創価学会の歴史と確信(上)
創価学会が、初代会長、牧口常三郎先生に卒いられて、大法弘通のために立たれたときは、罰ということを正宗信者が忘れていたときである。
牧口先生は罰論をもって大法を弘通せんとし、内外にこれを説いて、あらゆる難にあったのである。罰論を説くのは、日蓮正宗の教義にそむくものとして攻撃した僧侶すらあったのである。
牧口先生は、敢然として法罰のおそろしさ、法罰厳然たるを説いてゆずらずして、ご一生を終わったのである。
「御本尊様は偉大な力がおありになる。罰なくして大利益があるわけがない。子をしかる力のない父が、子に幸福を与えられない。
御本尊様をじっとおがんでみよ。「もし悩乱する者あれば、頭は破れて七分となる」との御本尊様のおおせが聞こえないか。御本尊様が罰をおおせではないか」とは、先生の持論で、私も先生の持論は正しいと思う。
これに反対する者は、大御本尊の威力を信じない者であり、これこそ、釈迦仏法のやさしい慈悲のすがたのみをあこがれる文上仏法のやからで、日蓮正宗の正流ではない。
私も重ねてこれをいうが、御本尊のむかって右の御かたわらに、『若し悩乱せば頭破作七分』とおしたためられている。これが罰論でなくてなんであろう。むかって左の御かたわらを拝せば、『供養せん者は福十号に過ぐ』と、これはご利益をくださるとの御おおせではないか。
利益と罰は、われわれ日常の真実の生活であり、価値生活の全体である。この尊いことを忘れておって、牧口先生がこれを説くや、おどろきあわてた連中のすがたは、いま思い出しても、こっけいのきわみである。そして、いまごろになって、昔から知っていたような顔をしている悪侶もあるのには、おどろくのである。
今日にいたって、なお、これを思い出さないバカな愚侶もいるのには、おどろくというより無知を悲しむものである。
聖人御難事御抄(御書全集一一九〇㌻)に大聖人の御おおせにいわく、
『過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず』と。
大法にそむく者に厳然と罰ありとのご聖訓ではないか。だれか、これを否定いたしましょうぞ。否定することは謗法であり、悪人・愚人の証明となるではないか。
また、大聖人の御おおせには、
『大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、
罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候、日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびゃうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ』(御書全集一一九○㌻)と。
牧口先生は、この御抄のお心を心として、おどしても、おじず、おどろかず、法罰を説いて内外の難をこうむったのである。
時あたかも、わが国は太平洋戦争に直面し、国をあげて、修羅のちまたに突入したのである。牧口会長は、この大戦争の間に、強く大聖人のご精神を奉戴して、国家の悪思想たる天照大神をおがむということに対立したのであった。
時の軍部は、蒙古襲来のとき、神風が天照大神によって吹いたという歴史にだまされていたのであった。国家が謗法の行為をなすことを知らず、大聖人の教えを聞こうとせず、語ろうともせず、かつ、御本仏大聖人の祈りによって神風が吹いたことは、知らなかったのである。
米国はデューイの哲学により、日本の軍部は低級な邪義である神道論によって、一国の精神統一を図った。勝敗のかずは物量だけの問題でなく、すでにこのことによって定まっていたのである。かれらが敗戦とともに、狂人的になることは、どうすることもできないことであった。
高級な仏教哲学は、敗戦すべきことを教えていたのであるが、そのたいせつな教理である大聖人の御遺文すら焼き捨てようとかかったのである。軍部の偉大な権力は狂人に刃物で、民衆はおどされるままにふるえあがって、バカのように天照大神の神だなを作っておがんだのである。
このとき、牧口会長は、天照大神の神札をおがむことは、正宗の精神に反すると、きびしく会員に命ぜられたのである。
日本の国は、軍部にひきずられて妙な考え方になっていた。国内が思想的に乱れるのを忘れ、宗教の統一を図ろうとくわだてた。天照大神をおがんで神風を吹かしてもらうと言いだしたのである。天照大神をおがまないものは国賊であり、反戦思想であるとしていた。
日本始まっていらい、初めて国をあげて天照大神への信心である。
天照大神とて、法華経守護の神である。法華経にいのってこそ天照大神も功力をあらわすのである。しかるに、文底独一の法華経をおがまず、天照大神だけをいのるがゆえに、天照大神の札には魔が住んで、いのりは宿らず、一国を狂人としたのである。
しかも、御開山日興上人の御遺文(御書全集一六一七㌻)にいわく『檀那の社参物詣を禁ず可き事』とおおせある。
(私見:日本国内に本門の戒壇ができ、広宣流布ができたときには、『檀那の社参物詣を禁ず』は解禁されると思う。戸田城聖先生も、その時はお祭りで騒ぐなど言われていたと思う。
ただし、三沢抄(御書全集1490㌻)「其の故は神は所従なり法華経は主君なり・所従のついでに主君への・けさんは世間にも・をそれ候、其の上尼の御身になり給いては・まづ仏をさきとすべし、かたがたの御とがありしかばけさんせず候、此の又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人人も・しもべのゆのついでと申す者をあまた・をひかへして候、尼ごぜんは・をやのごとくの御としなり、御なげきいたわしく候いしかども此の義をしらせまいらせんためなり。」のように、まず仏(南無妙法蓮華経)を先に、という姿勢があり、札等を祈る対象として購入せず、また参拝しないのであれば見物に行くこと等はいいのではないか。それぞれの責任で。靖国神社に行くことは何の問題もないと思います。質問会編 154 無名戦士の墓参り)
この精神にもとづいて牧口会長は、『国を救うは日蓮大聖人のご真意たる大御本尊の流布以外はない。天照大神をいのって、なんで国を救えるものか』と強く強く言いだされたのである。
当時、御本山においても、牧口会長の宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖の教義にそむけば罰があたるとの態度におそれたのである。信者が忠順に神だなをまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すらおそれだしたようである。
昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、『神札』を一応はうけるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち合いのうえ渡辺慈海師より申しわたされた。
御開山上人の御遺文(御書全集一六一八㌻)にいわく、
『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』
この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対にうけませんと申しあげて、下山したのであった。
しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
『一宗がほろびることではない、一国がほろびることを、なげくのである。宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにをおそれているのか知らん』と。
まことに大聖人のご金言はおそるべく、権力はおそるべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという『とが』で、学会の幹部二十一名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるもはずかしき次第であった。
牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである。
また、投獄せられた者どもも、あわれであった。事業のつぶれる者、借金取りにせめられる者、収入の道なく食えなくなる者等続出して、あとに残った家族も、悲嘆にくれたのである。このゆえに、まず家族が退転し出した。うたがいだした。これは確信なく、教学に暗いゆえであった。投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。
勇なく、信が弱く、大聖人をご本仏と知らぬ悲しさである。
名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝二、木下鹿次を始め、二十一名のうち十九名まで退転したのである。
会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いものであろうか。
会長牧口常三郎先生は、昭和十九年十一月十八日、この名誉の位置を誇りながら栄養失調のため、ついに牢死したのであった。
私は牧口会長の死を知らなかった。昭和十八年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。二十歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である。
毎日、独房のなかで、「私はまだ若い。先生は七十五歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように』と大御本尊にいのったのである。
牧口先生の先業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう。
昭和二十年一月八日、投獄いらい、一年有半に、『牧口は死んだよ』と、ただ一声を聞いたのであった。独房へ帰った私は、ただ涙に泣きぬれたのであった。
ちょうど、牧口先生のなくなったころ、私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、ご本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調ベと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった。
その取り調べにたいして、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみしめるようななさけなさ。心のなかからこみあげてくる大御本尊のありがたさ、私は一生の命を御仏にささげる決意をしたのであった。
敗戦末期の様相は牢獄のなかまでひびいてくる。食えないで苦しんでいる妻子のすがたが目にうつる。私は、ただ大御本尊様をおがんで聞こえねど聞こえねばならぬ生命の力を知ったがゆえに、二千べんの唱題のあとには、おのおのに百ぺんの題目を回向しつつ、さけんだのである。
『大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。妻や子よ、なんじらは国外の兵の銃剣にたおれるかもしれない。国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者戸田城聖の妻として、また子と名のり、縁ある者として、霊鷲山会にもうでて、大聖人にお目通りせよ。かならず厚くおもてなしをうけるであろう』毎日、唱題と祈念と法悦の日は、つづけられるとともに、不思議や、数馬判事の私をにくむこと、山より高く、海よりも深き実情であった。
法罰は厳然として、かれは天台の一念三千の法門の取り調べになるや、重大な神経衰弱におちいり、十二月十八日より三月八日まで一行の調書もできず、裁判官を廃業してしまったのである。
牧口先生をいじめ、軽べつし、私をにくみ、あなどり、同志をうらぎらせたかれは、裁判官として死刑の宣告をうけたのである。その後の消息は知るよしもないが、阿弥陀経の信者の立場で、私ども同志をさばいたかれは、無間地獄まちがいなしと信ずるものである。
不思議は種々につづいたが、結局、七月三日に、私はふたたび娑婆へ解放されたのであった。
帰ったときの憤りは、仏に非ずんば知るあたわざるものがあった。
創価学会のすがたは、あとかたなく、目にうつる人々は、御本尊をうたがい、牧口先生をうらみ、私をにくんでいるのである。
狂人的警察官、不良の官吏、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死をかくごして、取り調べのすきをうかがって、二階から飛び降りたほど苦しんだ稲葉伊之助氏などは、四か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった。
そのほかの幹部は、一人となく退転し、強く広宣流布を誓った自分ながら、空爆のあとの焼野原に立って孤独を感ずるのみであった。いま、蘇生した矢島周平君すら、手のほどこすところなく、病めるウサギのごとく、穴居しているのであった。
私は、まず大法流布に自重して時を待った。そしてまず、法華経の哲学を説いたのであった。これがまた大謗法なることは、後において実証せられたのであるが、自分としては再建の第一歩であったのである。そのとき、まず、創価学会員のうち柏原ヤス、和泉美代夫人、矢島周平、原島宏治、小泉隆、辻武寿の諸氏が、昭和二十一年の二、三月ごろまでに、かけつけたのであった。
それ以後、日蓮正宗の教義および大御本尊の偉大な法力、仏力を再教育し、いかなる難に出会うとも、退転することなき強き信念を植えつけ、信心の正しきありかたを教え、折伏こそ大聖人のご意志であることを知らしめたのである。
昭和二十一年の秋には、創価学会の再建はひとまず緒についた形となったが、いまだ人材はそろわず、信力弱く、学力は低く、とうてい一国広宣流布の大旗はかかげられなかったのである。ゆえに折伏行を第一義の訓練にはいり、初信者をただお寺へ案内するだけの弱い折伏のすがたであった。
第四回の総会に私がいいましたごとくである。いま、ひとたび、そのときのことばを引用するが、いまだ大確信のこもったものでないことは、読者には、よくわかることと思う。
日蓮大聖人様から六百余年、法灯連綿と、正しくつづいた宗教が日蓮正宗である。もっとも、完全無欠な仏法が正宗なのである。この仏法こそ、私たちを真に幸福にみちびいてくれる宗敦であることを、私たちは日夜身をもって体験しているのである。
世界の文化がいくら発達しても、国と国とのもつ間柄が道徳を無視して、実力と権力闘争の世界では、けっして人類の真の幸福はない。不幸にして原子爆弾による戦争が起こったならば、世界の民族は崩壊の道をたどる以外にない。このときに日本国に厳然として存在している人類の破滅を阻止しうる偉大な宗教が、日蓮大聖人によって与えられているのであると確信する。
毎朝ご観念文に拝するごとく、主師親の三徳をそなえられていらっしゃる大聖人を、われわれごとき者が拝することのできるのは、真にもったいない次第である。われわれは大聖人の家来であり、子であり、弟子なのである。
そして宇宙の仏様であらせられる大聖人の家来、子、弟子となれることは人生の大因縁なのである。しかも開示悟入の大聖人の因縁である。大聖人のご出世は、われわれのごとき無知な悪人に大御本尊をおがましてやるという一大因縁なのである。
ゆえに、大聖人の教えに随順して、世に最高唯一の大御本尊様を子として、弟子として、家来として拝することは無上の大果報である。
ゆえに、世人に先だって、この因縁を知りえたわれわれは、御本尊様の功徳を、なやめる衆生につたえる使命をもっている。われもおがみ、人にもおがませるようにつとめ、善きにつけ、悪しきにつけ、世のなかがいかになろうとも、世界人類の幸福のために、自分もおがみ、他にもおがませなければならない。
私たちは無知な人々をみちびく車屋である。まよっている人があれば、車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内していくのが、学会の唯一の使命である。
宝の山にはいって宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれ学会の尊い使命なのである。
宗教によって名誉を欲するのではない。まして新興の宗教屋のごとき金もうけを目的とするものでないことなど、いまさら申しあげるまでもない。ただ目前のご利益をのぞみ、真の大聖人の功徳を知りえないならば、まことに不覚といわなければならない。
最近にいたって、百人にもおよぶ指導員ができて、ともに同志として広宣流布に邁進できることになったのは、まことによろこばしく思っているしだいである。
以上のように、学会活動は消極的であったことは、いなまれないのである。
しかるに、日本の国はほろびている。日本の民衆は、なやみになやんでいる。学会は当然立たなければならないのである。
学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、七か年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪教の臭気を世にばらまいている。
大聖人の真の仏法を奉持して邪宗のさばるにまかせているのは、だれの罪かと私は自問した。『これは創価学会を率いる者の罪である』と自答せざるをえないのである。
また自分は、文底独一の教理を説いていると深く信じているが、教本には文上の法華経を用いている。
この二つの罪は、ご本仏の許すべからざるものである。私は大難をうけたのである。立つべき秋に立たず、つくべき位置につかず、釈迦文上の法華経をもてあそぶ者として大謗法の罪に私は問われたのである。ありがたや、死して無間地獄うたがいなき身が、御本尊の功徳はありがたく、現世に気づくことができたのである。
私は、なやみになやみとおしたのである。理事長の位置を矢島周平氏にゆずり、敢然と、なやみのなかに突入したのであった。『転重軽受法門』のありがたさ、兄弟抄の三障四魔のおことばのありがたさに、泣きぬれたのであった。兄弟抄(御書全集一〇八七㌻)の御おおせには、
『其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向かわしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ等」云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて来来の資糧とせよ』と。
以上の二つの法門を身に読ましていただいた私は、このたびは路上において、『霊山一会の大衆儼然として未だ散らず』して、私の身のなかに、永遠のすがたでましますことと、おがんだのであった。
私は歓喜にもえたのである。私は証のありしだい敢然立つことを決意したのである。
(昭和二十六年七月十日)





