初花内侍の回想記其の2浅見松江(目黒雅叙園)女官時代の烏丸花子(初花の内侍)以前にも書きましたが、宮中の事を話すのが大好きであったという、烏丸花子さん。この方の回想記が又ありましたので、紹介します。以前とダブル点はあるかと思いますが、貴重なお話ですので、そのママとします。上村松園《うららか》 私が宮中にあがりましたのは、学習院中等科二年に在学中のことでありました。 ある日、学校の壁にもたれ、お友達と娘らしい雑談の花を咲かせておりますと、とつぜん院長室に呼ばれました。明治四十三年のことで、当時の院長先生は、後に殉死された乃木希典大将でございましたが、先生は私を部屋の中央に立たせると厳しい目でじっと見詰められ、ややあって、「学校を下がり、宮中にお仕えしなさい」といわれました。頭の先から足のつま先まで、光る目で見すえられた想いは、今でも忘れられません。ついでに下田歌子先生のご注意をうかがい、十六歳の私は宮中にあがったのでございますが、当時の“女官”たちの日常生活いたす“お局”は紅葉山のふもとにございました。板べいに囲まれた静寂きわまりないところでございました。ここから両陛下(明治天皇・昭憲皇太后さま)のおられる“お内儀”まで“百間廊下”と呼ばれる長いお廊下が通じておりました。陛下にお仕えする私どもは、この長い廊下をヒタヒタと歩いてまいるのでした。佐藤光華(目黒雅叙園) ここで私は八畳・六畳・四畳半のお部屋と老女・侍女・針妙・下女らにかしずかれて女官生活に入ったのですが、明治天皇さまが崩御あそばされたのはそれから二年後の後でございました。十六歳から十八歳にかけてでございます。まだ子供でしたので、その当時の想い出はとりたてて申すこともございませんが、引き続きお仕えしました大正天皇・貞明皇后さまの想い出は私の青春時代そのものでしたし、つきせぬものがございます。私は大正天皇と貞明皇后さまから“初花内侍”(はつはなのなしい)というお名をいただきました。 佐藤光華(目黒雅叙園) ところで、私のおつとめが浅かったので他の女官さま方からうかがいましたことを以下しるしてみたいと思います。私の仕事は“権掌侍”(ごんのしょうじ)と申し、皇后陛下の身の回りのご用をいたすことでしたので、それだけで陛下の身近にお仕えいたしたわけですので、想い出もまた陛下のお身近のことが多いのでございます。 大正天皇さまについて、まず頭に浮かびますのは、ご生母ではあられぬ昭憲皇太后さまにたいへん尽くされたことでございます。 明治天皇が崩御なされるとすぐ大正天皇さまは“践祚(せんそ)の儀”を宮中で行われましたが、このとき陛下は昭憲皇太后さまに「どうぞ上座にお座り下さい」と申され、ご自分から下座につかれたのでございます。皇太后さまが「これから天皇としてたたれるお方です。どうぞ上座へお座り下さい」と何度も申されやっと上座にお座りになられたのでございました。それ以後もことあるごとに昭憲皇太后さまを、おたてになり、そのお仲は実のご生母以上のものがあったように憶えております。 大正天皇さまはお若い時からおチャメでもありました。 日光御用邸でございましたか、野山を自由にかけめぐることがお好きな陛下のため、侍従どもか一計をめぐらし“笛”をご用意したことがございます。みるみる侍従どもをまいて姿を消し、侍従が困るのを見て面白がられるのですが、万一のことがあったら大変でございます。それで陛下に“笛”をお持ち願い、侍従が同じ音色の“笛”を吹いたら吹き替えしていただくようお願いすることにしたのでございます。 ところが“おチャメ”をなさりある日のこと陛下は山に駆けのぼり、侍従が慌てて“笛”を吹いても知らぬ顔で奥へ奥へ走って行かれました。しかし地理もおわかりにならぬ山でございます。陛下の方が道に迷ってしまわれました。日は西に傾きかかるし、喉もおかわきになりションボリなさっていたところで、ふと見ると茶屋がございました。陛下は喜んで良そこの老婆にお茶を所望されましたが、“お金”を持ちではありません。まさか陛下がお一人でこんな所に来られるとは思いもしない老婆はてっきり「のみ逃げ」と思い目の色が変わってまいりました。 びっくりされたのは陛下で、あわてて“笛”を吹かれました。その音で額(ひたい)の汗をぬぐいぬぐい侍従たちが駆けつけ、茶代をお払い申しあげてので、前代未聞の陛下の飲み逃げ事件にならずに終わりましたが、老婆の恐縮のしかたは文字通りの平蜘蛛のようであったそうでございます。いらい陛下にも遠出のときはポケットへ“なにがしのお小遣いをお入れすることになったのでございます。 こんなことがありました。大正天皇さまは動物がお好きでいろいろの動物をご飼育になっていましたが、なかに一羽の九官鳥がおりました。こと九官鳥が私がボンヤリしている時に限って、「ハナコ!ハナコ!」 とびっくりするほどの大きな声をあけるのでございます。私を「ハナコ」と陛下はお呼びになっているのを知っていたのでございましょうか、どうも“おチャメ”の好きな陛下が私を驚かせようと仕込まれたようでございました。九官鳥が呼ぶたびにびっくりして、「はいっ!」 と、飛び上がって返事をするのがおかしかったのでございましょう。このようなことはよくございまして、ある日お食事を召されているそばにひかえておりましたら、とつぜん、「花子、庭のすみにある、あの花が見えるか」 と言われます。目をやると確かに赤い花が咲いていましたので、「見えましてございます」 と、ご返事申し上げましたら「では、これが見えるか」 そういわれながら御膳の上から丸い虫食いの穴があいているクレソンを、お箸で取り上げます。「はっ」 恐縮してお取りしようとしたら、ふふふとイタズラっぽく笑われながらお食事を作ります大膳職(だいぜんしき)には内緒にしておけといい足しました。陛下は帝王として“おチャメ”の限界もご存知の方でいられました。佐藤光華(目黒雅叙園) これは侍従に聞きました話でございます。皇太子さまの頃、沼津で猟をめされましたが、こっそり勢子(せこ)がたき火をしている所に忍ばれ、イタズラっぽく「殿下の鉄砲の腕前はどうかね」ときかれ、「そうさな、鉄砲の腕はよくないが、足はメッポウ強いようだな」 の返事をもらうと、あわてて駆け付けた侍従に、「足だけはホメられたぞ」 と言われ、それを知って泣かんばかりに恐れいる勢子たちに笑いかけておられたとのことでございます。陛下は皇太子さまであられた頃から、一般国民と親しく壁をつくらずお話になられるのがお好きであられたようでございます。こうしたお気性と申しますかご性格は、明治天皇さまから引き継がれたもののよでございました。私の次兄烏丸光あいは長く明治天皇さまにお仕えしておりましたが、「お声の大きいところと、朗らかであらせられるところはそっくり」と申しておりました。 その兄から聞きましたところでは、明治天皇さまは同じ“おチャメ”でも“あだ名“をおつけになるのがお得意で昭憲皇太后さま(明治の皇后さまでござきます)にまで“天狗サン”というアダ名までつけられ、女官たちの前でもその名を呼ばれていたそうでございます。 明治天皇さまはお食事後、その“天狗サン”や女官を前に面白おかしく古今東西の風流なお話をなさったそうでございますが、大正天皇さまも似ておられ、女官たちを集め「しりとり遊び」に興じるのを愉しみにしておられました。それも相手が困るようなものばかり出題なさるのでございます。あまり世間のことに通じぬ女官たちは、そのたびに冷汗をかいたものでございました。佐藤光華(目黒雅叙園)それにしましても、大正天皇さまは世間のことをよく通じておられ、少し雨が振りますと、「お子さん方(国民のことをこう呼んでおられました)はどうしているかなあ」と、お顔を曇らされておられました。その世事の事については貞明皇后さまが、陛下にお話になられたのでしたが、ずっとそばにお仕えした女官方(私は大正六年に下がりましたか)のお話をうかがいますと、関東大震災のあとはご自分のお食事やお召物を極度におつめになり、浮いた分を寄付されていたそうでございます。それでいて陛下には「お体を丈夫にしていただけなければならぬから」と気をつかわれるなどお話をうかがいながら目頭があつくなることだったと申します。ところでこうした明朗な大正天皇さまも、ついに病気にお悩みになりましたことは。まことに残念に思われてなりません。浅見松江(目黒雅叙園) 朝のお食事のおり貞明皇后さまが、その日の新聞に載っていますもろもろの出来事をお話になると。うなずいておいておられた大正天皇さま、お庭をご散歩なさる時、必ず私どもお側のご用をする者たちに、お手ずからお土産を下さった大正天皇さま、そのお顔が目に浮かぶようでございます。そのお土産も数多い女官どもですのでおみかんひとつたったりすることもございましたが、それを手に恐縮している私どもを、さも愉快げにご覧になる陛下でございました。伊東深水(題名不詳)