天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得可きか
天晴れぬればとは、法華を識ることである。法華を識るとは、大御本尊を受持することである。また、地明かなりとは、世法を識ることである。世法を識るとは、大聖人の御場合においては、正像にもなき大地震・大彗星の出現は、地涌の菩薩の出現の先兆なりと、識ることである。
かくのごとく、大聖人は末法の御本仏であるがゆえに、天変地夭を見て、地涌の菩薩出現の先兆という世法を識られたのである。
しかし、われら凡夫は、とうてい大聖人に及ぶベくもないが、せめて自己のたずさわる事業中におこった、種々の事件を見て、その事件より、自己の生活改善の方法に、判断をくだすようであってほしいものである。ことに、経済界にある者は、特にその必要があろう。
つらつら、現在の世相を見るのに、国内には、より以上に人口が充満しているために、各人の生活苦は、必然的なものである。また失業者の激増も、当然なことであり、同職業の競争も、日一日と、熾烈なものとなるのである。ここに、不景気の招来は、当然なこととなって、みなみな事業の経営に悩むことになるに当たって、われら御本尊を受持する者は、その不景気を嘆くだけであってはならない。偉大な生命力を発揮して、さてどうしたら良いかと考え、かつまた苦心をなして、この苦しい経済界を切り抜けるならば、これこそ地明らかなりとも、世法を識るともいうべきであろう。
よく、御本尊を受持しているから、商売の方法などは、考えなくとも、努力しなくとも、必ずご利益があるんだという、安易な考え方をする者がいるが、これ大いなる誤りであって、大きな謗法と断ずべきである。
なぜかならば、法華を識る者は世法を得べきかのおおせである。すなわち、御本尊を受持したものは、自分の生活を、どう改善し、自分の商売を、どう発展させたら良いかが、わかるベきだとのおおせである。
それを、わかろうともせず、研究もせず、苦心もしない。されば、その人の生活上の世法を識らないがために、自分の商売が悪くなっていくのを、御本尊に功徳がないように考えたり、世間に考えさせたりするのは、謗法と断ずる以外には無い。
世法を得ベきかというおことばを、ご利益があるんだというような読み方は、断じて間違いであることを、知らなくてはならない。信仰を始めて、一、二年の者ならいざ知らず、三年も四年もしておって、自分の商売の欠点とか、改善とかに気のつかぬ者は、大いに反省すべきであろう。されば、自分の商売に対して、絶えざる研究と、努力とが必要である。
吾人の願いとしては、会員諸君は、一日も早く、自分の事業のなかに、『世法を識る』ことができて、安定した生活をしていただきたいということである。これは、吾人一人の願いではなくて、もったいなくも、大御本尊の御意であろうと信ずる。もし、諸君が世法を識ることができて、安らかな生活をなしえたならば、大聖人様におかれては、いかばかりお喜びであろうか。諸君よ、よろしく信心を強盛にして、一日も早く、大聖人の御意にかなわんことを。
(昭和三十年八月一日)

