折伏の功徳

 

妙法蓮華経随喜功徳品にいわく、

『又阿逸多、若し人、是の経の為の故に、僧坊に往詣して、若しは坐し、若しは立ち、須臾も聴受せん。是の功徳に縁って、身を転じて生まれん所には、好き上妙の象馬、車乗、珍宝の輦輿(れんよ)を得、及び天宮に乗ぜん。若し復人あって講法の処に於いて坐せん。更に人の来ることあらんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん、阿逸多、若し復人あって余人に語って言わく、経有り。法華と名づけたてまつる。共に往いて聴くべしと。即ち其の教を受けて、乃至須臾の間も聞かん。是の人の功徳は、身を転じて陀羅尼菩薩と共に一処に生ずることを得ん。

利根にして智慧あらん。百千万世に、終に瘖瘂(おんな)ならず。口の気臭(いきくさ)からず、舌に常に病無く、口にも亦病無けん。

歯は垢黒(くこく)ならず、黄ならず、()かず、亦欠落せず、(たが)わず、曲らず、(くちびる)下垂せず、亦褰縮(またけんじゅく)ならず、麤渋(そじゅう)ならず、瘡胗(そうしん)ならず、亦欠壊せず、()(じゃ)ならず、厚からず、大いならず、亦(つじ)み黒ならず、諸の悪むべきこと無けん。鼻匾(はなへん)だいならず、亦曲戻(またこくらい)ならず、面色黒からず、亦狭く長からず、亦(くぼ)み曲らず、一切の(ねが)うベからざる相あること無けん。唇、舌、牙、歯、悉く皆厳好ならん。(はな)(なが)く、高直(こうじき)にして、面貌(めんみょう)円満し、眉高くして、長く、額広く、平正にして、人相具足せん。世々に生れん所には、仏を見たてまつり、法を聞いて、教誨を信受せん。阿逸多、汝且く是れを観ぜよ。一人を勧めて、往いて法を聴かしむる。功徳此の如し、何に況んや、一心に聴き説き読誦し、而も大衆に於いて、人の為に分別し、説の如く修行せんをや』

 

 この経文の深意をうかがうに、第一段は、御本尊様にむかって、妙法蓮華経と唱えたてまつるものの功徳を、仏が、地涌千界の菩薩に堅く誓われているおことばである。

 

 この『上妙(じょうみょう)(ぞう)()車乗(しゃじょう)珍宝(ちんぽう)(れん)輿()』すなわち、私どもの現代語に訳せば、生活資料の豊かさということです。信心堅固の者は、また純真に信仰する者は、米でも、ミソでも、しょうゆでも、衣服でも、たまたまには、好きな者には酒なりと、十方の仏は、よろこんで運ばれるお約束である。

 

 共産党の者のように『おれらに食わせろ』などと、ムシロ旗を立てて、こじきが(おし)()りするような餓鬼のすがたをあらわさなくとも、自然の智慧は、私どもを自然の安心境にみちびくお約束です。また『天宮に乗ぜん』とは、住むに家なく、事業に店なしとなげかれる必要はない。こんこんと沸き出る生命に唱えたてまつる題目の功力は、チャンと家を持たせてくださるお約束です。

 

 もし、このことが日常生活にかないませんなら、御本尊様をジッと見つめて、『地涌千界ここにあって、三世十方の御仏の親なる妙法蓮華経の法味をたてまつる。しかるに、霊鷲山会の約束を無にして、この大菩薩に苦を与えらるるは何事ぞ、いや、私自身の罪障消滅は、あなた自身がお知りである。早く功徳を賜え』と強盛においのりになることです。

 

 第二段の『講法の座を譲る』ということは、信仰するものに親切にすることを意味します。また、妙法蓮華経を唱えたてまつるようにおすすめすることです。転輪聖王とか、梵王とか、帝釈の坐処とかいうことは、すなわち現代語に訳せば、指導階級ということで、指導者、すなわち、課長とか、工場長とか、係長とか、社長とか、または、数人の店主、会の幹部、役所の局長、または大臣とかいう人々です。

 

 されば、過去世に妙法蓮華経の信仰者に親切にした功徳によって、いまの位置をえたのであります。また現世において信者に親切なものは、将来において、その指導階級の位置をえることになるのです。

 今日、大臣になり、局長になり、会社の社長、幹部、または人の上位にあるものは、昔行じた妙法の功力によることを、今の世に忘れて、大御本尊様を恋慕せぬ心を、経文には、『為治狂子故』というのです。本有無作の三身の生命を知らぬ者の浅ましさ、ただ、ふびんとしか思わぬ次第であります。

 

 また第三段は、折伏教化の功徳を約束せられたものです。この人は、智慧、利根、人にすぐれ、その人の容貌、すがたは美しく、かつ、りっぱであるとともに、この世に善行あって福徳を備え、無病息災延命なのです。

 

 かく、この経文をジッと見つめ、おがみたてまつるときに、大御本尊様出現のありがたさを、しみじみと感ずるとともに、末法濁悪の今日、金も米も施して、幾千の人にか施しえましょう。私どもは、相手の、きらい、すきにかかわらず、この妙法を受持させて、無限に沸きくる幸福を、世界万民におくろうではありませんか。これこそ、仏のおよろこびたもう『法施』とはなづけ、最大、最高の布施行であるのです。

 

(昭和二十一年六月一日)