人間革命の精神

 

 小説『人間革命』における最後の項は、著者妙悟空のいわんとする結論であり、人間革命の根本である。ここでいう人間革命とは、人生の目的観を確立して自己完成することである。

 

 われわれは、生活を営んでいくうえに、何らかの人生観なり、社会観なりをもっているが、現在まで、自分がもっていた人生観・世界観・社会観に、変化を起こすことが人間革命であり、いいかえれば、今までの生き方を、根本的に変化させることである。

 

 中小目的より大目的へ、中小善より大善生活へ、現世だけの目先きの目的観より、永遠の生命観に立脚した、確固不抜の生命観の確立にある。

 

 卑近な例であるが、もっともこれの激しいのは、子どもの世界に、よくみられる。たとえば、きのう自動車のオモチャに、熱中していたかと思うと、きょうは、飛行機でなければ、絶対に承知をしない等と常に変化している。これが、一つの人間革命ににたものといえよう。また、ここにひとりの青年があって、自分のもっとも愛する女性とのしあわせな生活を目的に、喜々として、仕事に打ち込んでいたとする。それが、一度その夢がやぶられるや、徹底的に、金銭の鬼となって世のなかに対抗しようと決意する。これも、人間革命の姿といえよう。

 

 あの有名なデュマの『巌窟王』の主人公も、はじめは、純真そのものの青年であるが、無実の罪におとしいれられ、苦しい牢獄生活をあじわい、そのなかから、ばく大な財宝を手にするや、復しゅうに、一生を捧げようとする冷徹な人生観に一変する。これも、人間革命である。

 

 このように、人間革命というも、各種各様の形があって、その目的観の高低・浅深・善悪によって、幸福・不幸の結果を生活にもたらすのである。

 

 われわれが、信仰をもつということは、今までの宗教ではダメだと、決め切ったところから、宗教革命を行ない、生活改善のために、貧乏な者は裕福に、病気に悩む者は健康体にと、それぞれ、自分の宿命打開に、努力しているのである。

 

 小説『人間革命』に登場するおとら婆さんは、七年間もの長い鬼子母神信仰の生活を打破して大御本尊を信じ、わずかのうちに、健康と、安穏な生活をとりもどして、生活の革命を行なっている。とくに、苦悩のどん底にあって、世をはかなみ、人をうらんでいた婆さんが、病気の人をあわれみ、人の不運に涙するような心境に変わったということは、まさしく、人間革命をしつつある良い例であろう。

 

 しかし、金持ちになりたいとか、自分の性格を改革したいとかを目的とする宿命の打破は、相対的幸福への欲求であって、これのみでは、絶対的幸福境涯の建設、すなわち、真実の人間革命の真髄とはいいえないのである。

 

 小説『人間革命』の巌理事長が、身をもって体験した牢獄の重難のなかに、断わっても断わっても、はいってくる経典から、仏法求道の眼を開き、題目をかさね、経典ととり組んで、はげしい苦悶の末に、ついに、自らの生命が仏であり、過去久遠のむかしよりの地涌の菩薩であったことを確信して、歓喜にふるえ、(よし、僕の一生は決まったこの尊い法華経を流布して生涯を終わるのだ)との、強い決意を胸にきざみ『かれに遅るること五年にして惑わず、かれに先立つこと五年にして天命を知る』と叫んだ姿こそ、一切衆生救済を願望する真の人間革命である。

 

 裸一貫から、資本金五百万の事業を築きあげた巌さんが、世俗の執着を払い捨てて、心の底から人生に惑わず、真の天命を知った姿こそ人間革命の真髄である。これは、竜の口における大聖人のご確信にも通じ、宗教革命を叫ぶ者の真の姿である。

 

 大御本尊を信じ、大聖人の弟子として、信行にはげむ青年諸君よ、青年こそ国家を救い、民衆の良き指導者としての使命をになう者である。

 

 真に国家を憂い、民衆の幸福を願うの心ある青年であるならば、まず自らが、この高邁な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦い抜き、勝ち抜いて、勇猛精進すベきではなかろうか。

(昭和三十二年八月一日)