謹んで開目抄の一節を拝したてまつる

 

 私が大聖人様の御書を拝読したてまつるにさいしては、大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈なる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである。

 

 私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々たるお心がつきさされてくるのである。熱鉄の巨大なる鉄丸が胸いっぱいに押しつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大爆布が地をもゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである。

 

 そのたびに、大聖人様のご足下にひざまずく自分を見、また、ときには懦弱な日蓮門下、邪知の邪宗のやからに、歯ぎしりをかむ思いをなし、ただ捨つるはわが命のみと、こぶしをにぎるのが常である。

 

 訓詁注釈のやからは私の読み方を笑うかもしれないが、私はまた訓詁注釈を事とし、ただ暗記するのみの者の、大聖人様の熱烈なる大精神にふれえないことを常に悲しむものである。

 

 一応申しのべたように、御書を拝読する私の基本の考え方を申しあげて、いま謹んで開目抄の一節を拝読したてまつり、ご本仏のご本意どおりには読みえなくても、広宣流布大願に命を捨てんと覚悟をしたものの琴線にふれた範囲において、その意味を申しあげてみよう。

 

 

『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』(御書全集二三二ぺージ)

 

 この尊い力強いおことばを、どうして、私どもが聴聞できたのであろうか。この文の以前に大聖人のたまわく、

 

『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ』(御書全集二二三ページ)

 

 このおことば、まことにもったいなく尊いのである。すなわち、日蓮大聖人様が久遠元初の自受用身であらせられ末法のご本仏であるとのご宣言である。

 

 日寛上人様が、この御文を釈して私ら末弟にお教えくださるに、

『頸はねられるるの文は勧持品の加刀杖の文と合し、魂魄佐渡にいたるとは、数数擯出の文に合するなり、しかし、これは付文の辺であって、元意にいたっては蓮祖大聖人は名字凡夫の御身のご当体まったく、これ久遠元初の自受用身となりたまい、内証真身の成道を唱え末法下種の本仏とあらわれたもう明文なり』と。

 

 また、いわく『三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり』云云(御書全樂一五五八ページ)

 

 また、いわく『子丑の時は末法蓮祖名字凡身の死の終わりなり故に頸をはねらるというなり、寅の時は久遠元初の自受用身の生の始めなり故に魂魄等というなり』

 

 以上、日寛上人の御釈にも明瞭なるがごとく、末法今時の法華経の行者は日蓮なりとの大確信をのべられていることは、あきらかである。末法の法華経の行者とは、末法の仏であるとの意味であるから、御書を読むときに、よくよく心して読むベきであろう。

 

 さて、末法法華経の行者は日蓮なりとの確信の上に立つといえども、これを弟子ども、いな末法の衆生に、いかにして知らしめるかとのご慈悲より、現証をここに引いて結論をのべられるのである。

 されば、この御文の次下において、三類の強敵の現存せること、文証・理証とともに強くのベていらせられるのである。

 

 しこうして、この三類の強敵を衆生がなかなか見出せないのをなげいて、

 

『無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始の三類を見るベからず一分の仏眼を得るもの此れをしるべし』(御書全集二二九ページ)

 

『無眼の者・一眼の者』とは謗法をさし、『一分の仏眼を得るもの』とは法華経の行者をさしているのである。

 

 ここにも、大聖人様が末法の仏なりとのご宣言が、あきらかにみえるではないか。

 

 七百年の前も、いまも、等しく大聖人を末法のご本仏とあおぎ、その命令に服さぬものは、無眼の者、一眼の者、邪見の者といわざるをえない。このようにきびしく、かつ正しく三類の強敵の現存せることをおおせられて後、三類の強敵あれば、かならず法華経の行者がなければならぬと結論なされていられる。

 

そのおことばにいわく、

『誰をか法華経の行者とせん、寺塔を焼いて流罪せらるる僧侶は、かずをしらず、公家・武家に諛うて・にくまるる高僧これ多し、此等を法華経の行者というべきか、仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん』(御書全集二二九ぺージ)

 

 一応、このように、法華経の行者がだれであろうかと、あるいはないのかと、うたがいをなげかけて、次下の御文において、またうたがいを強めつつ、その元意において、われこそ法華経の行者なりと、断定あそばされていらせられるのである。

 

『たれやの人か衆俗に悪口罵(詈)(めり)罵せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する・誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし、日蓮は法華経の行者にあらず天これを・すて給うゆへに、誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん、仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるベし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるベし』(御書全集二三〇ページ)

 

 かくのごとく大聖人様が法華経の行者なりといわんとすれば、次の疑問が末法の衆生におこってくる。

 

『有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり』(御書全集二三〇ページ)

 

 大いなる相違とは、法華経の行者がさんざんにかかる大難にあうということは、経文と大いに相違しているというのである。法華経の『天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わず』(御書全集二三〇ページ)等の文にも、大聖人の現実は相反するゆえに、法華経の行者ではないとするのである。

 

 また『若し人悪罵すれば口則閉塞す』(御書全集二三〇ページ)この経文に照らせば、法華経の行者すなわち末法の仏なら、これに反対する者に罰がなければならないのに、そのようなこともない。

 また『現世には安穏にして後・善処に生れん』(御書全集二三〇ぺージ)ご利益は大聖人の身の上にあらわれてはいないし、また頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん』(御書全集二三〇ぺージ)との罰もなし、

 また『亦現世に於て其の福報を得ん』(御書全集二三〇ぺージ)という福運もなし、また『若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん』(御書全集二三〇ページ)という仏罰もない。

 

 いかにしても大聖人は末法の法華経の行者とはいいえない。末法の本仏なら利益と罰とが厳然としていなくてはならないではないかというのである。

 

 そこで、大聖人は、文証および現証をもって説き、次にこれは、わが宿習なりと断じ、かつお心構えを、所詮は天も捨て給え諸難にもあえとおおせられたのである。

 

文証および現証をもって、これを説かれたとは、

『答えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん、不軽品に云く「悪口罵詈」等、又云く「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、涅槃経に云く「若しは殺若しは害」等云云法華経に云く「而かも此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し」等云云、仏は小指を提婆にやぶられ九横の大難に値い給う此は法華経の行者にあらずや、不軽菩薩は一乗の行者といはれまじきか、目連は竹杖に殺さる法華経記莂の後なり、付法蔵の第十四の提婆菩薩・第二十五の師子尊者の二人は人に殺されぬ、此等は法華経の行者にはあらざるか、竺の道生は蘇山に流されぬ法道は火印を面にやいて江南にうつさる・此等は一乗の持者にあらざるか、外典の者なりしかども白居易北野の天神は遠流せらる賢人にあらざるか、事の心を案ずるに前生に法華経・誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ずこれを世間の失によせ或は罪なきをあだすれば勿に現罰あるか・修羅が帝釈をいる金翔鳥(こんじちょう)阿翅池(あのくち)に入る等必ず返って一時に損するがごとし』(御書全集二三〇ページ)

 

 以上のごとく、大聖人は、われは末法の法華経の行者なりと、いいはなたれているのである。しかしながら、末法の法華経の行者が、いかにしてかかる大難にあうかということを、重ねて説いていうのには、これは過去の宿習であって、この過去の罪を消し終わってこそほんとうの幸福があらわれるとおおせられているのである。

 

 その幸福とは、所詮仏を覚悟することであって、仏を覚悟するには絶対に法華経をはなれてはならぬ。三大秘法の南無妙法蓮華経を信じきり、行じきる以外にはないとの大確信の上に、この一節の大獅子吼がある。

 

 されば『詮ずるところは天もすて給え』とは、諸天善神の加護なくとも大聖人様は断じて法華経を捨てはせぬ。

 

 また『諸難にもあえ』とおおせられるのは、いかなる大難をも何かせん、難をおそれて末法の法華経の行者といわれようかとの、ご意気であらせられ、『身命を期とせん』とは、末法において法華経を行ずる以上には命がけであることは当然である。命をおしんで法華経の広宣流布はできるものではない。しかも、最高の幸福である成仏の境涯は、命をすてる覚悟あってこそえられるのであるとのおおせである。

 

『身子が六十劫の菩薩の行を退せしは乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ』

 

『身子』とは舎利弗のことであって、釈迦十大弟子の一人であり、智慧第一といわれた人である。釈迦成道の後、日犍連とともに婆羅門の流派を捨て釈尊につかえ、法華経の迹門譬喩品において華光如来の記をたまわった人である。

 

『六十劫の菩薩の行を退せし』というは、舎利弗、過去世において退大取小の因縁を説かれたのであって、すなわち大智度論によれば、前世において舎利弗が布施を行として菩薩の道を修行していたそのときに、乞眼の婆羅門、すなわち乞食がおって、舎利弗に目をくれといったのである。

 舎利弗は一方の目を取って乞食に与えた。もらった乞食は香をかいで、くさいのでつばきして地上に捨て、足で踏んだのである。そこで舎利弗が思うのは、これらはすくいがたい人物である。いやしいなかのもっともいやしい者であって、こんな者を救うよりは、自分だけが救われたほうがよいと考えたのである。

 

 かかるいやしい者のなかのいやしい者が救われないとの考えは、菩薩の行を退転したことであり、自分だけが救われんと考えたことは、みずから小乗経におちたことであるから、これを退大取小ともいい、また大聖人におかれては、

 

『菩薩の行を退せしは乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ』とおおせられたのである。

 

『久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり』

 

『三五の塵点』とは、三千塵点劫、五百塵点劫のことである。三千塵点劫とは化城喩品に大通智勝仏が、いまからどれぐらい前の仏であったかを説いた時間であって、五百塵点劫の時間からくらべると、すこぶる、みじかい時間であるけれども、われわれのとうてい考えられない時間である。

 

 化城喩品によると、『譬えば三千大千世界の所有の地種を、仮使人あって()り以て墨と為し、東方千の国土を過ぎて乃ち一点を下さん、大さ微塵の如し。又千の国土を過ぎて復一点を下さん。是の如く展転して地種の墨を尽くさんが如き、汝等が意に於て云何。是の諸の国土を、若しは筭師(さんし)若しは筭師の弟子、能く(へん)(さい)を得て其の数を知らんや不や。不也、世尊。諸の比丘、是の人の経る所の国土の、若しくは点せると点せざるとを、尽く抹して塵となして、一塵を一劫とせん』と。

 

『五百塵点劫』とは、法華経本門の釈尊がいつ仏になっていたかという時間で、三千塵点劫よりすこぶる長く無始無終に近い時間である。これを寿量品には、次のごとく説かれている。

 

『譬えば、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使人有って、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽さんが如き、諸の善男子、意に於いて云何、是の諸の世界は思惟し校計して、其の数を知ることを得ベしや不や。

弥勒菩薩等、倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以っても、思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於いては、亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。

爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を尽く以って塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由佗阿僧祇劫なり』(毎日読誦している経文部分である)

 

『久遠大通の者の三五の塵をふる』とは、久遠の仏および大通智勝仏に結縁した衆生が、三千塵点劫、五百塵点劫の間、仏にならずにおったということは、悪知識にあったがゆえである。悪知識とは邪宗の指導者であって、邪宗の僧侶こそ最高の幸福たる成仏をはばむ大悪人である。

 

『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』よいことにつけ悪いことにつけ、善を行なうにもせよ、悪を行ずるにも、法華経を捨てるのは不幸の大原因である。最高の不幸である。

 

 地獄の生活は、法華経を捨てることによって生じ、法華経を捨てるのは地獄の生活の業である。

 

『大願を立てん』大願とは、大聖人が仏となる道を日本国中の人々に教えて日本民族に最大の幸福を与えんとの大願である。そのためには、いかなる誘惑、いかなる迫害にも堪えんとの願いである。『日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ』、観経とは弥陀三部経の一部であって、観経について後生を期せよとは、念仏を唱えて成仏をせよということで、これは一応の文義で、観経にはいっさいの邪宗を摂しているのである。

 

 されば日本国の位をゆずるほどの大利益を与えるから、法華経を捨てて邪宗教について成仏を願えという大誘惑があろうとも、智者に我が義破られずば用いじとのお心である。

 

『父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも』父母の頸をはねるとは、もっとも重大な大難である。人の子として最もたえがたき大迫害である。また大罰である。このようないかなる大難が出来しても、断じて法華経は捨てぬとの大確信である。すなわち日本国の位をゆずらんというほどの大誘惑があろうとも、父母の頸をはねんという大迫害があろうとも、断固として智者に我が義破られずば随わじとのお心が涌溢しているのである。

 

『智者に我義破られずば用いじとなり』智者とは仏を意味し、他に仏あらわれて、末法救済の大原理、大方法が立たざるかぎり、余は末法の本仏であるがゆえに、余の立てたる末法救済の大原理、大方法は絶対にして崇高なるものである。天に二日なく地に二王なし、いわんや末法に二仏あるべきはずなし。

 

 かかるがゆえに、大聖人は、『智者に我義破られずば用いじとなり』とおおせられたのである。

 

『其の外の大難・風の前の塵なるべし』そのほかとは、どの難を中心としてあるかというに、智者に我が義破らるは根本の難であって、そのほかの大難すなわち日本国を譲らん父母の頸を切られる等の種々の大難は、風の前の塵のように何ものでもない、じつに偉大なる確信、崇高なる民衆救済の大精神ではなかろうか。

 

 されば佐渡へ流されたのも、由比が浜辺の頸の座も、大聖人にとっては小苦小難であり、また大聖人が佐渡のご難も頸の座も、よろこばしいかなとおおせられたご真意が、よくよく、うかがわれるのである。

 

『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』

 

 この御文、日寛上人釈してのたまわく、『ただ師徳にたとうるか、あるいは三徳に配するか、師徳にたとうるとは日本国の柱となり、大船となり、眼目となって、われら民衆を指導して真の幸福をえさしめんと願わせられるのであって、ご自分の成仏をはかり自己の幸福を願うためではないという御仏の本願がはっきりあらわれている。

 

 また三徳に配するとは、大聖人が日本の柱とならんとは主の徳を表現し、眼目とならんとは師の徳をお示しになり、日本の大船とならんとは親の徳を明言されているのである。

 

 すなわち、主師親三徳のご確信は末法本仏としてのご確信であり、ただただ末法のわれら衆生をおあわれみ給うお心が、しみじみあらわれていると感じなくてはならない』

 

 一応、総括して、このおことばをかみしめてみるのに、大聖人が種々なる難にあわれるのは、過去の宿習であり、末法の本仏として仏のすがたを示現せんがために、当然受けなくてはならぬ、また大衆に示さなくてはならぬ大難であるがゆえに、天も捨て給え諸難にもあえと覚悟のおことばである。

 

 されば、いかなる大難も、智者にわが義やぶられざる以外は、『風の前の塵なるべし』とおのべあそばしていられるのである。

 しこうして仏としての大確信に立たれるがゆえに、末法の民衆を救わん以外に何物もなし、『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』とおおせられているのである。

 しこうして、大聖人様の受ける大難が宿習であることを、次下の文に文証と現証とをひいて、われわれ末法の衆生が、うたがいなからんとして力説なされていられるのである。いまその一説をひいて、この文の結論とするのである。

 

『般泥洹経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ・或は形状醜陋・衣服足らず・飲食麤疎・財を求むるに利あらず・貧賤の家邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」云云、此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被軽易等云云、法華経に云く「軽賤憎嫉」等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋・又云く衣服不足は予が身なり飲食麤疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賤家は予が身なり、或遭王難等・此の経文疑うべしや、法華経に云く「数数擯出せられん」此の経文に云く「種種」等云云、斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云く「散善微弱なるは動せしむること能わず今止観を修して健病虧ざれば生死の輪を動ず」等云云、又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云云我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頸を刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すベし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にいたうきたわざれば・きず隠れてみえず、度々せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもって急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ』

 

以上の御文において、大聖人様の種々なるご難は、過去の宿習なることは、あきらかである。

(昭和二十七年四月二十五日)