罰論

 

 罰ということばは仏教用語である。このことばを現代語でいうならば、『反対価値』というべきで、われわれの生活に不幸を感ずる現象のことである。

 

 この現象が、われわれの生活にあらわれたとき、罰にあたった、罰をうけたと称するのである。すなわち、反対価値とは美の反対たる醜、また利益の反対たる損、また社会に損害を与える現象たる悪をいうのである。

 

 この悪、損、醜なる反対の価値が生活の内容となるときを罰の生活と称するのである。

 

 さて、信仰生活にしろ、不信仰生活にしろ、人が生活する以上、利益(利・善・美)と罰(損・醜・悪)の矛盾の原理のもとに生きねばならないことは当然である。

 

 人、多く、罰といえば、信仰生活にのみありとするは、あやまりのはなはだしいものである。

 

 人はたえず対境のなかに生きる。対境と関係なしには生きられぬ。この関係生活は、かならず善・利・美の幸福と、悪・損・醜の不幸、利益と罰の根源である。

 

 例せば、呉服屋があったとする。この呉服屋が呉服と関係するがゆえに、呉服が売れて利益し、安く売って損をし、ヤミに引っかかって苦しむ。信仰生活でなくとも利益と罰とはあるもので、もし呉服に関係しなかったなら、その呉服屋は呉服屋ともいえないし、また損得もありようがなく、利益と罰もありえない。

 

 さて、信仰生活についていうならば、われわれ人類の生活は、たえず最高の利益を求めて活動する。されば、たえず幸福へ幸福へと意識、無意識にかかわらず活動する。そして、宗教はその指導であり、実践であるから、かならず信仰の中心であり、生命と関係する神仏たる対境がある。

 

 ゆえに宗教は、幸福生活へと発展するために、いろいろな神仏を対境として、これに関係せしめるのである。

 

 されば、神仏の対境の大小、高低、善悪によって、これに相対して各人の生活に利益と、反対価値なる罰とが現出するのである。

 

 愚な者は、低い対境で、低い利益をえてよろこんだり、または、悪の対境たる神仏に関係して、ただ一つの小利益をえて、後に大罰を受けたりするのである。利根の者は、すべからく、正しく、かつ最高にして、宇宙唯一の純潔なる対境たる、日蓮大聖人のご観心である大御本尊を対境として仏の境涯を涌現し、最高最大、無二の幸福生活へはいらねばならないと、吾人は直言するのである。

 

 さて、この最高最大の幸福へと邁進する、われら日蓮正宗の信徒は、御本尊へと直達するがゆえに、とくに偉大な利益と罰を痛感せずにいられないのである。しかるに、ときおり、創価学会人が罰論を言うと、同信の徒より反対されることがある。また、罰を言うと反対し、いやがるものも多く、罰論を学会の専売のごとく、独創のごとくいう徒輩がある。

 

 これまた、はなはだしいまちがいである。吾人が、罰論を前述のごとく科学的に説明するのは、おそれおおくも『大御本尊様』の仏勅によるがゆえで、吾人らの独創でも、専売でもない。ゆえに罰論を否定するものは、仏勅を否定するものである。

 

 御本尊様が利益と罰とを、大声もて吾人に毎日毎夜お説きになっているのを、同信の徒よ聞かずや。

 

 もしこれを否定せば、これ堕地獄、不信の徒であると、吾人はとくに忠言する。いかんとなれば、心をしずめ、清浄の服をもって大御本尊様を拝せよ。

 右の御かたに、若悩乱者頭破七分(罰)、左の御かたに、有供養者福過十号(利益)、とあるではないか。

 

 さすれば、利益と罰は仏勅であると知るべきである。しかして、われわれ朝夜に、座臥に、読誦したてまつる題目の御声のなかに、ご本仏大聖人が二大原則を大声叱咤せられているのである。

 

 しかも、罰を先にのベられ、利益を後に説かる仏意の深甚、凡愚の私ののぶるところではないが、御本尊様が一切衆生への大声叱咤は、よくよく心してあじわうべく、しかして仏罰をおそれ、ご利益をよろこぶべきである。

 

 ここに罰論を再度のべて、罰論をおそるる愚盲の士に告ぐるものである。

 

(昭和二十二年六月一日)