人生論
人というものは、生まれてきたときから、何かその人に目的があるはずである。ただ単にけだものや草木のように生まれて、何の目的も感ぜず、向上心もなく、ただ本能のままに生きるとすれば、その人は人間たる価値のない人というべきである。
しかし、人のなかには、草木のように自分の生命の尊厳を感じないような人間もいるらしい。人として、この世に生まれた以上には、自分は何のために生まれてきたのか、この根本的な問題を真剣に考えなくてはならない。
生物学的に考えると、あらゆる生物は、二つの本能のままに生きているといわれる。一つは個体保存、一つは種族保存である。しかし、それは生物学的な問題であって、人間それ自体が何のために地球上に存在するのであるか、その意義をより深く考えるべきである。
しかして、吾人は人生の真の目的は、幸福生活を営むことなりと知っているが、ここで人として民族の繁栄・幸福と、自己自身の子孫の繁栄・幸福とを考えていくべきではないか。なぜかならば、自己が所属している民族の繁栄がなかったならば、自己個人の幸福も自己の子孫の繁栄も見いだしえないのではなかろうか。
たとえば、七百年前に蒙古国から攻められた各国の歴史をみても、また最近において日本民族が一部の国々に妨害した歴史をみても(私見:戸田城聖先生の書いたものを書き換えている。【多くの戸田城聖先生のころを生きた日本人が持っている歴史観である。日本は東洋民族を救うため植民地支配していた白人国と戦ったし、今の中国(共産党)とは戦っていない。もちろん韓国は当時併合して日本であったから戦うことは無い】これを池田大作氏が書き換えているならば、まさに仏敵である。池田大作(先生)が在日朝鮮人ならば、在日朝鮮人が敗戦浅い日本で何をしたか分かっているはずであろう。(恩知らずな民族である)
戸田城聖先生著の人間革命も1972年(文庫版発行)に書き換えている。読めばわかるが、全く違うものであるから、池田大作会長が知らなかったということがありえるだろうか?それとも、その側近か?
現原田会長か?これを知らないことはないだろう、小説の最初から違っているから。
学会員には戸田城聖先生は私(池田大作)の師匠であるといいながら、その師匠が亡くなったその人の書いたものを勝手に書き換えるとは、日本人なら理解できないだろう。
1960年に北条第二代会長が出版しているものと比較したらわかる。(1965年は池田大作(先生)が会長になった後になる)そのころは、戸田城聖先生の教えで育った戸田門下生が多くいたので書き換えられなかったのであろう。こういうように様々なところで微妙に日本を貶めるように書き換えている。もうこの頃から在日朝鮮人が書き換えれるような立場にいたのか?今の現会長じゃないよな?)、その国の繁栄を共にしようとしたのではなくて、その国の侵略的精神であるがゆえに、攻めたものも攻められたものも、少しも得をしていない。
ゆえに、吾人がいわんとするところのものは、民族の幸福と民族の発展と、個人の幸福と個人の繁栄とが一致せねばならぬと主張したいのである。
過去をふりかえると、ギリシャの人々が、お互いに幸福生活を楽しんだ小説などをたびたび見る。かれらは、小さな町々において、たがいに生活の喜びにひたりあい、東洋の優雅な着物や、西欧の科学技術などを通じて、楽しみあった一世界があったではないか。これが小さなモデルケースではないか。
日本も、世界の一流民族として、人生を形づくっていく上において、日本も大いに発展せねばならぬ。また共に日本の民衆も幸福にならねばならぬ。また、同じ東洋民族たる韓国の民衆も、中国の民衆も、皆われらと共に手をつないで、幸福にならねばならぬ。インドもインドネシアもビルマの民衆も、日本民衆と同じ心であろう。
われわれの精神と同じく、かれらを幸福にしてやらねばならぬ。そのカギは、最高唯一の生命哲学を有する日蓮正宗の信心にあることはいうをまたない。
(昭和三十二年五月一日)
