令和八年六月十四日「多元・月例会」報告

 

 前書き

 「多元・月例会」では、令和八年一月から四月にかけて、「七世紀の王朝交代と遷都論」という共通議題で、四名の会員による論考の発表を行った。

 黒澤がその内容を、自己の見地から「まとめ」と「感想」に分けて、六月の月例会に報告を行った。そのうちの感想編のみを以下に掲記する。

 なお当日は、六の「根本的課題」から検討を行うこととした。ただ当日は、①と②の意見交換のみで終わった。それ以降については、次回の月例会で順次行う予定である。

 

              「七世紀の王朝交代と遷都論」(感想編)

                                                   黒澤 正延

 

一,A氏報告についての感想

(一)報告(一)ⅰについて

ア、現在の吉備池廃寺に「百済大寺」があり、それが「高市大寺」として木之元廃寺に移され、「大官大寺」として更に移された、との説明は分かりやすかった。

ただ先行条坊と二つの異なった建物との関係、或いは高市大寺との関係に論及されなかったことが、いささか残念であった。

 イ、また舒明十一年の「詔」に触れ、「百済大寺」造営の根拠を示されたが、それに続く「西の民は宮を造り、東の民は寺を造る」を口頭で触れたものの、「西の民は宮を造り」の問題には論及されなかったことが残念であった。

 

(二)報告(一)ⅱ及びⅲについて

 ア、報告は「定策禁中」が群臣によってのみ行われ、持統が参加している以上、持統も群臣の一人であることを前提になされている。

 しかし「懐風藻」では、紛糾する会議が葛野王の一言で決まったことを皇太后が喜んだとされている。そこからは、持統がその会議に出席していたのか、単に結果報告を受けただけなのかは、必ずしも判然としない。

 イ、仮に天皇が出席していたとしても、それは「単なる群臣」会議以上のものとしての見解から、「日本書紀」において「定策禁中」の文言が使われたものと見做すこともできよう。必ずしも中国で使われた本来の意味と完全に一致しなければならないというものでもないのではなかろうか、との疑問が残る。

ウ、また「定策禁中」による譲位は文武元年のことであり、「九州王朝」から「近畿天皇家」への王朝交代は大宝元年とする古田説等との見解とはどのような関係になるのかについても、A氏の見解からは不明である。

 

二、黒澤報告について

疑問、質問は研究会の席上でお受けしたいと思います。

 

四、B氏報告についての感想

 ア、ⅳにある「蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、摂津河内に進出し、天皇家を支配下に置く」との見解は、「書紀」の記述と合わないのではないか。

 「乙巳の変」は、「蝦夷・馬子父子が、天皇のような振る舞いをし、かつ天皇の地位を狙ったことに対して、中大兄皇子等が反発して起こしたもの」というのが「書紀」の記述である。馬子が天皇家を支配下に置くとの見解とは相容れないのではないか。

 イ、ⅴにある「難波長柄豊碕宮」への遷都記事は大化元年十二月というのが「書紀」の記事である。この時は一般に言われる「前期難波宮」の建設の着手にもなっていない。従って、「難波長柄豊碕宮」と「前期難波宮」は全く別物と考えられる。

ⅸで地山の上に渡来人などの下層遺跡があり、その上を整地して「北東を向いた官衙遺構」がある。これが「孝徳難波宮」である、としている。この「孝徳難波宮」と「難波長柄豊碕宮」とは別けて考えるべきではないか。

ウ、高句麗滅亡は六六八年で、B氏も六六八年の高句麗滅亡後新羅が唐からの独立戦争を開始した、としている。ただし、実際の唐羅戦争は七〇一年である。これに対し、天智による「近江遷都」六六七年である。ⅵにある「天智は唐羅戦争で新羅側につき、都を近江大津に遷した」との理解は時系列的にも合わないのではないか。

また、ⅹの「白村江の戦い」に中大兄皇子の近畿勢は参戦せず。無傷の中大兄が戦後処理を行うが、後に唐と対立、との見解についても、天智が新羅に味方して唐と対立したとする史料的根拠は見出せない。

 これらについて、Ⅺで「唐は筑紫都督府を設置して、日本に傀儡政権を建てようとしたが、親新羅の中大兄皇子や藤原鎌足と対立。六六七年天智により「近江遷都」となる」との見解を示しているが、敗戦国の日本に反唐の独立王朝が立つことを唐が看過したとの想定には無理があるのではないか。

エ、Ⅻで、その一方で、「倭国・九州王朝」は唐の傀儡政権が樹立され(六八九年「永昌」年号)、また六七八年の大地震によって国力が衰える。その結果、「日本国」が成立した、との見解であるが、実際に「倭国・九州王朝」に傀儡政権が樹立されたとの記録はどこにも見えない。「日本国」成立には、また別の議論が必要となるのではないか。

オ、斉明の「狂心の渠」は、飛鳥へ向かって酒船石遺構を取り囲む石垣との見解との見解であるが、この工事は飛鳥地区に水を引き込むには極めて有用であって、後代「狂心の渠」などと揶揄されるような工事ではないであろう。

カ、その他「隋書」にある、使者の航路・行程記事についても、この「まとめ」では省略したが、「竹斯国」を「筑紫」としたり、一度「倭国」に入りながらもう一度引き返して「都」に至るような行程が示されており、解釈の矛盾を感じさせる。

 

五、C氏報告について

(一)葛子について

 「書紀」は、磐井の子「葛子」は、「糟屋の屯倉」を差し出すことによって罪を免れたとしており、氏の主張とは合わないのではないか。「倭の五王王朝」滅亡にはならないのではないか。

(二)秦王国と「倭・ヤマト」の関係について

 秦王国が田川郡にあり、これが「倭・ヤマト」であり、中大兄皇子はここを脱出して近江に遷都した、としているが、大和の飛鳥には、七世紀の近畿天皇家の遺跡・遺構が多く残されており、中大兄皇子が田川郡に居たとする根拠は見当たらない。

(三)筑紫君薩夜馬と大海人皇子の関係について

筑紫君薩夜馬を大海人皇子としているが、資料的根拠は何なのか。そもそも大海人皇子は白村江の戦いの際、朝鮮半島にまで出陣していたとの根拠はあるのか。

また、大海人皇子が唐の捕虜となった後、都督に任命されたとする根拠はあるのか。「籐氏家伝」にある「大海人皇子が中大兄皇子の祝宴の最中、槍を床に突き立てた」との逸話は、同席する二人を描写しているが、筑紫の都督と近江の天皇の同席をどのように解するのか。

「書紀」によれば、筑紫君薩夜馬の帰国は天智十年(六七〇)であり、筑紫都督府の記事は天智六年(六六六)となっている。その間は、都督のいない都督府であったということなのか。

郭務悰と大海人皇子の船上会談についても、資料的根拠が乏しいのではないか。

(四)「難波長柄豊碕宮」について

 所在地を九州との見解であるが、孝徳の飛鳥から遷居や後の前期難波宮の建設から見ると、この難波は大和の難波と見るべきではないか。

(五)「禅天皇位」の意味

 皇太子の任命ではなく、文字通り「天皇位を譲る」の意味であろう。

 

 

六、見解の相違をもたらす「根本的課題」

 ①「倭の五王王朝」から「俀国王朝」へ王朝交代があったと見るべきか。

  ⅰ「葛子」の存在をどう見るのか。

  ⅱ「隋書」には「邪馬壹国」から「俀国」へは一貫して同一国であると解される記述があるが、これとの関係は。

 ②「秦王国」の所在地はどことみるべきか。

 ③「丁未の乱」後の蘇我氏の行動をどのように見るべきか。

 ④「白村江の戦い」を主導したのは誰か。

  ⅰ「斉明天皇六六一年崩御」記事をどうみるか。

  ⅱ天武八年「天皇、越智に幸して後岡本陵を拝す」記事をどう見るか。

  ⅲ持統天皇の三四回に亙る「吉野僥倖」記事に対し、三四年遡り説を提起した古田見解をどう見るか。

 ⑤「中大兄皇子」の近江への移動は、どこ(飛鳥か九州か)から行われたものであるか。

  ⅰ飛鳥からは七世紀も含め多くの遺跡が出ているが、それでも「近畿天皇家」の拠点は

   九州にあったと見るべきなのか。

  ⅱなお、飛鳥からは、中大兄皇子の造ったとされる「漏刻」などの遺跡も出ている。

 ⑥唐は「筑紫都督府」を実際に置いたのか。

  ⅰ「書紀」に現れる「筑紫都督府」の記事は天智六年。「天智即位」は天智七年。「筑紫君薩野馬」の帰国は天智十年。

  ⅱ、天智六年時点での「都督」は誰なのか。

  ⅲ「筑紫都督府」の唐政権と「中大兄皇子又は天智天皇」の近江政権の二朝並立、加えて「難波の九州王朝」政権との三朝鼎立は成り立つか。それを示す史・資料は何か。

 ➆戦後唐は「羈縻政策」を採り、或いは倭国内に「傀儡政権」を作ったというのは史実か。

  ⅰ戦後天智三年に郭務悰が倭国に初上陸したときの手勢は二百数十名であった。(二千名をこえての上陸は、「書紀」によれば天智八年と十年である。)これで現実に「羈縻政策」なるものが実施し得たのだろうか。

  ⅱ唐(郭務悰)との対立の中で、「近江朝」は成立できたのだろうか。

 ⑧「定策禁中」の捉え方

  ⅰ持統天皇がこれに加わっている以上、持統も臣下の人物の一人、との解釈は成り立つのだろうか。その結果が、「譲位されたのは、天皇位ではなく天子」であるとの見解に立つことになるのであろうか。

  ⅱその時まで「天子」を自称する権力を持った人物がいたとすることを示す史・資料はあるのだろうか。