「7世紀の王朝交代と遷都論」

      (令和8年2月8日 多元の会 月例会資料)       黒澤 正延

 

A―1、日本書紀(以下、「書紀」という)の記述

 斉明7年 斉明天皇崩御

      中大兄皇子の称制開始

 天智2年 「白村江の戦い」敗戦

 天智4年 劉徳高等来る

 天智6年 中大兄皇子、都を「近江」に遷す

 天智6年 境部連石積ら「筑紫都督府」に送られる

 天智7年 中大兄皇子、天皇即位

 天智8年 郭務悰ら2千余人来る

 天智⒑年 筑紫君薩野馬ら、郭務悰ら2千人と共に帰る

 天智⒑年 天智天皇崩御

 

A―2、近江朝成立時期

  天智7年(667)春正月

 

A―3、開設者

  天智天皇(即位前は、皇太子=中大兄皇子)

 

 

A―4成立の背景

 1,敗戦後、唐の郭務悰との交渉を行ったのは、倭国の代表者として、称制期間中の中大兄皇子であった。

 2,倭国軍を完膚なきまでに叩きのめした後、唐にとって海の向こうの「倭国」は最早警戒すべき国ではなくなった

 3、唐にとっては、朝鮮半島を自らの支配下におくことが本来の目的であった。

 4、そのため、朝鮮半島に再度手出しをしない国として「倭国」がまとまることを必要とした。

 5、戦後の倭国の混乱を鎮め、再統一を図らせるために適当な人物、それは「戦いに参加せず、親唐的立場を貫き、かつ倭国の     代表者の地位あった中大兄皇子そのもの」と考えられた。

 6 一方、「天子」を自称し、唐に敵対した「九州王朝」の存在は到底認めがたいものであり、その痕跡は地上からも歴史上からも抹殺することとした。

 

A―5,王朝交代

  近江朝の成立は、「近畿天皇家」の人物である「中大兄皇子」により「九州王朝」から「近畿天皇家」への王朝交代を意味する

 

A―6,交代の意義

 ①「九州王朝の都(太宰府)」の消滅

 ②「近畿天皇家」による新たな「都」の設定

 

A―7、遷都といえるか

 「都を近江に遷す」の文言から、これを「遷都」と捉える見解が一般的である。

 しかし、「遷都」とは、同一王朝において都の位置を変えることであり、王朝が異なれば、それは新たな都の設定であり、「建都」と解すべきものであり、いわゆる通常の「遷都」ではない。

  即ち、天智6年に近江に居を移した中大兄皇子は、天智7年の即位と共に「近江」を「新たな都」とする「詔」を発したものと考えられ

 

A―8 王朝交代の傍証

 1,「書紀」における和風諡号「天命開別天皇」名

 2、「続日本紀」における「天智天皇」の扱い

 3,これらはいづれも、その後の王朝の始祖を神武天皇に結び付ける形で、天武天皇ではなく、「天智天皇」としている。(C―4参照)

 

A―9,天智天皇と年号

 天智天皇が「九州王朝」に代わって、新たな王朝の開祖となったものであるから、当然のことながら、新たな年号が定められたはずである。

  これについて、正木裕氏はその年号は「中元」ではなかったか、としている。これには、同意したい。

 

A―⒑,近江朝の支配領域

  「九州王朝」の支配領域と従来からの「近畿天皇家」の支配領域を併せた所であり、それは「中大兄皇子」が称制として政務を代行した領域。

  ・唐は「九州王朝」の復活を望まず、逆に「九州王朝」の痕跡を歴史上も地上からも抹殺した。

 

A―⒒,天智天皇に対する評価(私見)

  ①「乙巳の変」以降、「孝徳天皇」を見限り、また「古人大市皇子」や「蘇我倉山田石川麻呂」・「有間皇子」などを次々と自害に追い込むなどして、「親唐・親新羅」の立場を貫き、また「白村江の戦い」にも参戦しなかった。

  ②戦後「倭国」の代表として敗戦交渉に当たったが、それまでの①の行動が唐(郭務悰)の信頼を得ることにつながり、結果として「倭国」を亡国の危機から救った。

  ③これにより、唐の後ろ盾を得て、「近江朝」という「近畿天皇家」による新王朝が開かれ、「記・紀」に見られるような「新たな開祖」としての評価を得たものと考える。

 

A―⒓,「九州王朝」滅亡の経緯

  ①「斉明天皇」は「九州王朝」の天皇であった。

  ②「斉明天皇」と「皇極天皇」は別人であった。

  ③斉明7年の「斉明崩御」の記事は、「皇極天皇」の崩御の記事であるが、同時に「斉明天皇」の戦争責任を免れさせるため、唐に対し政治的・外交的に「既に斉明7年に斉明天皇が崩御したもの」としたものである。

  ④実際には、「斉明天皇」を伊豫国に逃がし、隠匿したものである。

  ⑤「斉明天皇」の実際の肉体的崩御は、「書紀」天武8年3月の条「丁亥に天皇、越智に幸して、後岡本天皇陵を拝みたてまつりたまふ」や同年5月の「吉野の盟約(会盟)」、或いは同年9月の「新羅・高麗・耽羅の使人の一斉帰還」の記事、さらに9年11月の条における「乙亥に高麗人19人、本土に返る。是は後岡本天皇の喪に当りて、弔ひたてまつる使の留りて、未だ還らざりし者なり」の記述などから、天武8年の早い時期にあったものと考えられる。

  ⑥663年の「白村江の戦い」の指揮を執ったのは「斉明天皇」であった。

  ⑦天智10年11月の条みえる「筑紫君薩野馬」は、「九州王朝」の皇子であり、「白村江の戦い」の総大将として戦地に臨み、唐により捕囚されて帰還したものである。

  ⑧667年「天智天皇」により「近江朝」が開設された時点において、支配者不在のまま「九州王朝」は滅んだのである。  

  ⑨伊豫国において生きながらえていた「斉明天皇」の「天皇」号は、何ら実体のない形骸化した自称「天皇」の意味しかないものとなったのである。

 

異説

 ①「近江朝」661年成立説(古賀達也「九州年号の研究」)

  根拠:「海東諸国紀」における「(斉明)七年辛酉,白鳳と改元し,都を近江州に遷す。」の記述(ちなみに書紀は「斉明7年是の月に、皇太子、長津宮に遷り居します。」)

 ②667年成立としつつも、九州王朝系近江朝とする説(正木裕「失われた倭国年号」の中の『「近江朝年号」の研究』の論考)

 ③筑紫君薩野馬は、唐の都督として帰還し、「九州王朝」はなお存続した。

 ④筑紫君薩野馬は、唐の都督として帰還した「大海人皇子」である。しかし、敗戦後も依然として「九州王朝」は存在し、「近江朝」と共立した。

 

私見

  異説①に対して

   ⅰ、遷都(いわゆる都を遷すこと)の権限は、支配者たる者(例えば「王」)に専属する権限・権能であって、他のいかなる者にも譲ることができるものではない。

   ⅱ、661年当時、中大兄皇子は「称制」期間中であり、政務を代行できたにしても、遷都まで行うことはできない。

   ⅲ、そもそも、661年に「近江に都を遷した」との記述は「海東諸国記」にしか見えず、「書紀」の記述とも合わない。のみならず、それを裏付ける史・資料もほかに見当たらない。

  異説②及び③、④に対して

   ⅰ、これらはいづれも、倭国の人物が「唐の都督」として帰還したことを前提としている。

   ⅱ、その根拠について、正木氏は次のように述べる。

     百済・高句麗・新羅の各王は,唐に臣従し,それぞれ都督に任命されていることから,筑紫君薩夜麻も同様唐に臣従し,都督として帰国したことが十分推測される。都督府があれば都督が存在するのは言うまでもないが,「書紀」では誰も「都督」に任命された形跡がない。薩夜麻が他国同様「都督」に任命されたとすれば,この時点で「筑紫都督」として送り返されてきたと考えるのが合理的だ。(『「近江朝年号」の研究』)。

 

A―⒔,唐は「倭国」の人物(薩野馬或いは大海人皇子)を都督として任命していない(Ⅽ―6,参照)

 ・百済等の都督については、人物名を含め記述があるのに、何故倭国についてはそれがないのか、について正木氏の説明がない。一方的な推論にしか過ぎない。

 ・それは、逆に任命がなされていなかったことの裏返しではないか、との見方もでき、むしろその方が合理的とも言える。

・筑紫君薩野馬が「唐の都督」として帰還しているのであれば、その後唐軍(郭務悰)の力を背景に、敗戦後の「倭国」の統治等に大きな影響がでたであろうが、そうした痕跡を示す史・資料は全く存在しない。

・こうした推論を招く要因は、「書紀」に「筑紫都督府」の記述が見えることにあると思われる。

 

A―⒕,筑紫都督府は存在していない

 ・天智6年11月の条に「百済の鎮将劉仁願、・・・等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る」との記述がある。

 この記事を下に、筑紫に「都督府」が置かれたと解されている。

 ・しかし、これについては十分な検証が必要である。

 ・そもそも唐は倭国の捕虜を帰還させる際、どこに連れ帰ったと考えるべきなのか。

 ・戦勝国として敗戦国の「倭国」と戦後の交渉を行うに当たっては、「倭国」の都において行われたと解すべきものと考える。それは「都」の置かれた「太宰府の地」である。

 ・ここにおいて、時の統治者=称制していた「中大兄皇子」との交渉が行われたものであろう。

 ・その時、戦勝国の権威・権力を示す意味で、捕虜の一部を連れ戻ったと考えられる。

 ・このことから、本来「書紀」は「石積等を都に送る」と記すべきものであった。

 ・しかし、「書紀」自体が「九州王朝」の存在を正面から記すことを伏せているため、「太宰府の地」に都があることを記すことができなかった。かといって送ってきた場所を適当に記すこともできない。

 ・その結果出てきたのが、「倭国の都」に代わって、それなりの権威ある場所として「筑紫の都督府」という架空の文言が記されたものと考える。

 ・実際、「旧・新唐書」の他いかなる中国史書のどこにも「筑紫都督府」についての記述は見当たらない。

 

A―⒖,その他

  近江朝や天智天皇について、以下の通り論ずべき問題は残されているが、その一部はブログ等に譲ることとして、今回は時間・紙幅等の関係により割愛したい。

 ①天智3年の「冠位改正」は、実際は「白村江の戦い」の前に行われたと解すべきこと

 ②そこに記された「天皇が大皇弟」にさせたとの記事は、「天皇=斉明」・「大皇弟=大海人皇子」と解すべきこと

 ③通常「甲子の宣」と呼ばれる「詔」は天智3年の「冠位改正」ではなく、実際は「中大兄皇子」による「称制」開始の「詔」であったこと

 ④天智10年の「冠位」の施行記事については、3年の改正記事の重複記事ではないかとして「不審」とされてきているが、九州王朝の「斉明天皇」が改正した冠位を7年後になって改めて「天智天皇」が「近江朝」において追認したものと解すべきものであること

 ⑤天智9年の戸籍編纂により作成された「庚午年籍」は、「近畿天皇家」による「倭国」の新王朝開設の出発点となるため、そ の後「持統天皇」によって行われた「庚寅年籍」(持統4年)とは異なり永年保存とされたものと解すべきものであること  

 ⑥「太宰府」は、「近江朝」成立後、一地方となった北部九州を統治するため「天智天皇」によっておかれたものであこと、など

 

B―1,何故「壬申の乱」は起きたのか

 ・天智天皇崩御の後、「近江朝」を継いだのは「大友皇子」であった。

 ・これは、残存する兵士以外の「九州王朝」縁りの人達にとって認めがたいことであった。

 ・確かに「斉明天皇」の戦争責任を免がせるため、「伊豫国」に隠匿し、唐に対しては「崩御」していたと伝えた。そのため、「中大兄皇子」に「称制」として「倭国」の代表者としての地位を与え敗戦交渉に当たらせたものであるから、唐が後ろ盾となって「中大兄皇子」に「近江朝」を開かせることに反対はできなかった。

 ・しかし、その「近江朝」を「大友皇子」が承継するとなると話は別である。

 ・これを認めると、「倭国」の宗主国は「近畿天皇家」に移ってしまう。即ち、「都」は二度とかつての九州の都にもどることはなくなってしまう。それだけではない。かつて栄華を誇った「九州王朝」は「近畿天皇家」の支配下に置かれてしまうこととなる。

 ・「大友皇子」を倒して、それを防ぐことが「九州王朝」縁りの人々にとって、喫緊の課題となったのである。

 ・それを為し得る人物として白羽の矢がたったのが「大海人皇子」であった。

 

古田武彦氏の「壬申の乱」

 ・乱を起こす以前に、大海人皇子は郭務悰に会って了解を取り付けている。

 ・当時の馬の1日の走行距離からみて、「大海人皇子」軍の行動には無理がある。

 ・そのため、当初は乱の起きた場所を九州の「吉野」としたが、その後乱そのものがなかった、とされた。

 

その他一部の多元史観論者の見解

 ・古田氏の見解を承認しつつも、乱そのものは「書紀」の記述通り「近畿」で起こった、としている。

 ・ただし、馬の走行距離の問題と乱の発生場所との乖離についての具体の説明はない。

 

B―2、乱発生時の「書紀」の記述への不審

 ・「書紀」は、大友皇子が天智陵を造るために美濃など東国から人夫を集めたが、実質は彼らが兵であったことや、菟道の守橋者が大海人皇子側への食糧を運ぶことを遮断する行為に出ていることに、大海人皇子側が危機感を抱き乱へと発展したと記述している。

 ・しかし、これに対抗すべく6月22日に美濃国に出兵を命ずるとともに吉野を出発する際、「不破道を塞げ」と命じている。

 ・これがあっという間に実現している。

 ・その後の展開をみても、それまでに美濃など東国との話し合いができていなければ、充分な対抗措置が急激にとれたとは考えられない。

+

B―3、「大海人皇子」戦略

 ・吉野に隠遁したと言いながら、郭務悰のところへ出向いたりして、「書紀」は記していないが、大海人皇子は大友皇子の「近江朝」を滅ぼすための事前工作を行っていたのではないかと疑わざるを得ない。

 ・九州を含む西国は、もともと「九州王朝」の支配下にあったものであるから、事前に自分の見方に引き入れておくことは容易であったろう。

 ・問題は東国にあった。大友軍が東国に逃亡すれば、戦線が拡大し捕らえることが困難になる。そのため、事前に美濃国などの東国と話をつけておく必要があった。

 ・それは、東国への道を塞ぐことであり、その要衝である「不破の道」を塞ぐことであった。

 ・それが、大友皇子が命じて集められた美濃の人夫たちの裏切り行為によるものなのか、改めて美濃国側で用意されていたものなのかは不明ではあるが、実際に塞がれている。

 ・大海人皇子の戦略は、「近江朝」が東国へ脱出できず、西国も抑えられると「袋の鼠」状態となる。正に、決戦の場を「瀬田」近辺に定め、兵をそこに集中する作戦をとったのではないか。

 ・このための事前工作を行っており、「近江朝」側の出方を伺っていたのではないか。

 ・大友皇子が吉野へ逃れる際、「書紀」には「虎に翼を着けて放てり」との言葉が載る。「朝廷」を離れて監視の目が行き届かなくなったために自由な行動がとれるようになったことが「翼を着けて放てり」の意味であり、「虎」こそがやがて歯向かってくる巨大な敵の意味であった、と解する。

 

B―4、「天武朝」は承継か、簒奪か

 ・仮に、天智天皇が定めたとされる「不改常典」があったとすれば、「大友皇子」こそが正当な「近江朝」の後継者であり、それを破った「大海人皇子」は「近江朝」の簒奪者ということになろう。

 ・また後年の明治政府は、「大友皇子」に「弘文天皇」として諡号を追贈している。正木裕氏は、年号「果安」を定めたともしている。

 ・しかし「書紀」は、「大友皇子」の即位を記さず、「天智紀」から直接「天武紀」へとつないでいる。承継を前提とした書きぶりである。即ち、承継か簒奪かを曖昧にしている。

 

B―5,「天武天皇」の出自

 ・「書紀」は「斉明天皇」が「天智天皇」「間人皇女」「天武天皇」を生み、天智が兄・天武は弟と記す。

 ・しかし、「一代要記」・「本朝皇胤紹運録」に「天武の没年は六五歳」とあることから、「天武は推古31年(623)誕生」となり、佐々克明・井沢元彦・大和岩雄・小林恵子の各氏らは「天武は天智の4歳年上であり、更に兄弟説を否定する」見解を述べている。(注:最近では合田洋一氏がこの見解をとっている)

 ・これに対し坂本太郎氏は、これらの書は後代史料であり信ずるに足りない。基本は『書紀』にある」として一刀両断、切り捨てている。

 ・ここで詳細な検討を述べるのではないが、「非兄弟説」を簡単には無視できないものがあるように思われる。

 ・「天武」が「近江朝」を継承した、との建前を貫くために、「書紀」は「兄弟説」を書き、それとの辻褄合わせとして「斉明=皇極重祚説」を導入した。それにより、「斉明=九州王朝天皇」を否定し、「斉明661年崩御」を記述した、として一連の「書紀」の記述を理解することができる。

 ・このように考えると、本来「九州王朝の斉明天皇の子であった大海人皇子」が「壬申の乱」を起こす人物とした「九州王朝」縁りの人達の意思も明確になるように思える。

 ・また「藤氏家伝」に載る「祝宴の最中、天智の面前で大海人皇子が床に槍を突き刺した」という逸話も、理解しやすくなる。

 ・ただ「大海人皇子」の出自を「九州王朝」とした場合、「近江朝」から「天武朝」の交代は、王朝交代を意味することになる。本稿ではそうしたことを断言するのではなく、とりあえず「書紀」の記述に従っておきたい。

 

B―6、「天武朝」の「都」と「年号」問題

 ・「壬申の乱」に勝利した後、「大海人皇子」は「近江」に行かず、倭京の嶋宮に行き、そこから岡本宮に移る。

 ・この岡本宮の南に「飛鳥浄御原宮」を営り、そこで即位したと「書紀」は記す。

 ・だが、そこに都を「近江」から遷すとの「詔」は見えない。また、新年号を定めたとの記述もない。

 ・「天武」が「近江朝」を承継したのであれば「遷都」であり、簒奪したのであれば新王朝としての「建都」となるため、「都」を定めることをしなかったのではないか。

 ・同様に、天智・大友の年号を改元すれば、それは承継であり、新たに建元すれば、簒奪となるためそれもできなかったのではないか。苦肉の策として、年号については、「近江朝」年号を無視して、「斉明朝」の年号「白鳳」を復活・継続させたのではないか。それが「天武白鳳」として、後代の民間史料に「天武白鳳〇年」として散見されるのではないか、と思われる。

 

B―7、天武と天皇号

 ・飛鳥池跡から出土した木簡により、天武が天皇を号したことが認められるが、何時から号したかには定説がない。

 ・「斉明天皇」が伊豫国に隠匿されて生存してる間は、天智も天武も「天皇」を号することはできなかった。

 ・天武8年「斉明崩御」により、天武は新たに「天皇」位を承継し、号したものと考える。それによって、「九州王朝」縁りの人々にも、改めて自分が支配者であることを示したのである。

 ・この後、天武政治の大転換がはじまった。

 

B―8、天武と皇親政治

 ・「壬申の乱」後、「天武朝」には、「九州王朝」縁りの人物と、処罰しなかった「近江朝」縁りの人物と、自ら率いてきた人物の三派の人物が混在することとなった。

 ・この三派の人々を分裂させず融和を図ることが、安定した政権運営に重要なこととなった。

 ・このため、どの派からも不満がでないよう左右大臣を置かず、それまでにない皇族だけで政治を行うという異例の「皇親政治」という形をとった。

 ・この間、天武には目立った大きな政策は行われていない。

 

B―9、天武政治の大転換

 ・天武8年、天武は「天皇位」を承継するに際して、吉野において皇后及び草壁皇子ら七人の皇族を集め、一層の結束を誓った。いわゆる、「吉野の盟約(会盟)」である。

 ・「政治政策の基本方針」

外国にも通用する強力な国家の構築(中央集権的国家形成)を目指したことは,後の天武の実績からも窺える。

 第一,唐をモデルにした大規模な「都城」の整備(藤原宮)

 第二,律令国家たるべき「法整備」(飛鳥浄御原律令)

 第三,支配の正当性を証する「史書」の作成(日本書紀)

 第四,支配者としての権威ある「称号」(天皇号)

  ・他に、「国名表記変更」は「天皇位承継」と一体に行われた、と考える。

   (国名は「ヤマト」とし、表記は「倭」でも「日本」でもいづれでも良い、とした。)

     根拠:「万葉集」巻一の「山上憶良」と巻三の「高市黒人」の歌。

        「去来児等 早日本辺 大伴乃 御津乃浜松 松恋奴良武」(山上憶良)

         (読み下し:いざ子ども はやく やまとへ大伴の 御津の浜松 待ち恋ぬらむ)

        「去来児等 倭武早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将帰」(高市黒人)

         (読み下し:いざ子ども やまとへはやく 白菅(しらすげ)の 真野のはりはら 手折りて行かむ)

 「日本」といった国号の変更は,・・・それは漢字表記を「倭」から「日本」へ変更したということであり,和音呼称は「ヤマト」として変わらないということである。憶良の歌の「日本」が「ヤマト」の和音であることは,高市黒人の歌から,「早日本辺」と「倭部」が同類であることから明らかであろう(富谷至説)。

 高市黒人が歌う「倭」は,奈良の大和であり,国名ではない。八世紀では「ヤマト」には国名としての呼称と, 都大和の呼称の二通りが存在し,それは「日本」とも「倭」「大倭」とも漢字表記されたことは,確かである。

そして,「倭」「大倭」は,国内では八世紀にはいっても,そのまま「ヤマト」の漢字表記として使われていた。

 ・独自の年号制定については「書紀」に「朱鳥(アカミドリ)」が見えるが、「九州年号」にある「朱雀・朱鳥」の年号が天武の定めた年号と考える(なお、異論あり)。

 

Ⅽ―1,「天武崩御」後の「書紀」の記述

 ・天武10年2月、「天武」は「草壁皇子」を皇太子とし、12年2月に「大津皇子」を朝政に加えた。これにより、「天武」の皇子達の中で後継者となるべき者の序列が事実上決定した。

 ・「天武崩御」後、「草壁皇子」が直ちに即位した形跡はみられない。

 ・そればかりか、持統2年に持統の「臨朝称制」が開始された。

 ・その年の10月に「大津皇子」が謀反の疑いで自害させられた。

 ・またその翌年の持統3年には「草壁皇子」も没した。

 ・持統の「臨朝称制」の期間中、「天武」の後継者となるべき皇子は、「高市皇子」のみとなった。

 ・しかし、持統はその翌年の持統4年正月に天皇に即位した。

 

C―2,持統天皇の「臨朝称制」の不審

 ・何故3人の皇子がいる中で、「鸕野讃良皇女」の「臨朝称制」が行われたのか、不審である。

 ・おそらくは、皇太子「草壁皇子」の体調に問題があったのではないか。

 ・そのため、「草壁皇子」の即位までの間、皇后「鸕野讃良皇女」が「臨朝称制」を行ったのではないか。

 ・ただ「草壁皇子」に万一の事態が生じた場合を想定し、事前に「大津皇子」を自害に追い込んでいたのではないか、との見解もある。

  

C―3,皇后「鸕野讃良皇女」と「高市皇子」との後継争い

 ・「草壁皇子」の薨去の後、後継者となるべき皇子は「高市皇子」のみとなり、「高市皇子」が即位すべきものと考えられるが、持統4年正月に即位したのは「鸕野讃良皇女」であった。

 ・そもそも「天武」の子がいる中で、皇后に後継者となるべき資格があるのだろうか。

 ・「高市皇子」は皇后の即位を簡単に認めたのであろうか。

 ・結果は「高市皇子」の同年7月の太政大臣に表れている。

 ・だが、「高市皇子」の子「長屋王」の邸宅跡から、一枚だけだが「長屋親王」と書かれた木簡が出土していることが物議をよんでいる。

 ・「長屋王」が「親王」だったとすれば、その父「高市皇子」は「天皇」だったのではないか、との見解である。

 ・その当否を論ずるには、余りに史料がない。(なお、明治政府は「大友皇子」には「弘文天皇」を追贈したが、「高市皇子」には「天皇位」の追贈を見送っている。)

 ・一つ推論すれば、「高市天皇」誕生を庶民に誤解させるような状況があったのではないか、ということである。

 ・矢張り、「持統天皇」の誕生はすんなりとはいかなかったのではなかったか。

 

C―4、「持統天皇」誕生への主張

 ・持統は、「臨朝称制」開始時点では、「天武」の後継者たるべき「草壁皇子」の体調不良を理由にしたと思われ、その意味では皇后として「天武朝」の後継的立場を主張・理由としていた。

 ・ところが自らが「天皇位」に着くと、その根源を「天智天皇」に求め、更にその淵源を「神武天皇」にまで遡らせている。

  根拠:「大唐の郭務悰が御近江大津宮天皇(天智天皇)の為に造れる阿弥陀像を上送れ」と命じていること(異説、服部氏、以下同)。

     文武天皇の即位宣命文にある「倭根子天皇命」と「藤原宮御宇倭根子天皇」はいづれも「持統天皇」の尊称とみられる    こと。

     また、その始原を「高天原に始まり、遠き天皇の祖先の御世」として「神武天皇」にまで遡っていること。

 ・これは明らかに自らの出自を「近畿天皇家」に置き、九州を拠点とする胸形君徳善の娘「尼子姫」を母に持つ「高市皇子」との違いを際立たせているものである。

 ・これによって、「近畿天皇家」による列島支配は更に明確になったものと思われる。

 

C―5、「持統天皇」の事績

 ・称制期間中に、「天武天皇」の喪の行事を長くかつ盛大に行ったこと以外に目立った事績はなく、即位後も、「庚寅年籍」の作成、「藤原宮」(「新益京」とも呼ばれた、と解されている)を完成させた程度である。

 ・ただ、考察すべき2つの問題がある。一つは、持統4年に帰国した「大伴部博麻」への対応とその意味であり、2つは「文武天皇」への譲位の際に行われた「定策禁中」の意味である。

 

C―6,「大伴部博麻」への対応とその意味

 ・持統四年十月の条に,唐に捕囚の身となり三〇年ぶりに帰国した大伴部博麻に対し,詔が下されたとの記述がある。その中味たるや一軍丁(兵士)に賜うには,前後に例を見ないほどの破格なものであった。その中で最も目を引くのが,「水田四町賜う。其の水田は曾孫に及至せ。三族の課役を免して,其の功を顕さむ。」との記述である。

 古田氏の言うように,大義に実がないというならば,単に自らの褒賞授与の権威を示すためだけに,曾孫にまで及ぶような褒美と三世までも課役の免除などというものは一兵士に与えられるものではないであろう。

 また,「封禅の儀」の開催を事前に連絡したことが「唐人の計」を知らせたことであり,それに対する褒美と考えることにも無理がある。なぜなら,「封禅の儀」の開催は決して機密事項ではなく,逆に唐は周囲の国々に広く参加を呼び掛けていたものであるからである。これを博麻への褒美の根拠とすることも考えられない。

 では,何故持統はこれ程までに破格の褒美をもって,博麻の行為に報いようとしたのだろうか。これまでに論述したとおり,「降伏・臣従しなければ,薩夜麻を処分し,改めて倭国を攻める」という唐の計(はかりごと)を身を売ってまで本国に知らせたことにある。この知らせによって,持統天皇から見れば,大きく六つの効果があらわれたのである。

ⅰ薩夜麻の助命嘆願ができたこと。(九州王朝勢に恩をうることができた)。

ⅱ「降伏・臣従」で近畿・九州の両王朝を一つに纏めあげることができたこと。

ⅲその結果,対唐との交渉すべき倭国代表に中大兄皇子が就き,称制が両王朝の間で公認されたこと。

ⅳ唐からの侵攻を現実化させなかったこと。

ⅴ称制から後に,天智天皇により近江朝が開かれるに至ったこと。

ⅵこの近江朝から天武天皇を間に挟みながら,一度も都を九州の地に戻すことなく,その直接支配領域を近畿・九州地域としつつ,近畿王朝を主体とした持統朝が成立していったこと。

 正に,王朝(国家)の存亡と興隆をかけ,大きな転換点をもたらした「大伴博麻の知らせ」にこそ,持統天皇が破格の褒賞を以て応えたのである。

 

C―7,「定策禁中」の意味

 ・持統11年8月「天皇、策を禁中に定めて、皇太子に禅天皇位りたまふ」と記す。世に言う「定策禁中」である。

 ・この時の紛糾した様子を「懐風藻」が記している。最後は葛野王(大友皇子の長子)の言で「珂瑠皇子」を天皇とすることが決まった。これをみた皇太后(持統天皇)が喜んだとされる。

 ・この記事から、「持統天皇」もこの会議に加わったとして、「臣下の人間で構成され、決定されるのが定策禁中であるから、持統も臣下の一人とし、譲位は持統の天皇位ではない」として論を展開する見解が見受けられる(例えば、服部氏等)。

 ・しかし、この記事だけでは「持統天皇」がその会議に加わっていたかどうかは判断しにくい(結果報告を受けただけとも考えられる)

 ・仮にその場に居合わせただけ(いわゆる陪席)の場合であっても「定策禁中」ということはできないのかどうかの問題もある。

 ・更に、自ら「生前譲位」を決意して会議を開かせるようなことは異例であり、その後継者について臣下の意見を聞こうとすることは、単に「群臣会議」ではなく、それ以上の格をもった会議として「定策禁中」と呼んだと考えて良いのではないかとも思う。

 ・結果は、「持統天皇」から「文武天皇」への生前譲位であったとして問題ないと考える。

 

Ⅾ―1、「7世紀における王朝交代」のまとめ

 ⅰ667年「天智天皇即位」により「近江朝」開設。

   これにより、「九州王朝」から「近畿天皇家」へ「王朝交代」となる。

   九州王朝の「都」は廃され、近江大津が新たな「都」となる。

 ⅱ「天智天皇崩御」の後、「大友皇子」が「弘文天皇」として継承する。

 ⅲ671年「大海人皇子」が「弘文天皇」を破り(壬申の乱)、新たに即位。

   「大海人皇子」の出自を「近畿天皇家」とするならば、「壬申の乱」は「近畿天皇家」内部の争乱であるが、「弘文天皇」を武力で破ってその地位を継いだことが「簒奪」なのか「承継」なのか、の問題が残る。

   ただいずれにしても、王朝は「近畿天皇家」のまま継続された。

   「日本書紀」は、この立場で書かれている。

   その一方で、「大海人皇子」の出自を「九州王朝」との見解もあり、この場合は再び「九州王朝」への王朝交代があったものとなろう。

 ⅳ「天武天皇崩御」後、「鸕野讃良皇女」が4年間の称制期間を経て「持統天皇」として即位。

  即位後は自らのルーツを「天智天皇」に求めたため、「天武朝」の如何にかかわらず「近江朝」の後継との立場。

 ⅴ「文武天皇」は「持統天皇」の生前譲位を受けて即位したものであり、「近畿天皇家」の王朝を承継した。