三種の悟り ― 釈迦、日蓮大聖人、衆生 ―

 

 悟りというものは、人々によって種々の差がある。いっさいの民衆を、時代と所とに関係なく、また一時的でもなく、根本から幸福にする悟りこそ最高である。かかる悟りを仏のご境地と申しあげるのである。

 

 いっさいの仏のお悟りは、みな同じであるが、ただ、その時代の民衆を化導するにあたって、表現に種々の差があるのである。率直に結論をいうならば、いままで、東洋の民衆の指導原理の通則は釈迦の悟りの表現である。

 

 釈迦は生命の哲理を説き、生命の因果の理法をあかし、極論において、あらゆる群生類の生命の永遠を説きあかしている。この悟りの表現は、真実であって、だれ人も、うたがう余地のないものである。

 

 もし吾人の生命が、永遠でないとして、それが真実であるとするならば、何がために教育をうけ、何がために宗教を信ずるか、その理由がなくなるのである。力だけが現実の問題となって闘争、詐謀等、あらゆる悪徳が横行するにちがいない。

 

 よく、西洋流の哲学において、良心にうったえるというけれども、良心なるものは観念的存在であって、それがなんとなく表現されたことばの裏に三世にわたる生命の存在を、生命の本質が意識した反映である。

 

 ゆえに、われわれは、社会制度のいかんにかかわらず、悪いことができないということは、生命の永遠が真実の存在であることをうすうすと知っているからである。

 

 かさねて吾人は、決然として釈迦の悟りをいうならば、かれの悟りは永遠の生命を説いたところにある。

 

 吾人の生命が永遠であるとするならば、日常におこる事件というものは、わずかの瞬間的の波動である。その波動が人生の全体であるように考えて、さわいだり、泣いたりしている。ところが、人々が永遠の生命の一波動であるという自覚を持つときに、自分のさわぎや、なやみが雲散霧消するであろう。

 

 この釈迦の悟りは、時代と所とを超越して、あらゆる民衆に安慰を与えるものである。しかしながら、釈迦は三千年の間、東洋の思想の指導者として現存しているのである。しかしこの悟りは危険をともなうものである。なぜかならば、波動は一つの結果であって、波動の起こってくる原因があるのである。

 

 その原因は別に説くとして、波動が永遠の生命の瞬間であるとのみ考えることは、因果論であり、宿命論である。たえずあきらめていかなければならない。この思想が念仏や禅宗や真言宗をつくったのである。

 

 ゆえに結果からみれば、危険のほうの宗教が発達して、釈迦の本意がうしなわれたので、ここに大聖人様の四個の格言が打ちたてられたのである。すなわち念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と大声にさけばれて、釈迦の真意に立ち帰れと主張されたのである。

 

 しからば、大聖人様のお示しになった悟りは何か。われわれ凡夫には、とうてい、はかりえざるご境地であって、浅識無学の私には、とうてい、いかなるものであるか、はかりしれないけれども、秘遊の時代の民衆の純真さと、今日われわれごとき邪智謗法の充満しているときとくらべるなら、釈迦より高い、より深いお示しがなければ、このような邪智謗法は救われないということは、容易に信ずることができると思う。

 

 ことばに出して申しあげるも、おそれあれども、かすかに推知したてまつれば、釈迦の説いた永遠の生命の、その本体本源をあきらかにお示しくださったのではないだろうか。

 

 この尊いわれわれの知りえざるお悟りというものは、大御本尊のご建立によって滅後の衆生を化導利益せられているのである。

 

 大聖人のお悟りは、大聖人様のご観心であり、釈迦の教えは教相である。永遠の生命は教相であるならば、ご観心は釈迦よりも、より高い、より深いものである。しからば、われわれ末代凡夫の悟りは、大聖人様のお悟りを悟りとしなければならないのであるが、とうていおよぶことができないのである。

 

 仏教には、総別の二義があって、この立て分けを知らないときには、成仏は思いもよらないのである。ゆえに、われわれは、大聖人様を主・師・親とあおぎて、日蓮大聖人様こそ、別して末法のご本仏様とあおぎまいらせなければならない。

 

 総じていうときには、われわれのごとき凡夫であっても、大御本尊様に帰依したてまつるすがたは、『仏』そのものであるにちがいないが、わずかの信心によって、すぐ大聖人様のお悟りを、自分の胸におさめることができたなどというがごときは、増上慢のいたりである。

 

 われわれは、宗祖日蓮大聖人様直流の大御本尊様を信じたてまつる以上は、決然といわなければならない。われわれは、大聖人様の御本尊様を、主・師・親の三徳の御仏の御肉体と信じおがみまいらせ、地獄へ落ちようと、殺されようと、にくまれようと、けられようと、たたかれようと、命の絶えるまで、仏の御肉体のご存在と信じまいらせるのが、凡夫相応の終窮の悟りであると確信する。

(昭和二十五年三月十日)