昭和三十年の辞

 

 悟り、仏の悟りは、深秘にして、とうてい、われわれのうかがい知るべきところではない。ただひたすらに、仏を信じまいらせて、そのおことばを遵奉するときこそ、仏のさずけたもう大利益をえるものであり、しかも教主である仏の悟りを等しうすることのできるものである。

 

 されば、過往をかえりみるに、久成の本果仏…釈迦如来と生誕して三十成道の悟りは、いかなるものであったろうか。かの釈迦如来は、この深秘の悟りを、四十二年が間、秘しかくされて、後の八年にようやくこれをあかされたのである。しかも、その胸中深秘のものは、如来寿量品にいたって、初めて、あたかも大空に赫赫と天日の輝けるがごとく、いっさいの衆生に明示されたのである。

 

『我実成仏已来。無量無辺。百千万億那由佗劫』すなわち、わが仏寿は久遠実成のものであって、けっして、今日初めて成じたものではないと。これを聞きえた、いっさいの大衆は、じつに歓喜に満ち満ちたのである。

 

 されば、寿量品の次、分別功徳品において『爾時大会。聞仏説。寿命劫数。長遠如是。無量無辺。阿僧祇衆生。得大饒益』と。

 

 仏の深秘の悟りを聞きえ、これを信ずる者は、大果報の者というべきであろう。しからば、末法ご出現の本門の本仏日蓮大聖人のお悟りはなんであろうか。これを究明せんがために御書を拝見したてまつるに、開目抄(御書全集一八九ページ)にいわく、

『一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知ってしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり』と。

 

 この一念三千の法体とは、そも、いかなるものであろうか。

 

 また御抄を拝するに、三大秘法抄(御書全集一〇二一ページ)にいわく、

『夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠と説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり』と。

 

 右のご金言において、われらの留意すべき大事は、『実相証得の当初修行し給いし』の『し給いし』とおおせあるところである。迹の仏である釈迦如来は、長遠の生命を説きあかすにあたって、長寿の生命のよってきたった源をば、ただ"我本行菩薩道"とかすかに主張しているにすぎない。そして、その菩薩道こそ実相証得の当初修行せしところの本体であって、久遠実成の釈迦の出生の本種こそ、寿量品の本尊と戒壇と題目の五字にほかならぬ。しかして、この三大秘法が文の底にしずめられている事実を、わが宗祖日蓮大聖人がお悟りあそばされたのであると、おそれおおいことながら、吾人は拝察申しあげるのである。このお悟りは、すなわち一幅の大曼荼羅とご図顕あそばされ、この大曼荼羅をもって、われわれ幼稚の首にかけさせ給われたのである。

 

経王殿御書(御書全集一一二四ページ)に、

『日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』と。

 

 このゆえに、この大曼荼羅には、ご本仏であらせられる日蓮大聖人のお悟りと、ご生命が脈々として生きていられるのである。

 

しこうして、日寛上人、この御本尊を賛嘆して申されるには、

『十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳は皆咸く此の文底下種の本尊に帰らざるはないのである、譬えば百千枝葉が同じく一根に趣くが如く、此の大御本尊の功徳は無量無辺にして広大深遠の妙用がある。此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるはなく、福として来たらざるなく、理としてあらわれざるはないのである』と。

 

かくのごとき尊い大御本尊を、われらは受持しているのである。ゆえに、いま、新しき年を迎えるのときにあたって、深くこれを信受し、かつまた、大聖人御おおせのごとく、折伏にはげんで、よき仏の弟子として、家来として、幸福なる一年をむかえなければならぬのである。

 

(昭和三十年一月一日)