私の闘病八十日

 

 小事にすら前兆がある。ましてや、大事においておや。私は第一回逢難のときに、その前兆をしみじみと感じたものである。

 

 昭和二十六年、会長就任いらい、まさに七年、ふりかえって考えるに、そのとき『七十五万世帯の日蓮正宗信者を作りえなければ私の墓は建てるな、骨は品川の沖に捨てよ』と弟子たちに命じたのであった。

 しかるに大御本尊のご威光盛んにして、三十二年度に、もうすでに七十五万世帯を突破し、比叡山の像法の講堂焼落をしり目に、木門戒壇の大講堂落成を目の前にみるにいたった。愚人の名誉このうえなきものとして私はよろこぶとともに、四魔三障の出来かならずあるべしと思わざるをえなかった。

 

 はたせるかな、昨年の四月いらい、これが病魔・死魔として、いくたびか、わが身におそいかかった。『きたな』と思ったので、東奔西走しつつ闘病生活にはいったが、がぜん十一月二十日重大な病症として、ついに起つあたわざる状態にいたった。どの医者も、もうだめだという表情である。しかし、いまだ広宣流布への途上にもついておらず、建築でいうならば、ようやく地ならしができたていどにすぎない。土台も柱もと考えていけば、この生命は、いま、みすみす捨てられないようである。

 

 医者は、『半年で事務がとれれば、上等な経過をたどったことになる』という。私は医者に言った。『あなたは医者としての最善の立ち場を尽くしてください。私も少々、生命哲学を学ぶもの、生命をのばすことは少々知っているはずであるから、私も最善を尽くす。よろしくたのむ』と。

 

 心のなかでは、『この最悪の闘病は一か月、正月には初登山をし、三月の大講堂落成大登山には、みずから本山にいて、その総指揮をとる』と決めていたのである。

 

 事実、正月には初登山を行ない、大良楽たる大御本尊に、親しくお目通りして五日間をすごした。そして幸いにも、下山後、一月七日の医師の診断により、重症を警告されていた肝臓病がまったく快癒したことがあきらかになったのである。残るは糖尿のみであるが、これは慢性症状であるから、直接、生命に急激な危険はともなわないことを知っている。

 

 私は医術を排撃はしない。あたかも智慧をうるのには知識の門をくぐるがごとく、健康の道に医術を忘れるはバカだ。しかし、現代の医学をもって最高とはしていないゆえに、ちょうど医学、医術を、道路の技師が道路のあり方を測定するように、健康の道を測定する技術者として待遇しているのである。ゆえに、わが身に課せられた病魔・死魔は、御本尊によってこれを打ち、その経過は医術によって知らされるようにしてきたのであった。

 

 おかげをもって、二月十一日、満五十七歳の年を終わって、五十八歳の誕生日をトして全快祝いをあげることになった。

 

 昔、旅人が一里塚、一里塚と追うて旅したごとく、私も七年、七年と、七里塚を越えては広宣流布の道へ進もうと思う。いままでどおり同志諸君の協力をのぞんで、病気の経過をあらまし報告する。

 

 また、この病気にともなって、おもしろいことが起こっていることもあわせて報告しておこう。それは病気以前まで、私は、三毒と冗談にいっておったが『ウイスキーと、たばこと仁丹』の三つを少しの時間もはなすことなく愛用したものである。この三つとも、からだのためによくないことはいうまでもない。

 

 ところが、ウイスキーは飲みたくなくなり、仁丹は一粒口に入れても嫌悪を感じ、たばこの量もめっきり減ってきたことである。そして、たばこは非常においしくなって、量は少なくともその味をめでて味わうことができ、ウイスキーのかわりに菓子、くだものをこのむようになり、仁丹のかわりにお茶を楽しむようになった。

 

 また私にとって、この病気のありがたさは、私の糖尿病は過去十五年前の牢獄生活に発したことがはっきりわかったことである。しかも、そのために左の目の網膜をいためていたのであるが、目の医者では、その原因を知ることができなかった。不治なりとされて、私自身もそんなものかと思っておったが、ときおり、見えたり見えなかったりする現象に、おかしいなとは思っていた。

 ところが、こんどの病気で徹底的に肺臓の治療にかかったために、左の網膜の活力が復活してきて、七分どおりよく見えるようになってきた。いわば死んだ網膜が生きかえりつつある。網膜を一枚、大御本尊より下賜さるというところである。ただただ御本尊にむかって、感謝の心でいっぱいである。

 

(昭和三十三年二月十四日)