信 心
ある一学会員がいる。その会員は、中流家庭の婦人である。しかし、学問があるというわけでもなく、折伏も余り強くはできない、気のやさしい人である。ただ御本尊様だけは、絶対無二なものであり、指導は学会の指導でなければならないと、絶対に信じている。
その生活は平和で、そして、彼女は、常平生こう思っているのである。私には福運がある。御本尊様にかわいがってもらっている。だから、ときには一座ぐらいしかお勤めをしなくても、夫の信心のおかげで、御本尊様が守ってくれているのであると。
ところが、ここに、大変な事件がおこった。それは、一人の息子が、年ごろのために、メランコリー(憂うつ症)になったのである。母親としての彼女は、暴風雨に突然出会ったようなものである。すこぶるあわてふためいて、毎日毎日悩みつづけ、当人の子ども以上の不幸を感じたのである。
彼女は、お勤めをしなければ、よいことがないということを知っていたので、思いつめたあげくに、彼女の心中には、いつもと違って、御本尊様がはっきりと浮かび出した。時あたかも座談会があって、彼女は、自分の悩みのために、吸い寄せられるように、進んで座談会に出た。その座談会の席上で、死んだ人の成仏したことを聞いた。彼女は、そのとき、つくづくと思った。『死んだ人でも変わるのに、生きているわが子が、題目の力で変わらないというわけがない』と。
それからは、日夜、御本尊と取っ組んだのである。それまでは、子どもに教訓したり、子どもと議論したり、または、だれかに、子どもの話し相手になってもらおうと考えたり、また、なにか子どもの好きそうなことをしてやろうと考えたりしたことを、すっかりやめてしまったのである。
そして、ひたぶるに御本尊に、わが子のことをお願いしたのであった。約二週間ほどの間に、子どもは生気を取りもどし、いそいそと学校へ通うようになった。
これは、子どもが救われたのではなくて、彼女自身が、御本尊に救ってもらったのである。
顔は輝き、生活は元通りの平和に変わった。
夫が、ある朝、彼女に向かって、『どうだ、御本尊様のご威徳は?』と、笑いながらたずねたら、『御本尊様が大好きになった』と言ってニッコリした。それからは、なにごとも御本尊様でなければならぬと、人に説くようになった。
その後、その婦人のもとに、甥がたずねてきた。仕事がないから、おじ様に頼んで、なんとか仕事を見つけてほしいというのである。彼女は夫に向かって、つぎのようにいった。
『あの人はだめですよ。人になど頼む心があっては、だめですよ。その前に、すぐ御本尊様にお願いするという心がおこらなければ』
夫が、『お前はそういってやったか』とたずねたら、夫人は、『○○夫人のことを話してやりました。
その人は、おこづかいがなくて困ってしまって、それで一生けんめい御本尊様にお願いしたら、失業していた二番目の娘が、日給二百五十円で、勤めるようになったそうです。
金を借りて歩く心など、少しもなかった。困ったと思ったとたんに、御本尊様にすがったんです。私はその心が尊いと思います』と、即座に、顔を紅潮させて答えた。
以上のような、一婦人の信心のあり方とその体験には、なにか教えられるものがあるように思う。しかも、御本尊様が大好きになったとは、おもしろい表現ではないか。
(昭和三十一年一月一日)

