折伏
われわれ日蓮正宗の信者は、一度、御本尊を受持して南無妙法蓮華経と読誦したてまつるときは、覚知すると、しないとにかかわらず、凡夫の生活そのまま仏の本眷属として、即身成仏の境涯がえられるのである。されば、われわれは、仏の本眷属として功徳、利益をうけ、幸福生活へと向上するとともに、仏の使いとして世に処しなくてはならない。すなわち、日常の凡夫の生活に、功徳、利益を甚深にこうむるのは、本眷属の当然の資格であり、仏の使いたる者の果報のいたすところである。
ゆえに、信仰のおかげにより、生活が幸福になった者、または信仰生活にはいって、ありがたい生活を深くあじわうことを願望する者は、仏の使いとして、仏の行化を日夜たすけることを心に誓い、身にも行なわねばならない。たとうれば、ある人が工場の職工となったとする。そうなると、職工として待遇を工場主からうける。しかるに、その人は、何も工場主のために働かず、工場の仕事もかえりみずに、ただ給料をもらうことを考えたり、給料の値上げを強請したりしては、その工場から追い出されることは必然である。また電車の運転手となって辞令をもらったとする。しかるに前の職工と同様に、電車の運転を少しもしなかったとしたなら、運転手とはいえないではないか。
それと同じことで、最高最為の仏の道にはいり、ご利益広大の御本尊をいただきながら、ご利益はありがたいとか、いや、まだまだご利益がほしいとかと願いながら、仏のご意志を助けようとしない者は、先にのべた職工や運転手のようなもので、真の仏の弟子とも、子とも申されない。そもそも、仏のご意志とは、一切衆生に仏知見を開示して、これに悟入せしめんとせらるのことで、このことによって、一切衆生は幸福へとみちびかれるのである。されば、われわれ信者は、仏のお心を心として、仏知見を一切衆生に開示し、これに悟入せしめるように、その方法を知らざる者には、その方法を教え、または仏知見の開示には、とてつもない方向へと、まよえる邪宗の者には、正しい方向へとみちびかなくてはならない。
しかして、この仏道成就の方法は、末法の大覚者、日蓮大聖人の教えに正直でなくてはならない。すなわち、日蓮大聖人は、一切衆生即身成仏、煩悩即菩提は、弘安二年ご出現の大御本尊を受持して、ただ南無妙法蓮華経と唱えまつれとおおせられておられる。
されば、われら日蓮大聖人の真実の弟子は、大聖人の化導のお心を心として、懸命に折伏の道を行じなくてはならぬ。それでこそ大御本尊の加護があり、大利益を受けて、悟りの境涯へとみちびかれるのである。
自分だけが信仰して、他にこれを教えようともしない者は、自分だけが美味の料理を食べて、人には与えようともせぬ人人で、樫貪の罪をまぬかれない。この人を慈悲の徒とはいえないのである。このゆえに、日蓮正宗の信者のなかでも、折伏をしない人々が、よく、絶対的幸福の境地にいけず、何か不足をかこって中途半端な生活をしている者を、よく見受けるのである。ことに邪宗の人々は、五道六道に沈淪して、無数劫に成仏の機がない人々で、真実の幸福も、この世においてもありようのない、かわいそうしごくな人々で、この人々を救ってやることこそ、仏の大慈悲であって、御本尊様のもっともよろこびとするところである。この折伏については、われわれは朝夕に御本尊の御前において、自我偈の終わりに、
『毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身』
と念じている。
この経文は、どうかして、いっさいの生類をして、速く仏にしたい、絶対の幸福の境涯にしたいし、自分もまた同じく仏身を成就したいという願いを念じているものである。これは、折伏を日夜に祈願しているのであり、仏の指図であると心得べきである。しかして、この折伏にあたって、とくに心得べきことは、折伏のためにせらるる悪口は、心から感謝しなくてはならないのである。
その理由は、悪口せらるることによって、われわれの身体の罪障が消えて、幸福生活へとばく進することができるからである。
しかして百尺竿頭一歩を進めて、この現代の日本をみるに、大聖人の立正安国論の文と符節を合わせているにはおどろかざるをえない。
すべからく憂国の青年は、一代の大聖の指示をつつしみかしこんで、一切衆生が妙法受持の日を一日も早からしめんために、折伏に精進しなくてはならないのである。
つつしんで、大聖の立正安国論と現代の世相を照らし合わせるに、次のごとくである。
『大集経にいわく「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失して其の国当に三の不祥の事有るべし、一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん、暴火横に起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹漂
し内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終の後・大地獄の中に生ずベし・乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」巳上』(御書全集二〇ページ)
右の文中三つの不祥事中の一の穀貴は、いっさいの物価高を意味する。この物価の高いことは、一般の家庭生活をおびやかしている。されば、一の穀貴という一節は、現代の世相とぴったり一致しているではないか。また二の兵革は目前のことで多言を要しない。これによってかず多くの日本人は、深淵の底にたたきこまれて、いつの日に安定生活があるであろうか。また三の疫病の不祥事は、いまだ大きな事件としては起こっておらない。
吾人は、このことの起こらざらんことを、心からいのるものではあるが、経文のごとくんば、かならず恐怖すべき疫病が起こるのではあるまいか。次に『悪風雨多く暴水増長して人民を吹漂
し』とあるが、昨年の西国の暴風および津波、本年九月の関東の大水災はこの予言通りで、経文の他の事項の出現を、ただただ、おそるるものである。
しかして、これから退治の方法として、大聖人の如説修行抄(御書全集五〇二ページ)を拝読するに、『天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安隠の証文疑い有る可からざる者なり』
信者にあらざる人よりすれば、一代の予言者、大哲人、吾人に言わしむれば、ご本仏たる大聖人の金言、深く心にあじおうて日本国を復興し、平和の楽土をねがわん徒は、一日一刻も早く、正しき信仰が一国に用いられんことを切望してやまぬものである。
しこうして、この妙法受持の功徳は、万人一様に生命力を旺盛にするものであるがゆえに国土復興の一大早道であること、一大根本であることを吾人は提唱する。経にいわく、『一切の法に於て勇健の想を得壮なる力士の如し』と。この妙法の功徳は、生命の力の旺盛なる人々を出現させるのである。
日本国中に、さかんなる力士のごとき人々が充満するならば、生産に、復興に、文化に、芸術に、その最高度の能力を発揮するがゆえに、国土の再建は、うたがうべくもない。憂国の青年よ、きみらが心身を、妙法の功徳によって浄化し、生命力を旺盛にするとともに、国土の民をして浄化した、たくましき生命力を持たさしめるために、命も惜しまず折伏の行をなし、一日も早く、一国に妙法を受持の徒を、充満せしめようではないか。
(昭和二十二年十月一日)


