生命の連続

 

 生命は永久であり、永遠の生命であるとは、人々のよく言うところであるが、この考え方には、いろいろの種類がある。

 ある人は観念的に、ただ『永遠』であると主張して、ぼんやり信じている人があるが、こんな観念論的な永遠は吾人のとらないところである。

 

 また、子孫に生命がつたわって、その子孫につたわる生命のなかに自分が生きていると考えている者があるが、これでは永遠とはいえまい。もし、子孫が断滅したならば、自分がなくなるではないか。地球がほろびたら、なくなるような生命では永久とはいえない。また、子孫と自分との関係において、現に、いま、生きているむすこのなかに、同じく活動している自分の生命があることになり、はなはだ不合理である。

 

 このような人は、自分の死後の生命をどう考えているか。子孫のからだを自分の墓場のように考える浅薄な生命観であり、永久の生命を知っているとはいえないのである。

 

 かの有名な高山樗牛先生の言うのには、『人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分は生きている』といわれたことを記憶している。樗牛先生の偉大な文学家であるだけに、私は非常になやんだものである。

 

 もし、先生のことばのごとくならば、平凡なわれわれや、イヌやネコは永久な生命といえないことになる。よって、この場合の永遠の生命に普遍妥当性がないわけである。長い間、ほんとうかウソかと、なやみつづけた結果、かれは偉大なる文学者ではあるが、死後の生命にかんしては、はなはだ浅薄な考え方であるという結論に達した。

 

 また、少しく理論的であるけれど、事実とは相違している生命論に、生物には、なにか霊魂というようなものがあり、それが永久につたわっていくのだと考えているのがある。

 これは、ちょっと聞くと真実のように思われるので、そうとうの学者や、かず多くの人々によって主張されている。しかしながら、これも仏教哲学の対象としては、ぜんぜん無価値なものである。釈迦は涅槃経のなかにおいて徹底的にこれを否定している。すなわち、この考え方は邪見であって、正しいものではないとしているのである。

 

 しからば、どんなふうにしてあらゆるものの生命が連続するのであろうか。死後の問題は、なかなか仏教哲学でも最高に属するもので、その素養のない人にたいしては、あやまりを起こすおそれがあるゆえに、これをはぶくことにし、きわめて常識論的に取り扱うから、その点は了承されたい。

 

 寿量品の自我偈には『方便現涅槃』とあり、死は一つの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない。

 

 仏法の極理は一念三千であるが、死後の生命もまた一念三千との関連において解決されていることはいうまでもない。

 

さて、開目抄に『一念三千は十界互具よりことはじまれり』とおおせられ、観心本尊抄(御書全集二四一ページ)では、十界について、次のようにのベられている。

(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は(いか)り或時は平に或時は(むさぼ)り現じ或時は()現じ或時は諂曲(てんごく)なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり(乃至)世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し』云云。

 

われわれの日常生活における心の状態を、よくよく思索するならば、瞬間瞬間に、一念一念と起きては消え、起きては消えているのが、貪りとか、よろこびとか怒りである。そして、二つの念が一時に起こることは、けっしてありえないのである。ここで少し説明を加えたいのは、前掲の本尊抄に『仏界計り現じ難し』とあるが、その仏界を現ずる縁となるものは何か。日蓮大聖人の仏法の極理は事行の一念三千であり、実践の形態は三大秘法にある。ゆえに、本門戒壇の御本尊を信仰することのみが、その縁となって即身成仏をえられるのである。ただし、この点にかんしては、別の機会にくわしくのべたいと思う。

 

 われわれの心の働きをみるに、よろこんだとしても、そのよろこびは時間がたつと消えてなくなる。そのよろこびは霊魂のようなものが、どこかへいってしまったわけではないが、心のどこかへとけこんで、どこをさがしてもないのである。

 

 しかるに、何時間か何日間かの後、また同じよろこびが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日かすぎて、そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、あとの悲しみと、りっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。

 

 同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。あるのがほんとうか、ないのがほんとうか、あるといえばないし、ないとすれば、あらわれてくる。

 

 このように、有無を論ずることができないとする考え方が、これを空観とも妙ともいうのである。この小宇宙であるわれわれの肉体から、心とか、心の働きとかいうものを思索してこれを仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。

 

 前にものべたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、よろこびと、よろこびの間に、よろこびがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんで、どこをさがしてもないのである。

 

 霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然の中にとけこんだとしても、けっして安息しているとは限らないのである。あたかも、眠りが安息であると言いきれないと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りになやんでいる人もあると同じである。

 

 この死後の大生命にとけこんだすがたは、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目に写る生活活動となってあらわれてくる。

 ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。

 

 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している。その生と生の間の時間は、人おのおの、ことなっているのであるから、この世で夫婦・親子というのも、永久の親子・夫婦ではありえない。ただ、清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を信ずるもののみが、永久の親子であり、同志である大功徳を、享受しているのである。

(昭和二十四年七月十日)