如来の事を行ぜよ
妙法蓮華経法師品第十にいわく、
『当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり』と。これは、法将に滅せんとする末法事の信者をさして、申されたことばであります。ことに、われわれ学会員が、大聖人より賜わりたるおことばで、仏から証明されました文証と確信いたします。
そのゆえんは、われわれは『地涌の菩薩』であります。いかんとなれば、私どもは『南無妙法蓮華経』と唱えております。大聖人出世の本懐たる御本尊を信じ、ちょうだいしておりますゆえに、『名字即の位』であります。
しかして、日夜に題目を唱えたてまつって、御本尊と相対して修行している身であるがゆえに、『観行即の位』におり、また、たえず座談会で、実験証明によって、おのおの人格を浄化しつつありますがゆえに、『相似即の位』におります。しかも、化他の念、一日もやまない『分真即の位』であります。
しかも、われわれは、無作の三身の仏なりと確信し、また確信すればこそ、大衆にむかって、無畏の心もって説いております。これは、御義口伝によって、私どもが、大聖人の弟子たるお許しを受けております以上、霊鷲山会において、上行菩薩の眷属たりしこと分明であります。しかればこそ、われら学会員こそは、『地涌の菩薩』であります。
このゆえに『是の人』とは、われわれをさして申されているもので、われわれこそは『如来の使』『大聖人の使』として、確信してよろしいのであります。
『仏の使』『大聖人の使』たる以上、大聖人より、如来より、霊鷲山の浄光の都から、この娑婆世界へ、五濁悪世に、よろこんで使いたることを願い、凡夫の身をちょうだいして出世してまいりました。われらこそは、如来につかわされた尊い身分であると確信すべきであります。
自分をいやしんではなりませぬ。『仏の使』であります。如来につかわされた身であります。大聖人の分身であります。
凡夫のすがたこそしておれ、われら学会員の身分こそ、最尊、最高ではありませんか。
しかし、この確信に立ちましたときに、私どもは『如来の事』を行なわなくてはなりませぬ。『如来の事』とは、仏本来・本然のすがたになりますことがらです。
それはなんでしょうか。仏が日夜ご苦慮あそばされていることは、釈尊により、大聖人によって実証されておりますように、一切大衆を安慰にする。すなわち、幸福にする生存に確信を持たせる。時間・空間にさわりなき自由の生命を顕現せしめる。
しかして、浄化された生命に、いっさいの罪障を滅尽せしめようとするにあります。
これを一言にしていえば、一切衆生をして『仏と相等しくして、ことなりなからしめる』また、これを付言すれば、一切衆生を救うということではないでしょうか。
一切衆生を救うということは、やさしくいいますならば『物心両面の楽土』に住まわせること、物心ともに何不足なき常寂光土を、この娑婆世界に建設することが、仏の日夜の願いであり、なやみであります。
しかれば、われわれは、仏と同じ心を持ってこそ、尊き如来の使いとして誇りがあるのであります。いかにして、この『物心両面の楽土の建設』という大目的を達成して、わざわざ霊鷲山会からつかわされました大使命を果たしましょうか。
それは、いっさいの人をして、仏の境涯におくことであります。すなわち、全人類の人格を最高の価値にまで引き上げることであります。
いかにして全人類の人格を最高度に引き上げえましょうか。いかにも、これは困難な問題であります。しかし、これを知ることができなかったならば、ほんとうに、地球上に真の幸福はありませぬ。
全人類を仏の境涯、すなわち、最高の人格価値の顕現においたなら、世界に戦争もなければ飢餓もありませぬ。疾病もなければ、貧困もありませぬ。全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります。
大聖人が開目抄(御書全集二〇二ぺージ)に、
『日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをも・いだきぬべし』
と仰せられた深意は、一切衆生をして仏の境涯をえさせようと、一生をかけられた大聖人のご心中であります。
これこそ目の前に見た『如来の事』であります。学会のみなさまよ、われわれも『如来の事』を行なわなくてはなりませぬ。しからば、いかにして全人類に仏の境涯を把持いたさせましょうか。
仏の境涯を『究竟即の位』といいます。これは、凡夫を理即といい、名ばかりながら、仏の境涯を知らんとする者を『名字即』といい、仏の境涯を知るために努力するを『観行即』といい、自分が一部一部のまよい、妄想がなくなり、その修行しているすがたや人格が、りっぱに見え出した者を『相似即』といいます。
仏ににてきているからであります。
また一部一部の真理を見出してきて、その真理が宇宙の本然のすがたの一部を、まちがいなく見通してくれば、ほとんど、その部分では仏でありますゆえに『分真即』といい、宇宙の実相の極理をがっちりと把持すれば、『究竟即』といって仏の境涯に達し、宇宙の広さにいて永久の生命をよろこび、人類の平和、幸福に貢献して、一般大衆の真の味方となるのであります。
されば、出発は、凡夫たるわれわれの境涯から、仏たらんと志さしめることであります。いかにしたら、仏たらんと志さしめえましょうか。このいそがしい世のなかに、八万四千の経文も読んではいられませぬ。理想はよいとして、これは、ちょっと面倒なことと、人は捨ててしまいましょう。
これに答えて大聖人は、
『仏の境涯は、一言にしていえば、"南無妙法蓮華経"ということである。むずかしく説けば、法華経二十八品、開結あわせて十巻、詳細に説明すれば一代五時八万四千の法蔵』と申されております。そして、かんたんに仏の境涯をえるために、人々が毎日いそがしく暮らしておりますときですから、『ただ"南無妙法蓮華経"を唱えなさい』とおおせられております。
また、人間の本然のすがたである仏の境涯を『御本尊』としておしたためくださいまして、『朝晩ただ一声でも三声なりと、合掌して、ただ"南無妙法蓮華経"と唱えたてまつれば、自然に仏の境涯に近よりうるのである』とおおせられております。
かくすることは、深い意味がわからずとも、仏になろうとしているのでありますから、『名字即の位』というのであります。『名字即の位』になりますれば、あとは修行の仕方で、いつかは、たとい八生かかろうとも『仏になるぞ』とおおせられているのであります。
『ものはためし』やってみるならば、仏の境涯の一分なりとものぞきえます。されば、われわれ学会員が『如来の事』を行なうとは、この理即の聖人をして、名字即の大聖人へとみちびくことが『如来の事』を行ずるのであります。
諸君よ、ともに『如来の事』を行じようではありませんか。
(昭和二十一年七月一日)

