凡夫と御本尊
われわれが、日々拝する大御本尊は、われわれ凡夫とは関係のない雲の上の存在であり、尊上無比の存在であると拝し、われわれ下賤の者の、つたない日常生活現象とは、およそ、かけはなれた存在であると拝することは、あやまりである。
尊上無比の大御本尊は、じつに日蓮大聖人のご当体そのものであらせられるのである。
ゆえに、御義口伝(御書全集七六〇ページ)には、
『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』と、おおせられている。
さらに、日蓮大聖人は、われわれのごときまよえる凡夫の主・師・親であらせられ、『しうし父母』であらせられるのである。かくて、日蓮大聖人の大慈大悲によって、ご建立あそばされた大御本尊を拝することが、ただちに、われわれ凡夫にとっては、したしく久遠のご本仏を拝することであり、したしく、おのれの主・師・親を拝することになるのである。
法華経の信解品では、四大声聞が窮子の譬えを引いて領解している。すなわち、
『父を捨てて佗国を放浪した窮子が、五十余年の後に、ようやく、その大長者の父に会った。しかし、父を忘れた窮子は、恐れて近づかず、父と自分とは関係のない別のものと思っている。父は種々の方便を設けて窮子を教えみちびくが、なおも窮子は放浪の心を捨てきらず、下劣の本処にあって、この父を父と悟ることができなかったが、ついに、窮子は、大長者が自分の真実の父であったことを悟りて、大いに歓喜する』という次第である。
すなわち、窮子は、せっかく自分の父である長者の家におりながら、
『爾の時に窮子此の遇を欣ぶと雖も、猶故自ら客作の賤人と謂えり』
それゆえに、二十年の間、糞はらいをしていたが、それでも、なお、
『然も其の所止は猶お本処に在り』
といって、放浪の昔を忘れずに、父と自分は、いまだに別のものと思っていた。そのうちに、長者が、『今我と汝と便ち為れ異ならず』といったが、なお、『然も其の所止は故お本処にあり。下劣の心亦未だ捨つること能わず』としていたが、最後に、父の死ぬときにいたって、ようやく自分は長者の子であることを悟るのである。
これは、御本尊が自分とは別のものだと思うのは、長い間、貧窮下賤であった窮子が、自分の父を忘れているのと同じことである。
また、これとは反対に、本尊とはまったく他所に求むべきではなくて、自分自身が本尊であり、お題目を唱えるものは、等しく地涌の菩薩であって、日蓮大聖人とも変わりがないと考えることは、重大な増上慢のきわみであり、大謗法である。
にせ日蓮宗においては、『久遠の本仏は釈迦であり、その本仏から地涌の菩薩が末法にお題目を広めよと付属されているから、末法いまのときにお題目を唱えるものは、すべて本仏の使いであり、日蓮聖人は、われわれの先頭に立たれた兄貴分であり、先輩である』ぐらいに考えていて、しかも、公然と、このような誤信を放言して、無知の大衆をまよわしているのが現状である。
このあやまりの根本は、まず久遠の本仏が釈迦であると決定するので、日蓮大聖人と、われわれ凡夫との関係が、まったく歪曲されたものとなり、したがって、大聖人を悪しく敬う結果となるのである。
法華経の文上においては釈迦が本仏であり、日蓮大聖人は上行菩薩として付属を受けられたことは、だれしもうたがう余地のないところである。しかしながら、ご内証の深秘は、日蓮大聖人こそ、われわれ末代凡夫を教えみちびかれるご本仏であられる。
かかる久遠元初の自受用身のご当体であらせられる大聖人の御肉体が、そのまま大御本尊であらせられるのである。
ゆえに、われわれは、この仏力・法力をあおいで、信心修行をはげまねばならない。
大聖人は仏界所具の人界をお示しくだされたのにたいし、われわれは、大聖人の大慈大悲に浴し、大御本尊の光明に照らし出だされて、初めて人界所具の仏界が開覚されるのである。
されば、御義口伝(御書全集七一六ぺージ)に、
『我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり』
とおおせられ、また、
『霊山の一会儼然として未だ散らず』(御義口伝七五七ページ)の文も、あるいは、また、『仏こそ凡夫に礼を申すべきなり、凡夫の体を借りまいらせ候』とおおせられたことも、すべて、この立ち場から拝さなければならない。
これを要するに、尊上無比の大御本尊の大功徳は、すベて、われわれ凡夫の一日一日の生活のなかに、ほとばしり出ているのである。われわれ凡夫は、ひたすらに、ご本仏の大慈悲心、大智慧力を信じまいらせることによってのみ、ご本仏の眷属として、即身成仏と開覚されるのである。
これ以外に、『仏』というものは絶対にない。
われわれの想像もおよばぬ色相荘厳の神様とか仏様が、雲の上や西方十万億土などに、いるはずはないのである。
と同時に、われわれ凡夫は、『仏性』を、だれしも平等に持っているが、御本尊を信じたてまつる以外に、『成仏』はありえない。
たとえ、御本尊を信じたてまつるとも、総別の二義があり、『摠別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず』(曾谷殿御返事一〇五五ページ)とのおおせがある。
ゆえに、別して、日蓮大聖人様がご本仏であらせられ、われわれ凡夫は、主従、師弟、父子のごとく、あまりにも、したしくして、しかも、あまりにも厳然たる区別のある存在なのである。
この態度は、また御遺文を拝するにあたっても同じであり、御遺文を研究して大聖人の御観心がわかったというのも、あやまりであり、また、御遺文は、われわれ凡夫の生活とは、かけはなれた、むずかしい別のものだというのも、同様に、あやまりなのである。
(昭和二十五年八月十日)


