小さな発見
仏法で、劫ということがある。これは時間をあらわしたものである。
人類の平均年齢は最長八万年生きられる時代がありとし、また、平均年齢が、十歳の時代がありとする。その十歳のときから、百年ごとに一歳ずつ平均年齢が増していって、八万年の平均年齢にくる。それを増劫の一小劫といい、また、人類の平均年齢八万年のときから、百年ごとに一歳ずつ人類の生命が減っていって、平均年齢が十歳にいたるまでを一減劫という。この劫が二十小劫で一中劫という。二十中劫で一大劫という。
宇宙の生命は、これによりて計るべくもないほど長い。そのなかで、われわれの娑婆世界を、別な見方で、劫がたてられている。それは四劫といって、成住壊空といって、いまでいえば、この天文学の世界ができあがっていく劫、定住したいまの時代、壊劫といって、この天文学世界がこわれていく時代、次は、こわれきってしまった空の時代、これは、なんべんも繰り返されるとするのが仏法の宇宙観である。
たとえば、人間の生命は流転する。母親の体内にいるときが成劫であり、生まれてきてからが住劫であり、老人の域にはいったときは壊劫であり、死んだときが空劫である。かくしてまた生まれてくる。
このように、宇宙もこわれてはでき、できてはこわれ、想像してみたまえ、宇宙のこわれるときを。
太陽系は運行を中止するかもしれない。また邁進するかもしれない。ある恒星にむかって。他の恒星もまた同様であろう。あるいは運行を中止し、あるいは驀進する。かくして噴煙は宇宙を覆い、電光は宇宙に充満し、大熱は想像すべくもない。宇宙は一大混乱を呈する。分子は分解し、また構成する。このありさまは、壮観といおうか、荘厳というか、見る人なければ、ただ想像するにすぎん。
いま、世界に原子爆弾の発見がある。世の人、驚異の目をみはる、その破壊力の偉大さに。しかし、宇宙壊滅の偉大さからみれば、子どもの花火のオモチャだ。永久の生命、ほろびぬ生命からみれば、はじめて線香花火を見た子どものおどろきににたものだ。
美しくもあろう、壮観でもあろう。けれども、たんなる子どものあそびにすぎない。平和の女神が、その子の頭を、笑いながら、なでてるすがたを想像したまえ。私のこの発見も、原子爆弾も、ともに、小さな発見ではあるまいか。
(昭和二十一年八月一日)
