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                            (写真は本文に関係ない とある日のセーヌ)

 

娘が初めて レガッタに出場したという。

 

勿論 彼女のボートは新入生や今年始めたばかりの

「初心者」の寄せ集め。

 

競っていた相手より 概ねリードをし続けたが

終盤 一緒のボートの子のオールが川底にささり

右往左往している間に 抜かされたちゃった~!!

と そのトラブル自体をも楽しんだらしく

嬉しそうに報告をしてくれた。

 

それで良しだと思う。

 

国民の期待を背負って出場するオリンピック・・・とか

実業団に所属することで 自らの背に大金が生じているとか・・・・

「楽しむ」以上のプレッシャー、使命感でスポーツをせねばならぬ状況の人も

多々あるだろう・・・・・が

 

こと 我が子に関しては

人生何事も 「ほどほど」にがんばり

そこに付随するであろう 「諸々」のトラブルも

どこか 俯瞰し、 時に諦念し

 

それをもひっくるめた 全てが

結果オーライ・・・・だと 楽しめる心の余裕を

持ち続けいてほしい・・・・と思う。

 

そして 実際 私の希望云々を意識することなく

その時々を 案外丁寧に楽しく生活できているようで 何よりだと思う。

 

親が 子供に 完璧を求めないでも

いつしか 子は その子だけが属する世界で

それらを求められる時がやってくる・・・・・

 

「絶対大丈夫!」 と 心の内で安堵できるであろう成績を残してきていた娘が

学校全体の教師、生徒、その保護者からの期待を一身に背負い

心の均衡を崩しはぐったときのように・・・・。

 

 

親が親として大切なのは

根拠のない周囲の無責任な

「絶対」を 後押しするのではなく

 

一見「絶対」だとみられる中での

逃げ場の提供だと思う。

 

子より 少なくとも 30年前後の長き人生を歩んでいる分

自らが経験した 絶対・・・・に裏切られたときの対処方法

 

思わぬ 失敗

思わぬ 不幸

思わぬ トラブル・・・・・

 

それらの存在のぼやけた形と

それらが 必ずしも 自らの不手際で起こるわけではないということ

自らが「完璧」を用意していたつもりでも

その隙間をぬって やってくること「も」あるということ。

 

無論

 

緊張でキリキリしている相手に

ネガティブに迫れ・・・・といっているのではなく

 

予期せぬ事態に巻き込まれたときに

心の逃げ場を確保しておいてやるのが

経験値が浅い子供への 親からできる 数少ないものだ・・・ということ。

 

「絶対」 とは 非常に厄介なもので

それ以外の選択肢を わからなくする。

 

他人のクチにする「絶対」 ほど

その効果(他の選択肢を見えなくする)は絶大であり

 

そんな 「絶対」から逃げられなくなった人間が

良からぬ心の状態に陥り 自らを深みにはめていく・・・・という経験は

私自身の人生で実証済であるから 他者には決してお薦めしない(笑)

 

 

以前身近に 非常に優秀なお子様がいらした。

 

周囲からは 中学受験時

都内最難関校(≒日本最難関)の一貫校への

合格は「絶対」大丈夫だと言われ続けてきた。

そこへ進み、末は東京大学理Ⅲから医師へ・・・の道を

まるで周囲が約束しているような そんな優秀さであった。

 

今思えば

周囲の無責任な「絶対」は その親子を縛り続けたのだろう・・・。

 

 

だが 勝負(受験)に挑むのは 血の通った人間である。

それも まだ精神が確立せぬ子供である。

 

どんなに優秀であっても

体調が悪いときもあれば

精神的未熟な思春期 周囲に吞まれることだってある

 

普段どんなに訓練されていても

生まれつき どんなに優秀であっても

 

肝心の「当日」

かつてないほど 人間らしい心境に陥ることもあるのだ。

 

そのお子様は 周囲の期待を通り越し「当たり前」だと思われた

合格を 手にすることができなかった。

 

悲劇はその後始まった。

 

目の前で お子様本人より「絶対」 に呪縛されたお母様が

倒れ 救急搬送されたのだった。

 

周囲の絶対を裏切ったばかりではなく

親を倒れるほど追い込んだ・・・・・

 

(実際は 周囲の期待なんて周囲の勝手だし

親が倒れるのも そのお子様のせいなんかじゃない! が

本人は そう思うしかない・・・・・)

 

その時 支えてやれるのは 親・・・・ 特に 一番間近にいる母親であるはずなのに・・・・

その母親が 自らを追い詰め 倒れ・・・

肝心のお子の心を救うことができなかった。

 

そのお子様は

それを境に 火が消えたようになってしまった・・・・・・。

 

無闇に「絶対」 と声をかけていた輩は

絶対の代わりに 「お気の毒」の声をかけ

どこか その変化をも楽しんでいるように見受けられた。

 

他者の口にする「絶対」 は その程度の「絶対」なのだ。

 

無責任な「絶対」の矢から 子を護り

どこに転がっているかわからない

「万が一」に備えること それが親に残された

数少ない してやれること・・・なんだと思う。

 

何も 受験ばかりではないのだが・・・・

スポーツをする子供を持たないので

わかりやすいケースで表現させていただいたが・・・・

 

親は 子に 逃げ場を提供し

安心して 子が挑める状況をつくってやることが大事だと思う。

 

その上で

子が 果敢に闘ってゆけばよいのだし

時折 親の提供した安全基地で 羽を休めればよいのだから・・・。

 

親の立場をはき違えてはならない。

闘うのも 休むのも 子自身だ。

 

親は 子の闘いやすい環境のみ提供すればよい。

 

親がその戦いの場を蹴散らかし 穢すことなど

あってはならない。

 

親の数少ない出番は

そのあとに ちゃんと控えているのだから・・・・。