 NHK先人たちの底力 知恵泉「天武天皇 長く続く体制を」(令和三年五月一七日)
「閑話休題」(九)服部静尚氏の「壬申の乱」 (令和元年十月二十日)
八四,「倭国から日本国への最初の論点」(レジメ) (令和六年十二月十四日)・・・「古代史セミナー」発表用配布資料
「閑話休題」(六七)「八王子セミナー」発表について (令和六年七月十八日)
「閑話休題」(七一)「日本国の成立」 (令和六年十一月二七日)
九二、「九州王朝の衰亡」と「日本国成立」論(二) (令和七年八月四日)
九三、「九州王朝の衰亡」と「日本国成立」論(三) (令和七年九月三日)
九四、「九州王朝の衰亡」と「日本国成立」論(四)・(一) (令和七年十月四日)
「閑話休題」(六十)「ヤマトふみ」と「国号・ヤマト」 (令和五年十二月十八日)
七七,「九州年号と九州王朝」論(一) (令和六年六月四日)
七八,「九州年号と九州王朝」論(一)[訂正版] (令和六年七月四日)
「閑話休題」(六三)「九州倭国通信」の「今村義則」論考について(特に、高市皇子と朱鳥年号) (令和六年三月十七日)
六二,「『新・舊唐書』における倭国について」 (令和五年三月三日)
未アップ 「旧・新唐書」に見る「唐の疑い」について・・・「多元」№一八八に掲載
未アップ 「旧・新唐書」に見る「唐の疑い」について(二―一)・・・「多元」№一八九に掲載
未アップ 「旧・新唐書」に見る「唐の疑い」について(二―二)№一八九・・・「多元」№一九〇に掲載
「閑話休題」(三四)安藤哲郎氏の「随想・旧唐書を読む」について (令和三年十月十七日)
十七,「不正アクセス」という残念な出来事 (令和元年八月二日)
(二) 閑話休題 目次
一,福岡県八女市に残る「九州王朝の天皇名」についての探索 (平成三一年一月一九日)
二,大原重雄氏による「吉野ヶ里遺跡」についての重要な指摘 (平成三一年二月三日)
三,西村氏の官道仮説への疑問 (平成三一年四月一日)
四,BS・TBS「邪馬台国はここにあった」 (令和元年五月二一日)
五,NHK歴史秘話ヒストリア「巨大古墳誕生 世界遺産目前!百舌鳥・古市古墳群」 (令和元年六月一七日)
六,BS・TBS『にっぽん!歴史鑑定「古代ミステリー 遣隋使と遣唐使」』 (令和元年七月一七日)
七,斉藤里喜代氏の「仏像争奪戦プラス補稿」について (令和元年八月一八日)
八,服部静尚氏の「二つの古田説 天皇称号のはじめ」 (令和元年九月一七日)
九,服部静尚氏の「壬申の乱」 (令和元年十月二十日)
十,BS・TBS『にっぽん!歴史鑑定「こんなに変わった!?歴史の教科書』及びBSフジ『大人が知らない!日本史の新常識3 なぜ変わった?教科書ミステリー』 (令和元年十二月十六日 全面編集替え)
十一,NHK英雄たちの選択「〝日出づる処の天子〟の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」 (令和元年十一月十九日)
十二,閑話休題(十)の続編 (令和二年一月十八日)
十三,BSフジ「令和の法隆寺~千四百年の伝承と聖徳太子の残響~」 (令和二年二月一五日)
十四,BSイレブン歴史化学捜査班「最新発掘調査!邪馬台国はどこに?」 (令和二年三月一六日)
十五,令和二年二月二七日(木)付け,朝日新聞掲載の「法隆寺シンポジウム」に係る講演内容記事 (令和二年四月十七日)
十六,令和二年四月一九日NHK「日曜美術館」 (令和二年五月十六日)
十七,閑話休題(十六)の続編 (令和二年五月二〇日)
十八,令和二年六月一日付朝日新聞「文化の扉」 (令和二年六月十七日)
十九,令和二年四月二二日NHK・BS英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」 (令和二年七月十八日)
二十,八月一五日,「終戦の日」 (令和二年八月一八日)
二一,「大和朝廷」の疑問 (令和二年九月二一日)
二二,「近畿天皇家」の国名は何であったのか (令和二年十月二十三日)
二三,船原古墳出土の「玉虫装飾馬具」について (令和二年十一月二十日)
二四,掴みきれない「天武天皇」像 (令和二年十二月十八日)
二五,令和三年一月一日 NHK「邪馬台国サミット」 (令和三年一月一七日)
二六,令和三年一月五日 NHK歴史ヒストリア「日本誕生 知られざる物語 日本書紀一三〇〇年」 (令和三年二月一六日)
二七,令和三年一月三日 NHK英雄たちの選択 スペシャル「古代人のこころを発掘せよ」 (令和三年三月一七日)
二八,令和三年二月九日 NHK先人たちの底力 知恵泉「天智天皇 失敗から築いた礎」
(令和三年四月一七日)
二九,令和三年二月一六日 NHK先人たちの底力 知恵泉「天武天皇 長く続く体制を」
(令和三年五月一七日)
三十,令和三年五月二九日 NHK・ETV特集「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す~」 (令和三年六月一七日)
三一,野田利郎氏の「『隋書』の俀と倭」について (令和三年七月十六日)
三二,倭武は武烈か雄略か (令和三年八月十七日)
三三,倉本一宏氏の「古代史の・核心×革新」について (令和三年九月十七日)
三四,安藤哲郎氏の「随想・旧唐書を読む」について (令和三年十月十七日)
三五,大原重雄氏の「狂心の渠は水城のことだった」について (令和三年十一月十六日)
三六,?・「日本書紀の不思議」のはじまりについて (令和三年十二月十七日)
三七,「倭の五王」を巡るセミナーについて (令和四年一月十六日)
三八,NHK「一〇〇分de読む名著」の「金子みすず」 (令和四年二月十五日)
三九,古田武彦著「古代通史」について (令和四年三月十七日)
四十,BS・TBS歴史鑑定「古代ミステリー!物部氏と蘇我氏の争い」について(令和四年四月十六日)
四一,服部静尚氏の「水陸三千里」関連論考について (令和四年五月十七日)
四二,NHK知恵泉「遣隋使 格上相手にどうつきあう?」について (令和四年六月一六日)
四三,「古代史の争点」論考のうち「斉明天皇」問題 (令和四年七月十八日)
四四,BS・TBSにっぽん!歴史鑑定「古代ミステリー日本初の女性天皇 推古天皇」について(令和四年八月十八日)
四五,令和四年八月十九日付け朝日新聞記事 関根淳著「日本古代史書研究」の紹介記事に関する感想 (令和四年九月十七日)
四六,BS・TBSにっぽん!歴史鑑定「古代日本最大の危機!白村江の戦い」について(令和四年十月十九日)
四七,「現法隆寺」に関する幻想的仮説 (令和四年十一月十七日)
四八,二〇二二サッカーW杯観戦の思い (令和四年十二月二一日)
目次(四) (令和四年十二月二四日)
四九,古田史学の会№一六二掲載の藤井謙介氏の論稿について (令和五年一月十七日)
五十,多元№一七三における吉村八洲男氏の「神科条理と『番匠』」について (令和五年二月十七日)
五一,「多元の会」リモート会議への参加について (令和五年三月十七日)
五二,「野中寺弥勒像」発見の経緯から想うこと (令和五年四月十七日)
五三,多元№一七五掲載の「推古朝における遣隋使」(一) (令和五年五月十七日)
五四,「吉野ヶ里遺跡」エリアにおける「石棺墓」発掘 (令和五年六月十六日)
五五,「富雄丸山古墳」出土の「蛇行剣」について (令和五年七月十六日)
五六,「新・古代史の会」での話と遺跡めぐり (令和五年八月十七日)
五七,桜井茶臼山古墳出土銅鏡について (令和五年九月十六日)
五八,「神籠石山城」と「高安城」について (令和五年十月十八日)
五九,川端俊一郎「法隆寺移築」論について (令和五年十一月十八日)
六十,「ヤマトふみ」と「国号・ヤマト」 (令和五年十二月十八日)
六一,令和六年初春の思い (令和六年一月二十日)
六二,「神籠石と強制収容所」 (令和六年二月十五日)
六三,「九州倭国通信」の「今村義則」論考について (令和六年三月十七日)
六四,「乙巳の変」の論述の難しさ (令和六年四月十七日)
六五,「NHKスペシャル古代史ミステリー」 (令和六年五月十五日)
六六,対立する作業仮説とフランクな討論 (令和六年六月十八日)
六七,「八王子セミナー」発表について (令和六年七月十八日)
六八,「多元月例会」について (令和六年八月一七日)
六九,論考アップ作業の遅れ (令和六年九月一六日)
七十,「多元月例会」(九・十月分) (令和六年十月二一日)
七一,「日本国の成立」 (令和六年十一月二七日)
七二,今後の論考の課題 (令和六年十二月十九日)
七三,茨城新聞「金印」記事について (令和七年一月十八日)
七四,「虎塚古墳と十五郎穴」講演会 (令和七年二月十七日)
七五,NHK「英雄の選択」(牽牛塚古墳と狂心の渠) (令和七年三月十九日)
七六,「月例会提示資料」の項目設定について (令和七年四月十七日)
七七,「東京古田会ニュース№221」(息長氏) (令和七年五月十九日)
七八、朝日新聞「七支刀」記事について (令和七年六月十九日)
七九、「大化改新」論の中間的整理 (令和七年七月十七日)
八十、「九州倭国通信」№二一八「木村寧海」論考 (令和七年八月十八日)
八一、歴史探偵「大化改新」について (令和七年九月二四日)
八二、東京古田会『古田先生の「九州王朝」説の痕跡を巡る旅』 (令和七年十月二五日)
八三、「古代史セミナー2025」について (令和七年十一月二三日)
八四、「北部九州の都」はどこへ移ったか (令和七年十二月十五日)
(三)月例会提示資料 目次
一,「中宮天皇」とは (令和七年四月十七日)
二、「磐井の乱」を検討するにあたって (令和七年五月十七日)
四、「隋使は瀬戸内海を航行したか」 (令和七年六月十六日)
五、「多元の四月例会まとめ」と「大下氏の疑問」に対する回答 (令和七年七月十七日)
三、斉明天皇の伊豫逃避について (令和七年八月十七日)
六、「邪馬臺国の証明」についての返信及び補稿 (令和七年九月十八日)
七、「古代史における『時代区分』に関する古田氏の異論」について (令和七年十月十八日)
八、「空白の三世紀」問題の焦点 (令和七年十一月十八日)
九、「古代史セミナー二〇二五」まとめ (令和七年十二月十四日)
(四)「多元の会」会誌掲載稿
一,「法興年号」論 №一四三(二〇一八年一月)
二,「推古朝における遣唐使」(一) №一七五(二〇二三年五月)
三,「推古朝における遣唐使」(二) №一七六(二〇二三年七月)
四,「継体紀」論「磐井の乱」の真相 №一七七(二〇二三年九月)
五,「継体紀」論(其の二) №一七八(二〇二三年十一月)
六,「筑後遷都説」について №一八〇(二〇二四年三月)
七,物部大連・蘇我大臣は共に九州王朝の人物だった №一八二(二〇二四七月)
八,「白鳳年号」論 №一八三(二〇二四年九月)
九,「磐井=継体天皇誕生」論 №一八五(二〇二五年一月)
一〇,「高表仁」考 №一八六(二〇二五年三月)
一一,「文林朗裴清の帰国は何時と見るべきか №一八七(二〇二五年五月)
一二、「旧・新唐書」に見る「唐の疑い」について №一八八(二〇二五年七月)
一三、「旧・新唐書」に見る「唐の疑い」について(二―一) №一八九(二〇二五年九月)
一四、「旧・新唐書」に見る「唐の疑い」について(二―二)№一九〇(二〇二五年十一月)