牧口先生
薬王菩薩本事品に、薬王菩薩が仏および法華経に、身を焼いて供養したてまつったのをほめていわく、
『是の如き等の種々の諸物を以って供養すとも、及ぶこと能わざる所なり。仮使国城妻子をもって布施すとも、亦及ばざる所なり。善男子、是れを第一の施と名づく。諸の施の中に於いて最尊最上なり』と。
牧口先生は人格高潔、物事にたいしていやしくも軽々しく事を行なわず、一文半銭も貪ることなく、清貧に甘んじて、いっさいの衆生のために仁慈をたれられたお方である。こと不義と名のつくものには仮借なくこれを責めて、正道に生きることを主張せられた。
日本始まっていらい、小学校長として現職のままで実践教育学を完成された、ただ一人の人であります。日夜書を読んで道を求め、後輩を指導しては懇切ていねい、国家を憂うる尽忠の念は天より高く、大衆を愛すること仏のごとくである。信心は強固にして金剛のごとく、仏の教えにたがわざらんことを願っては、夜なく反省し、ご明珠のごとき生活であらせられた。
また、その学問上の功績にいたっては、全世界の一大理論たるベき価値論をあらわし、その人を教化するや、門下三千人、かかる高徳の人が、どうして牢屋で獄死せられたのでしょうか。
もし先生が法華経の行者でなかったら、この運命はありえないのです。されば、先生は、法華経のために身命をなうげったお方である。法華経に命をささげた、ご難の見本である。先生の死こそ、薬王菩薩の供養でなくて、なんの供養でありましょう。先生こそ、仏に『諸の施の中に於いて最尊最上の』供養をささげた善男子なりとおほめにあずかるべき資絡者である。愚人にほめらるるは智者の恥ずるところと大聖人のおことばを、つねに引用せられた先生は、ついに最上の大智者にこそほめられたのである。
また薬王菩薩本事品に、
『命終の後に、復日月浄明徳仏の国の中に生じて、浄徳王の家に於いて結跏趺坐して忽然に化生し』と。
法華経は一切現象界の鏡と日蓮大聖人はおおせあそばされている。大聖人は妄語の人にあらず、実語のお方である。ゆえに凡下の身、ただ大聖人のおことばを信じて、この鏡に照らしてみるならば、先生は法華経流布の国のなかの、もっとも徳清らかな王家に、王子として再誕せらるベきこと、堅く信じられるべきで、先生の死後の幸福は、吾人に何千、何万倍のことか、ただただ、おしあわせをことほぐばかりである。
省みれば、元日大講師田辺寿利氏、牧口先生の価値論を発表したその昔に、
『フランスの一小学校長ファーブルは昆虫記をあらわして、フランスの文部大臣は駕をまげて文化国フランスを代表して、感謝の意をあらわした。いま、日本に、一小学校長牧口常三郎が、また、世界的な一大理論たる価値論を発表す。国家は何をもってむくいんとするか』と。
しかるに、牧口先生に日本国家がむくいたものは牢獄の死である。野に聖人・賢哲なく、朝にあってこそ国は栄えゆくのである。
聖人・賢哲国を捨てて、どこに国の隆盛あろうや。ヒットラーがアインシュタインを放逐して、アメリカに原子爆弾を与えた近い例もある。国家を救わんとする法華経の行者を獄死させた日本の今日のすがたこそ、偉大な国家の受けた大法罰ではないか。
先生は利益し、国家は損失す。ああ愚癡・邪智の徒輩よ、なんの顔あってか先生に見ゆるや。検事・判事も、警視庁の木葉役人も、憲兵司令官も、憲兵も、内務省のボロ役人も、時の軍部の指導者も、いま生きている者も死せる者も、なんじらの顔上に大法罰があらわれずして、どこにぞあらわるる。
先生の法難におどろいて先生を悪口した坊主どもよ、法を捨て、先生を捨てたるいくじなしどもよ。懺悔滅罪せんと欲すれば、われらが会にきたって先生の遺風をあおぎ、仏のみ教えに随順すべきであるぞ。
(昭和二十一年十一月一日)

