社会に信念の人を

 

 私は、いまの日本国をみて、なんとなく、ものたりなさを感じている。日本はこれでよいのかと思うのである。

 

 経済界にしても、その組織というものは、きっちりとでき上がっている。また、そのむかうべき道も、だいたいにおいて指向されている。しかし、なんとなく、ものたりない。

 

 官庁もきちんと整頓された組織を持っている。しこうして上官の命はかたく実行されているようで、しかし、私にとっては、なんとなく、ものたりない。

 

 政策にしても、一応はまとまっているとみれば、みられる。しかし、なんとなく、これもものたりないではないか。

 

 政党にしても、二大政党ができ上がり、保守党が政権を担当して、ひとまずの安定感をえている。しかし、なんとなく、たよりない気がするではないか。

 

 外交問題も、敗戦国にしては、できのよいような気がするが、なんとなく日本の国力がたよりなさそうな感を受ける。

 

 生産の面も順調であるし、順調のようにみえる。輸出にも努力のあとがみえるが、これで安心だとは思えない。

 

 人心も一応安定した形はとっているが、なんとなく底が浅いように思われる。

 

 いったい、どこから、こんな感じを受けるのであろうか。私は、よくよく、これを考えてみたが、その空虚さを思わせるものは、『人』にあると思う。個々の職責にいる人が、生き生きとして、はちきれるような生命力のないところからくるのだと思う。

 

 たとえば、銀行員にしても、官庁の役人にしても、会社員にしても、上司や中央幹部の命令を、ただ、まちがいなくやろうとするにすぎない。自分の職場に失策さえなければ上の部だと考えている人たちばかりではないか。

 

 命令だからまずまずやるんだと、命令がなければ与えられた職責だけを他人に指摘されないていどに、やっていればよいというのが、だいたいのすがたである。

 さらに生活意欲にもえているとは思えない。これが、いまの日本の民衆が、つくづくと反省しなければならないところではないか。

 

 そして、また、このところが指導者がもっとも注意すべきところではないだろうか。定年までを無事に勤めて退職金をもらって、その後はどうすればよいかということばかり考えている人間が、役人や教員や会社員にいるということは、国の発展の大きなさまたげになりはしないか。

 

 一日、その職場を楽しみ、その職責に生き、与えられた以上の能率をあげる人々で一国が充満したならば、このなんとなく、ものたりないというものがなくなりはしまいか。すなわち、言いかえれば信念の人がほしいのである。

 

 しからば、この信念の人々を作るにはどうしたらよいか。それには、いろいろの考案も出るであろうが、私は正しい宗教によって生命力を強める以外にはないと主張する。

 

 現代の科学や医学・薬学を、けっして私は否定するものではない。むしろ尊敬するものである。しかし、これ以外に、われわれの生命に作用を与える宗教というものがあるということを、一般人は知らなくてはならない。

 

 生命に宗教が作用するということは、悪い宗教は生命力を弱め、正しい宗教は生命力を強めるということである。

 

 しこうして、正しき宗教は、私の研究においては日蓮正宗以外にはない。それは一言にしていうならば、文献からして、理論からして、また実験証明の結果からして、かく断ずるものである。

(昭和三十一年一月一日)