「大化改新」論(三―四)
――「狂心の渠」と「前期難波宮」について――
一、第二次防衛設備の整備構想
(一)必要性
唐の侵攻を予測した際、「都」のある本拠地「太宰府」を拠点に戦うことの不利を考え、その主戦場を「瀬戸内海」に引き込むこととした場合、最も重要なことは自らの拠点をそこに置いたままとすることはできない、ということである。
「唐」の侵攻に対し、あたかも敗走するかのように見せて、「唐軍」の追撃を誘発させることが必要となろう。これはあたかも、朝鮮半島において「唐・新羅軍」が、「倭国」からの攻撃を受けた際に、一度敗走したかのようにみせて「倭国軍」を内陸まで引き込んで、その後物資の供給路を断って反攻に及んだという戦法にも一致する。
その際、「都」から一時的に避難すべき場所、そして追撃する「唐軍」を十分に引き込むことのできる場所がどこかと言えば、それは瀬戸内海の最奥部、すなわち「難波」の地をおいて他にないであろう。
ここにこそ簡素とはいえそれなりの風格をもった、仮の「宮」を整備しておくことが必要となったものと考える。
(二)仮の「宮」整備のための条件整備
ア、「難波」の地は、「九州王朝」の直接支配地ではないこと。
イ、難波の地を支配する「孝徳天皇」に「宮」整備を決断・決定させること。
ウ、決断・決定は「近畿天皇家」の自主的なものとみなされること。
二、布石
(一)「近畿天皇家」が「親唐・親新羅」に向かおうとする中、「九州王朝」配下の「蘇我入鹿が「親百済」政策へ引き戻そうとしたことが「乙巳の変」を惹起した、ということを「乙巳の変」で述べた。
難波の地に新たな「宮」を建設しようとする際、「九州王朝」の決定を「近畿天皇家」に押し付ける形をとった場合、「乙巳の変」と同様「近畿天皇家」の反発を招き、同じ轍を踏みかねないとの危惧が「九州王朝」内部にあったことは想像に難くない。
これを避けて「近畿天皇家」の自主的決定とするための方策が実際に採られている。それは、「九州王朝」配下の人物を、蘇我氏のような「目付的」役割ではなく、「近畿天皇家」内部に直接送り込むことである。送り込まれた人物、それは「蘇我倉山田石川麻呂」であった。
(二)孝徳大化四年夏四月条に「古き冠を罷む。左右大臣,猶古き冠を著る。」との記述がある。これは、孝徳朝において任ぜられた左右大臣が、体制外の人物であったことを表していると考えられる。
「九州王朝」支配下の人物を他王朝に送り込んだ際、それまで王朝内部の人物についてのみ与えていた「官位」を、外部の人物にも与える必要が生じた。そのために採られた措置が「官位」の改正である。大化三年是歳条にある「冠位十三階」の制定は、新たに賜与対象を外部の人物にまで広げることを前提としたため、「官位」に変えて「冠位」という新制度を設けたものであり、その階級を十三段階としたものである。
ところが前述のように「書紀」は大化四年夏四月の条に、左右大臣が新冠位に従うことを拒否していると記述する。即ち新「冠位」に従わず、旧「官位」である古冠を着用したと言うことは,孝徳朝下の人間でありながら,同時に自分の本籍は九州王朝にあること,すなわち身分の二重性を外見的に主張したものと理解できる。
「入鹿」を裏切り「中大兄皇子」に協力して「乙巳の変」を成功させた「石川麻呂」を孝徳朝下に送り込もうとしても、「中大兄皇子」等は反対できないであろう,との読みが「九州王朝」にはあったのではないか。
しかし送り込まれた「石川麻呂」の古冠の着用からは,二つの意味を読み取ることができる。一つは,自らが「九州王朝」より「近畿天皇家」の重臣として送り込まれていることの表現。もう一つは,「入鹿」斬殺に加わった「九州王朝」への裏切り行為に対し,二度と裏切ることはないとの「九州王朝」への忠誠の意思の表明ではなかったか。
このようにして「九州王朝」は,「近畿天皇家」の政策決定について内部から「九州王朝」の意思に沿ったものにしようとしたのではないかと考えられるのである。
三、難波における「宮」整備の決定・遷居
(一)「九州王朝」は、配下の人物「蘇我倉山田石川麻呂」を孝徳朝の右大臣として送り込むことによって、難波に「宮」を造営させる決定をさせた。これは外形上孝徳朝の決定と見せながら、実質的には「九州王朝」の意向を反映させたものである。
(二)この決定により大化元年(六四五)十二月の条で,「都を難波長柄豊碕に遷す」としている。しかし、孝徳は「九州王朝」」の人物ではないため、本来的には都を移す権限を持たない。ただ、「書紀」は「近畿天皇家」一元論を貫いており、孝徳も天皇という立場で貫いている。そのため「遷都」という形で記述したものである。実態は孝徳の「居の移転」に他ならない。
(三)その一方、「書紀」は大化元年の条で「春から夏に鼠が難波に向かった」としている。【なお、書紀の記す「鼠」とは「建築・土木の技術・技能集団」と解することについては「鼠移動記事の意味するもの」考(一)参照】。その期間は,わずか三ケ月程度の短期間であり,それ程大きな工事があったとは見做せない。
ここに言う「鼠」の三ケ月程度の難波派遣・滞在の記事について,「九州王朝による難波地域の現地踏査が主たる目的」ではなかったかと考える。即ち,「前期難波宮の建設」に向けた最初の現地確認が行われたものと推量する。
そこから現地の地形・利用等の使用状況を確認し,その上で建造物の規模・配置等のいわゆる設計,資材の調達方法,労働力の確保といった諸々の調整・手配等の準備作業が行われたものと考えられる。
しかし、ここにも「九州王朝」の意図が見え隠れしている。「鼠」が三ヵ月の現地調査を終えた後の十二月の孝徳の「居の移転」である。「九州王朝」には適当な候補地が確認され、実際の「宮」建設の見通しがたったのであろう。そこで、「難波」に「宮」を整備する以前に、「孝徳」自身にそのような計画があったかのように見せるため、早々に「居の移転」をさせたと見ることができるのである。
(なお「孝徳の宮」については、、大化三年に「小郡を壊ちて宮営る」、同年十二月には「武庫行宮に停まる」、大化四年正月には「難波碕宮に幸す」、白雉元年正月には「味経宮に幸して」、同二年十二月には「大郡より遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊碕宮と曰ふ」、同三年正月には「大郡宮に幸す」などの記述があり、「前期難波宮」を含めて具体の宮の存在地や時期については十分な特定ができていない)。
四、「宮」整備
整備時期については、大阪文化財研究所等の発掘調査とそれを受けての多元論者の研究により明らかにされてきた。そこでは,「前期難波宮」は六四九年工事着手,六五二年完成と解されている。正に、四年の準備期間を経て工事着手に至ったものである。
五、実質的な建設者
(一)形式的には「孝徳」の決定との外見を装いながら、実質的には「九州王朝」による建設としたものであるが、ではそれは誰とみるべきなのか。
それは、六四六年崩御と見られる「利歌弥多弗利」の後継者である。この人物こそ「乙巳の変」以降、「親百済、反唐・反新羅」路線を決定し、「改新の詔」を下し、一連の政策決定を遂行した重要な人物なのである。しかしこの後継者については、当然のことながら「書紀」に記述はない。手掛かりとなるのは「万葉集」である。
(二)「万葉集」には何人か不可解な人物名が載る。その中でも、様々議論を呼んでいるのが「中皇命」である。そうした中にあって、かつて当ブログにおいて、「中皇命」こそ「利歌弥多弗利」の後継者であると論じてきた。『二三九等歌論集、三番歌論考、同(続)、(十~十二続)番歌考』。ただ、彼は六五二年、狩りの途中で「事故死」した。その後継者が妃であった「斉明天皇」である。完成後の「前期難波宮」の利用は、「斉明天皇」に引き継がれることとなったのである。
六、「前期難波宮」の役割
「九州王朝」の最大の目的は、「唐」の侵攻があった際の防衛拠点にあったものであるから、それが現実化される以前は「近畿天皇家」の利用を妨げるものではなかった。大化元年(六四五)以前に孝徳が難波に居を移した時点では、仮の住居しかなかったわけであるから、完成を待って「前期難波宮」に移転したものとみて差し支えない。ちなみに、「書紀」白雉四年是歳条に、「中大兄皇子」は孝祖母尊等一行を引き連れて、孝徳のみを残して飛鳥に戻った旨記す。このことからも、孝徳のみならず中大兄皇子等も「前期難波宮」に居たと解される。
なお、この時の中大兄皇子の行動や「前期難波宮」の利用については、別稿で改めて論ずることとしたい。本稿では、「前期難波宮」が「唐」からの侵攻を想定して、迎撃拠点を大宰府から瀬戸内海の最奥部の難波に定め、そのために整備されたものである。その決定は、表面的にはその土地の支配者である「近畿天皇家の孝徳」でありながら、実質的には「九州王朝」の意向により造営されたものであるということを論じたことに留めたい。