受持即観心を論ず
『受持即観心』ということは、仏法上の重大なる存在として、観心本尊抄において、深く説かれている。
もともと、観心とは、己心を観じて十法界をみる、ということで、これを天台流に読むときは、己心の十法界を観見することである。すなわち、自分が自分の心の状態を、いまは苦しい、いまは喜んでいる、いまは平和であるというように、客観的に観察して、そこに、一つの悟りを開くのであって、天台時代のごく上流の人の修行の仕方である。
天台大師の兄が病気になったときに、『頭に熟蘇味をのせたとする。これが、だんだんと、足までみちてゆき、やがて、室中に満ち満ちると観ぜよ』との大師のことばによって、その通り観念観法して、病を直したというようなことは、この例である。
現代においても、われわれの人間界に十界があるとか、宇宙観が己心に住するとかいうような、理論的問題を説いていると考えているが、それは、観念論者の意見であって、天台の偉大な哲学に圧倒された考え方である。
現在、末法の人々にあっては、前記のごとき天台の観念観法によって、幸福境涯を受得することは、とうてい、なしえない。
文底よりこれを読めば、己心を観ずるというのは、御本尊を信ずることであり、十法界をみるというのは、妙法を唱えることである。そのゆえは、御本尊を信じて妙法を唱えるときには、御本尊の十法界が、すなわち己心の十法界となるからである。すなわち、信じ、受持することによって、御本尊の因行果徳を譲り与えられて、歓喜の境涯に住することができるのである。ここに、末法御本仏としての、日蓮大聖人ご出世の深意があるのである。
吾人をもって会通を加えしむれば『受持即観心』の観心とは、絶対なりと信ずることである。
たとえれば、ここに四つか五つの子どもがいる。この子どもは、母親を絶対と信じているゆえに、母親のいうこと、なすことが、その子どもにとっては、絶対の信頼である。母親を受持して、母親のなすままに行なう、これすなわち、受持即観心である。母親が盗みをすれば、その子も盗むようになり、しかも、その子は、決して悪いことをしているとは思っていない。これは、母親即観心であるからである。
また、詐欺の夫をもつ妻は、夫を絶対と信ずるゆえに、おのれも、また、同じく詐欺の手伝いをする。夫を信ずるがゆえに、妻は、夫が悪事をしているとは思わない。これは、夫を受持して信ずる状態である。これ、受持即観心ではないか。もし、夫が詐欺であることを疑い、憎むならば、夫の考え方に信頼がおけず、夫とは別の心がまえをもつから、受持即観心とはなりえないのである。
また、主人が金をもうけようとして、いろいろの方法をとるうちに、人をだまして金をもうけようとしたとき、その支配人が、これを不正であると考えたならば、そのまま主人のいうことを聞かないであろう。そうなると、主人を受持しないことになるから、観心とはいいえない。
また、ある師匠があって、自分は偉い先生であるとホラをふいてみても、聞く方の弟子が、それを真実に信じられないならば、弟子の観心は成り立たないのである。
以上述べたように『受持即観心』とは、対境を絶対であると信ずることであるから、信ずる対境によって、その受得する悟りは区々である。前例のごとく、盗みをする母親を対境として信ずれば、子どもの悟りは『盗み』であり、詐欺の妻は、詐欺していくことそれ自体が、人生観であり宇宙観となるのである。
ゆえに『受持即観心』していくものは、何を信じたら、ほんとうの幸福を得られるかということが、大事な問題になってくる。
本因妙の仏法においては、九界の衆生、すなわち仏の三徳を、家来として、また弟子として信ずる衆生の心を大事にするのであるから、子である、弟子であると叫号して威張れるような、絶対権威ある仏法でなければならない。
されば、日寛上人は観心本尊抄文段において、能開所開を論じて、文底下種の本地難思境智の妙法たる大御本尊こそ、釈尊の因行果徳の万法をことごとく具足する、大権威ある仏法であると結論あそばされているのである。
観心本尊抄(御書全集二四五ページ)に、
『此の方等経(大御本尊)は是れ諸仏の眼なり(師の徳)諸仏是に因って五眼を具することを得・仏の三種の身は方等(妙法五字)従り生ず(親の徳)是れ大法印にして(主の徳)涅槃海に印す此くの如き海中能く三種の仏の清浄身を生ず此の三種の身は人天の福田なり』等云云と、
御本尊こそ、主師親の三徳であり、三世諸仏を出生する種であることを、お示しあそばされ、さらに同じく
観心本尊抄(御書全集二四六ぺージ)にいわく、
『我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』と、
おおせあそばされている。
この御文中に、四種の力用を明かされているのであって、我等受持というのは、すなわち信力・行力である。
この五字とは法力であり、自然にゆずり与え給うとのおおせは仏力である。ゆえに、末法のわれらが、御本尊を唯一絶対なりと信心、口唱することによって、妙法の法力・仏力、厳然と現われて、最高の幸福境涯を受得することができるのである。
(昭和三十年六月一日)

