妙法蓮華経講義(二)
〔原文〕
菩薩摩訶薩八万人。皆於阿耨多羅三藐三菩提。不退転。皆得陀羅尼。楽説弁才。転不退転法輪。供養無量。百千諸仏。於諸仏所。植衆徳本。常為諸仏。之所称歎。以慈修身。善入仏慧。通達大智。到於彼岸。名称普聞。無量世界。能度無数。百千衆生。其名曰。文殊師利菩薩。観世音菩薩。徳大勢菩薩。常精進菩薩。不休息菩薩。宝掌菩薩。薬王菩薩。勇施菩薩。宝月菩薩。月光菩薩。満月菩薩。大力菩薩。無量力菩薩。越三界菩薩。颰陀婆羅菩薩。弥勒菩薩。宝積菩薩。導師菩薩。如是等菩薩訶薩。八万人倶。爾時釈提桓因。与其眷属。二万天子倶。復有名月天子。普香天子。宝光天子。四大天王。与其眷属。万天子倶。自在天子。大自在天子。与其眷属。三万天子倶。娑婆世界主。梵天王。尸棄大梵。光明大梵等。与其眷属。万二千天子倶。有八竜王。難陀竜王。跋難陀竜王。娑伽羅竜王。和修吉竜王。徳叉迦竜王。阿那婆達多竜王。摩那斯竜王。優鉢羅竜王等。各与若干。百千眷属倶。有四緊那羅王。法緊那羅王。妙法緊那羅王。大法緊那羅王。持法緊那羅王。各与若干。百千眷属倶。有四乾闥婆王。楽乾闥婆王。楽音乾闥婆王。美乾闥婆王。美音乾闥婆王。各与若干。百千眷属倶。有四阿修羅王。婆稚阿修羅王。佉羅騫駄阿修羅王。毗摩質多羅阿修羅王。羅睺阿修羅王。各与若干。百千眷属倶。有四迦楼羅王。大威徳迦楼羅王。大身迦楼羅王。大満迦楼羅王。如意迦楼羅王。各与若干。百千眷属倶。卓提希子。阿闍世王。与若干。百千眷属倶。各礼仏足。退座一面。
〔訳読〕
菩薩摩訶薩八万人あり。皆阿耨多羅三藐三菩提に於いて退転せず。皆陀羅尼を得、楽説弁才あって、不退転の法輪を転じ無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所に於いて、衆の徳本を植え、常に諸仏に称歎せらるることを為、慈を以って身を修め、善く仏慧に入り、大智に通達し、彼岸に到り、名称普く無量の世界に聞えて、能く無数百千の衆生を度す。
其の名を文殊師利菩薩、観世音菩薩、得大勢菩薩、常精進菩薩、不休息菩薩、宝掌菩薩、薬王菩薩、勇施菩薩、宝月菩薩、月光菩薩、満月菩薩、大力菩薩、無量力菩薩、越三界菩薩、跋陀婆羅菩薩、弥勒菩薩、宝積菩薩、導師菩薩という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人倶なり。
爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり、復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り。其の眷属万の天子と倶なり。
自在天子、大自在天子、其の眷属三万の天子と倶なり。娑婆世界の主梵天王、尸棄大梵、光明大梵等、其の眷属万二千の天子と倶なり。
八竜王有り、難陀竜王、跋難陀竜王、娑迦羅竜王、和修吉竜王、徳叉迦竜王、阿那婆達多竜王、摩那斯竜王、優鉢羅竜王等なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四緊那羅王あり、法緊那羅王、妙法緊那羅王、大法緊那羅王、持法緊那羅王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四乾闥婆王あり。楽乾闥婆王、楽音乾闥婆王、美乾闥婆王、美音乾闥婆王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四阿修羅王あり。婆稚阿修羅王、佉羅騫駄阿修羅王、毗摩質多羅阿修羅王、羅睺阿修羅王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
四迦楼羅王有り、大威徳迦楼羅王、大身迦楼羅王、大満迦楼羅王、如意迦楼羅王なり。各、若干百千の眷属と倶なり。
韋提希の子阿闍世王、若干百千の眷属と倶なりき。各、仏足を礼し、退いて一面に坐しぬ。
〔語訳〕
【菩薩摩訶薩】菩提薩埵摩訶薩埵(ボデイサツタバ マフサツタバ)の略。旧訳には大道心衆生、道衆生と訳し、新訳には大覚有情、覚有情という。道を求むる大心の人であるから道心衆生といい、道を求め大覚を求める人なるゆえに大覚衆生という。
薩埵とは勇猛の義で、勇猛に菩提を求めるゆえ菩提薩埵という。義訳すると開士、始士、高士、大士となる。摩訶とは大と訳す。御書によれば、菩薩の用心は慈悲をもって本となし、利他をもって先となすという。
序品に出現せる菩薩方は、すベて釈迦己心の菩薩であるから、具体的に実在人物として認めるわけにはいかないものが多い。もっとも妥当と思われる解釈としては、菩薩は仏の徳性、行動を示したものと考えることである。つぎに、釈尊の弟子のなかに、かかる高貴の弟子がいたと考えることである。
【阿耨多羅三藐三菩提】アヌツタラ サミヤク サンブデイ 仏智のこと。旧訳、無上正徧智、真正に徧くいっさいの真理を知る無上の智慧と釈す。新訳、無上正等正覚、真正に、平等にいっさいの真理を覚知する無上の智慧をいうのである。
【陀羅尼】ダラニ 陀羅那、陀隣尼と訳して、持、総持、能持、能遮という。善法を持して散らしめず、悪法を持して起こらしめぬ力および働きに名づけたもので四種ある。
①法陀羅尼、仏の教えを聞持して忘れぬ。
②義陀羅尼、諸法の義において総持して忘れぬ。
③咒陀羅尼、禅定において秘密語を発して不測の神験を有するを咒という。咒において総持して忘れず。
④忍陀羅尼、法の実相において安住するを忍という。忍を持するをいう。これら四陀羅は所持の法である。能持の体は、法義は念と慧を体とし、咒は定を体とし、忍は無分別智を体とする。
大聖人様の仏法でいえば、信力・行力によって御本尊様を堅く受持するのが陀羅尼である。御義口伝を拝すれば、十界の音声、みな陀羅尼である。ゆえに、陀羅尼とは南無妙法蓮華経の働きである。
【彼岸】パーラの訳。生死の境界を此岸にたとえ、業や煩悩を中流にたとえ、涅槃を彼岸にたとえる。つまり、到彼岸とは生命の実相を把握したことである。
【楽説弁才】楽説とは二義がある。
①菩薩みずから正法をえて楽しんで衆生のためにそれを説く。
②衆生の楽しみや欲をよく知って法を説く。四無礙弁の一。
次に弁才とは弁論の才能である。
【衆の徳本を植え】徳本とは善根である。ゆえに今日をもって考えれば、折伏を行ずることである。
【文殊師利菩薩】マンジュスリ 旧訳に文殊師利、万殊尸利、新訳に曼殊室利という。文殊は妙、師利は頭、徳、吉祥の義があるゆえ、妙徳、妙首、濡首、敬首、妙吉祥寺と訳す。菩薩中第一の智慧を持ち普賢菩薩と一対で権大乗経の釈迦の左に座すことがある。
文殊は過去に日月燈明仏の弟子、妙光として法華の付嘱を受け、仏の八子を教えて、つぎつぎと成仏せしめた。その最後の仏を燃燈仏といい、これを釈迦は師とあおいだゆえに、大殊は釈迦の九代の本師といわれる。文殊は釈迦滅後四五〇年まで娑婆世界にとどまって大乗経を広めたといわれている。
【観世音菩薩】略して観音という。梵名は、阿縛蘆枳低しゅ伐邏(アバロキテイシュバラ)で、新訳には観自在といい、旧訳には観世音光世音、観世音自在、観世自在などという。もろもろの苦悩あるものがこの菩薩の名を唱えれば、その音声を観じて、みな解脱せしめるゆえにこの名がある。これすなわち妙法蓮華経の用をあらわしている。三十三身を現じて三毒をのぞき七難を破り種々の願いをかなえる。この力の根源は妙法蓮華経より発するもので、観音はその用にすぎぬから、いま観音をおがんでも利益はない。
三大秘法の仏法を持つものが、自己の願いを必死に御本尊様に訴えるとき、御本尊様のご威徳が観音の働きとなってあらわれてきて功徳があらわれるのである。
また観音は、権大乗経においては阿弥陀仏の脇士として慈悲をあらわす。
観音は中国において南岳大師(天台第三祖)として出現し、仏法を広めたといわれている。
【得大勢菩薩】マハーストハーマ ブラープタ 摩訶那鉢、訳して得大勢、大勢至。菩薩の大智が一切処にいたるゆえに大勢至という。
思益経によれば、足を投ずるところには三千大千世界および魔の宮殿を振動するゆえに名づくという。
【常精進菩薩】ニテイヨーデイヤクタ 宝積経に説く。一衆生のためにも無量劫を経て随逐して捨てざるに、なお化を受けざれども、一念も棄捨することなく心身精進するをもってのゆえに名づく。精進とは勤であり、勇猛に善法を修して悪法を断ずる心の働きをいう。
【不休息菩薩】アニクシュイプタドハラ 思益経によれば、恒沙の仏のもとで梵行を修して、心休息せざるゆえ名づくという。
【宝掌菩薩】ラトナパーニ 大智度論によれば、手より七宝を出して衆生に与え、その恵み尽くるところなかったという。
【薬王菩薩】吠逝闍羅惹(ページャヌヤラジャ)観薬王薬上二菩薩経によれば、瑠璃光照仏の滅後、日蔵比丘が正法を説くを聞き、歓喜して薬をもって衆僧に供養し、菩提心をおこした星宿光なる長者。世の人が賛嘆して薬王と名づけたという。法華経の薬王品によれば、日月浄明徳仏の上弟子で、一切衆生喜見菩薩といった方で、法華を聞いた大恩を報ぜんと、身を焼いて仏に供養し、この功徳によって、ふたたび日月浄明徳仏の国の浄徳王の家に生まれ、また臂を焼いて仏に供養したという。
法華経陀羅尼品によれば、法華経の会座では法華経の行者を守護せんことを誓っている。
法華経妙荘厳王品によれば、妙荘厳王の太子として生まれた浄蔵なる人で、弟の浄眼(薬上菩薩)とともに父王を、ついに折伏している。
薬王菩薩は釈尊の死後一五〇〇年、中国に天台大師として生まれ、南三北七の権宗を破り、一念三千の法門を広めた。
また日本には伝教大師として生まれて南都六宗を破り、法華円頓戒壇を比叡山に建立した。
【勇施菩薩】プラダーナシャバ 一切衆生に仏の法宝を布施して、疲れいとうことなきゆえ、勇施の名がある。
法華経陀羅尼品においては、法華経の行者を守護せんことを誓っている。
【宝月菩薩】ラトナチャンドラ 宝月とは、所証の三諦尊ぶべきこと宝のごとく、能証の三智円に照らすこと月のごときゆえに名づく。
【月光菩薩】ラトナプラブハ 月光とは、円妙の三智よく昏煩熱悩をのぞくこと。なお月光の清涼にして闇を破するがごときゆえに名づく。薬師如来の脇士たる菩薩。清浄法行経によれば、顔回(孔子の一番弟子)の本地という。
【満月菩薩】プーラナチャンドラ 三智円明にして欠くるところなきこと満月のごときゆえに満月菩薩という。
【大力菩薩】マハービクラーミン 境智冥合して大力用あるゆえの名である。
【無量力菩薩】アナオタービクラーミン 大力用をもってあまねく衆縁に応じ、またあまねく衆苦を抜くという。
【越三界菩薩】トライロキヤビクラーミン 分段、変易の二種の生死を超越し、三界(欲界、色界、無色界)を離れるという意味の名。
【跋陀婆羅菩薩】ブラドラパーラ 跋陀婆羅、軷陀颰陀和、颰陀和羅、跋陀羅波黎、跋陀羅婆梨等とあてる。賢護、善守、賢首と訳す。善巧をもって人を将護し、よく衆生を守るゆえの名である。
大智度論によれば、王舎城にいた在家の菩薩で、その家は帝釈もおよぱぬほどの大金持ちであった。
【弥勒菩薩】マイトレーヤ 弥帝隷、梅低梨、迷帝隷等ともいう。姓である。慈氏と訳す。名は阿逸多で、無能勝と訳す。思益経によれば、衆生がこの菩薩をみれば慈心三昧をうるゆえに慈氏といい、また無能勝とは大慈においてまさる者なしの意による。
釈迦の補処の菩薩で、釈迦の入滅に先立って死に、兜卒の内院にこもって五十六億七千万歳待つという。
法華経の会座では大衆のうたがいを知ってよく質問し、大事の法門が展開されるのを助けた。仏滅後九百年にあっては、天親菩薩の乞いに応じて中インドに来下し、瑜伽論を説いた。
また中国の南北朝のとき、よく仏法を広めた傅大士は彼の応誕といわれる。
観心よりみれば、末法今時、御本尊様を信じまいらせる大聖人門下は弥勒である。
【宝積菩薩】ラートナーカラ 浄者経によれば、智慧の宝を積み集めるゆえに名づけられたという。嘉祥の法華経疏二によれば、宝積者財法二宝、積累兼充也とある。
【導師菩薩】大智度論によれば、この人は、もと舎婆提国の人という。また思益経によれば、邪道におちんとする衆生に大悲の心を生じて、正道に入らしめて恩報を求めぬゆえに名づくという。
【釈提桓因】釈提桓因陀羅(シャクラ デーヴァーナームインドラ)の略。訳して能天帝、また梵漢混称して帝釈天という。
現在には忉利天の三十三天を領し、過去によく沙門婆羅門に布施したので、天主となるにたえるのであるという。
【名月天子・普光天子・宝光天子】(チャンドラ デーバープートラ)(サマンタガンドハ)(ラトナプラブハ)月天子、明星天子、日天子の三天子で、帝釈の内臣である。
大聖人様は四条金吾殿へのお手紙で、これらの三光天子が、つねに衛護の任にあたっていることをあかされている。
【四大天王】帝釈の外臣たる四天子。須弥山の四方にいて国土を守るゆえに護世ともいう。東は持国天(ドフリムラーノニトラ マハーラージャ 提頭頼叱、訳して持国または安民という。黄金山居住)南は増長天(ビルードハーカ 毗留勒叉、訳して増長、免離といい、瑠璃山居住)西は広目天(ビルーバークシャ 毗留博叉。非好報、悪眼、雑語という。白銀山居住)北は毗沙門天(バイシュラバーナ 種々聞、多聞と訳す。水精山居住)
【自在天子・大自在天子】自在(イシュバーラ)は、欲界第五変化天である。大自在(マヘーシェバラ)は欲界第六他化自在天である。
摩醯首羅、摩醯湿伐羅と書き、色界の頂上にあって、みずからの五欲を変化し、また余の天に五欲を変化するゆえに大自在という。種々の説がある。
【娑婆世界】娑婆は(サハー)で忍、堪忍と訳す。文句によれば、この世界の人々は十悪に安んじて出離をあえてせざるゆえにいう。
また法華経によれば、この土の衆生は三毒、もろもろの煩悩を忍び受けるゆえ忍土と名づけるという。
大聖人様の仏法を信ずるものは、強い生命力によって、もろもろの苦を乗り切っていけるから娑婆即寂光土である。
【梵天王・尸棄大梵】娑婆世界の主、梵天王と尸棄大梵とは同一の梵天である。色界の初禅天にいて娑婆世界を統領するゆえに主というのである。
梵天王とは色界諸天王の通号である。梵とは(ブラフマン)で清浄の義がある。尸棄とは(シクヒン)で、頂髻、または火と訳す。火光定にはいって欲惑を断ずるゆえの名である。また、この天は劫末大火災の頂上なるゆえに名づけるともいう。
【光明大梵】ジョーテイシュラブハ 第二禅の天王である。
【難陀竜王・跋難陀竜王】難陀跋難陀(ナンダ ウパナンダ ナーガラジャ)摩竭陀国に住む兄弟二竜王の名である。難陀とは歓喜と訳し、跋難陀は善歓喜と訳す。竜王は、気象を司る宇宙生命の働きである。
【娑迦羅竜王】サーガラ ナーガラジャ 鹹海と訳す。海に住む。
【和脩右竜王】ヴァースキ 多頭と訳し、補注によれば九頭竜という。水中にいて細竜を食う。
【徳叉迦竜王】タクシャカ 文句によれば、視毒、多舌、両舌という。
【阿那婆達多竜王】アナバタプタ 阿那跋達多、阿那波達多、阿那婆答多、阿那婆達多と書く。あるいは、阿耨達、阿那婆は巴利語 アノタッタの音写、無熱悩、清涼と訳す。これは大雪山の頂にある池の名で、このなかに住むという。他の竜王のごとき熱風、熱沙、悪風の苦悩がなく金翅鳥(竜を食う)の難をまぬかれる力をもつ。大智度論に阿那婆達多竜王は、これ、七住の大菩薩なりとある。
【摩那斯竜王】マナスバツティ 摩那蘇婆帝、またはマナスビイ 大身、大意、大力等と訳す。慈心あり。文句には、修羅排海、滝喜見城此竜榮身、以遏海水とある。
【優鉢羅竜王】ウトパラカ 漚鉢羅とも書く。文句によれば、黛色蓮華池という。
この竜が蓮華池に住むゆえについた名である。
【緊那羅王】キムナラ 緊捺羅、緊陀羅、甄陀羅、真陀羅、緊捺闥、旧訳に、人非人疑神といい、新訳に歌神という。すなわち楽神である。
文句二下によれば、人に似て一角があるゆえに人非人という。
天帝の法楽神。法、妙法、大法、持法とは、四緊那羅王の名であって、天台は、これを蔵・通・別・円の四教に配当している。
【乾闥婆王】ガンドハルバ 健達縛、健闥婆、犍達婆、犍達縛、彦達縛、乾沓婆、乾沓和、犍沓婆、犍陀羅、献達縛等と書く。
文句によれば、香をもって食とするゆえに嗅香といい、その身より香を出すゆえに香陰という。天帝の俗楽の神である。
次に楽、楽音、美、美音は各乾闥婆王の名で、楽とは、幢倒伎、楽音とは弦管を皷節するもの、美とは幢倒のなかの勝品なる者、美音とは弦管中のすぐれたる者である。
【阿脩羅王】アスラ 阿脩羅、阿脩倫、阿素羅、阿須羅、阿素洛、阿蘇羅等と書く。阿須羅、阿脩羅は旧称で、訳して無端正という。容貌醜怪なるゆえに名づける。また無酒神と訳す。その果報に酒なきゆえである。新称して阿素洛といい、新訳には非天という。果報は天ににて天にあらざるゆえの名である。つねに帝釈と戦闘する。
【婆稚阿脩羅王】バリー アスラ 跋墀、跋稚跋移、末利、婆梨等に作る。文句二によれば、婆稚とは被縛、五処被縛、五悪等という。これは帝釈と戦って敗れ縛せられたるによる。
【佉羅騫駄阿修羅王】カラスカンダ 訳して吼如雷。文句二によれば広肩胛という。形貌広大のゆえである。また悪陰と訳するのは、その性をあらわすものである。海水を沸かしむる者である。
【毗摩質多羅阿修羅王】ビマチトラ、ビエーマチトラ 訳して浄心または種々疑という。海水をかきわけて声を発せしめ、これを毘摩質多という。乾闥婆の女をめとり、舎脂夫人を生み、帝釈にとつがしめた。新訳に綺画というのは、彼が文身せるをいい、宝餝というのは宝冠飾服の最大をいう。
【羅睺阿修羅王】ラーフー つぶさには、羅?羅阿脩羅王という。羅睺羅とは障持、執月と訳す。この阿脩羅は帝釈と戦うとき、よくその手をもって日月を障蔽するゆえに名づける。
【迦楼羅王】ガルダ 迦留羅、迦婁羅、掲路茶、伽楼羅等を作る。旧訳には金翅鳥、新訳には妙翅鳥、頂癭鳥、食吐悲苦声などいう。四天下の大樹の上にいる烏で、両翅の長さ三三六万里で、羽は金色で竜をとって食すという。大威徳、大身、大満、如意はその名である。悪を伏す勢いあるを大威といい、善を守る功あるを大徳という。大身とは、丈六の小身に対して偏虚空の大化身をさす語である。
【韋提希】バイデヒー 毘提希、吠提希とも作り、新称して吠題
弗多羅等という。思惟、思勝と訳す。摩羯陀国の頻婆沙羅王の后、阿闍世の母である。
【阿闍世王】アジャータシャトク つぶさには、阿闍多設咄路、阿社多設咄路ともいう。訳して未生怨という。
提婆達多にそそのかされて父を殺して母を幽閉し、釈尊に敵対したが大罰を受け、ついに懺悔して仏法の大檀那となった王。
大聖人様のおおせによれば、日本国不信の一切衆生は、すでに諸仏の父を殺し、法華経の母を殺すゆえに阿闍世王である。
また、別の面からいえば、大聖人様の弟子檀那は、無明貪愛の父母を妙法の剣で切るゆえに阿闍世王である。
〔通読〕
法華経は、声聞を正位とするが、ここに、同門宗第二位の菩薩摩訶薩八万がいる。みな阿耨多羅三藐三菩提、すなわち無上正徧智において十地の位に達し、初めて一分の仏智をさとることをえて、大いに歓喜の心を生じ、進んで無上正徧智をえて、けっして退却変転しない境地に達しているのである。
いま、その現徳を嘆ずれば、みな陀羅尼をえて、自行の徳として楽説弁才あり、また化他の徳は不退の法輪を転じて一切衆生を救う。この菩薩行因をたずねれば、無量百千の諸仏を過去において供養し、その諸仏の所において、衆の功徳および善根を植えて菩薩の種となし、その名声は常に諸仏に称嘆せられている。その菩薩の実体の徳は、慈悲の行をもって身の修行となし、よく仏慧の一部をさとって仏の境地に通達し、ついに彼らの願いとしている彼岸に達したのである。名声は無量の世界に聞こえ、その名声ゆえに、またよく無数百千の衆生を救いえたのである。
その名に吉祥の義があり、智慧第一の文殊師利菩薩、三十三身を現じて衆生を救った観世音菩薩、大智が一切処に至る得大勢菩薩、一人の衆生のために、その衆生がその化を受けなくても、なお捨てずに心身精進する常精進菩薩、梵行を修して休まざる不休息菩薩、手より七宝をいだす宝掌菩薩、天台の前身たる薬王菩薩、仏の法宝を布施して疲れいとわぬ勇施菩薩、能証の三智、円に照らすこと月のごとき宝月菩薩、円妙の三智煩悩をのぞくの力ある月光菩薩、三智円明にして欠くることなき満月菩薩、境智冥合して大力用ある大力菩薩、大力用をもって衆苦を抜く無量力菩薩、分段変易の二種の生死を超越した越三界菩薩、善巧をもって衆生を守る颰陀婆羅菩薩、慈心三昧を得た弥勒菩薩、智慧の宝を積み集めた宝積菩薩、邪道に入らんとする衆生をみちびいて正道に入らしめ恩報を求めぬ導師菩薩である。このような菩薩摩訶薩万人がいた。
また、そのとき、同門宗三類のなかの第三雑衆中第一の欲界の天衆たる釈提桓因すなわち帝釈天が、その眷属二万の天子といっしょであった。
また名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王もその眷属万の天子といっしょであった。
自在天子、大自在天子は、その眷属三万の天子といっしょであった。
また、雑衆中第二類色界の諸天中、娑婆世界の主、梵天王、尸棄大梵、光明大梵等である。その眷属万二千の天子といっしょであった。
また、雑衆中第三類八竜王がいた。難陀竜王、跋難陀竜王、娑伽羅竜王、和脩吉竜王、徳叉迦竜王、阿那婆達多竜王、摩那斯竜王、優鉢羅竜王等であり、おのおの若干百千の眷属といっしょであった。
また、雑衆中第四類の四緊那羅王がいた。法緊那羅王、妙法緊那羅王、大法緊那羅王、持法緊那羅王である。おのおの若干百千の眷属といっしょであった。
また、雑衆中第五類の四乾闥婆王がいた。楽乾闥婆王、楽音乾闥婆王、美乾闥婆王である。おのおの若干百千の眷属といっしょであった。
また、雑衆中第六類の四阿脩羅王がいた。婆稚阿脩羅王、佉羅騫駄阿修羅王、毗摩質多羅阿修羅王、羅睺阿脩羅王である。おのおの若干百千の眷属といっしょであった。
また、雑衆中第七類の四迦楼羅王がいた。大威徳迦楼羅王、大身迦楼羅王、大満迦楼羅王、如意迦楼羅王である。おのおの若干百千の眷属といっしょであった。
また、雑衆中第八類の韋提希の子、阿闍世王も若干百千の眷属といっしょであった。
さて、おのおのは仏の御足を頂礼して一面の座についたのである。
〔講義〕
阿耨多羅三藐三菩提において、不退転の菩薩八万人がある。およそ菩薩の階級は十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の五十二位で、そのうち十地の位は初地より十地まであって、一分の仏果を証得したものが不退転の菩薩である。
しからば、今日の末法の仏法修行において、この五十二位の菩薩の階級がいまだ存するかというに、しからず、ことに正しき大聖人の仏法においては、絶対にこの階級はないのである。
一度三大秘法の御本尊に向かって題目を唱える者は、これ菩提薩埵の凡夫にして菩薩なのである。
しかも、この菩薩は本化の菩薩といって、次にあげる文殊、観音その他の迹化の菩薩にすぐること数万倍の高貴な菩薩である。
御義口伝に『凡夫即極』と。また、観心本尊抄(御書全集二四三ページ)に『本門の一菩薩を迹門十方世界の文殊観音等に対向すれば猴猿を以て帝釈に比するに尚及ばず』とおおせられている。
この本化の菩薩とは、地涌の菩薩のことで、すなわち末法における三大秘法の大御本尊を信ずる、われら凡夫のことである。
諸法実相抄(御書全集一三六〇ページ)にいわく、
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるベし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし』
さて、この耆闍堀山に集まった第一類声聞衆・第二類菩薩衆・第三類雑衆の数をざっとかぞえてみれば、約三十万に近いと思われる。それ以上であるか、それ以下であるかは、若干百千とあるので、推測にまかせる以外にはない。これだけの大多数の人間がどうして集まれたかということが不思議になってくる。たとえ、集まりえたとしても、釈迦の音声がこれらの人へ、どうして聞かせたことか。仏は梵音声があるといって、梵音声の一相をもってこれを片づけるとしても、末代われわれ凡夫は信ずることができない。拡声機のようなものがあったと説く人がいるが、今日の科学者は断じてこれを信ずるまい。古跡の発掘から、それらしきものが出てくれば別であるが、いまだ、そんな話を聞いたこともない。ことに雑衆中、帝釈天とか、自在天とか、大梵天とか、また、人にあらざる竜王とか、緊那羅とか、乾闥婆とか、迦楼羅とかにいたっては、どうしてこれを信ずることができようか。法華経をひもといて、これを鵜呑みにするならいざ知らず、少しく科学的に考慮する者は、序品第一から、うたがいを起こして二十八品を読了する気にはならないであろう。
しかるに、経文の処々において、これを信ぜざる者は悪道に堕つとある。大聖人も、また六万九千三百八十四文字ことごとく金色の仏なりとおおせある。金色の仏とは真理なりとのおことばである。
信ぜんとすれば、うたがわざるをえず、これをうたがえば釈迦および大聖人の二仏を妄語の仏となし、かつは悪道におちねばならぬ。吾人はここに進退きわまれりというか。
ひるがえって仏語を案ずるに、仏のことばはいつわりではない。しからば何を意味するのか。法華経には当体蓮華、譬喩蓮華の義がある。
当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とは、その真理を、譬えをかりて説明したものである。
たとえば蓮華のことであるが、因果倶時の法それ自体を説くときは当体蓮華であって、因果倶時の法を蓮華の花をかりて、その花と実とが同時にあることを示して、これを説明するのは譬喩蓮華である。
この序品の三類の大衆の集まりは、すなわち譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのである。
しからば序品の当体蓮華はいかん。
何万の声聞・何万の菩薩・何万の雑衆は、これことごとく釈迦己心の声聞であり、釈迦己心の雑衆である。
妙法蓮華経は、釈迦の命であり、釈迦の心である。さればこそ、十界の衆生ことごとく釈迦の内証に住むというとも、なんのまちがいもないのである。序品を読む者よくよくこれを心得なければならぬ。
なお、すすんでいうならば、寿量文底の仏の大下地がここにあらわれていると読んでいいのではないか。
(昭和二十九年九月一日)







