指導者

 

 学会は指導主義である。指導と教授とは違う。教授とは教えることであり、指導とは導くことである。

 

 創価学会は、最初から、御本尊を信ずることに導くのである。したがって、御本尊を教えることは、第二次的なのである。しこうして、信じた後には、信心のあり方を進んで指導するのである。また、信仰即生活であることを指導して幸福へと導くのであって、指導者は、一日も早く会員一同が、幸福であらんことを願うべきである。

 

 人生は険難であり、その行路は多難である。なかなか、普通の生命力では押しきってはいけない。ゆえに、大指導者として、偉大なる御本尊の功徳を受けさせ、強き生命力を得させるように指導するのである。されば、学会の指導者は、大御本尊のお姿を心の奥に刻みつけて、一般民衆の指導に当たらなくてはならない。

 

法華経の化城諭品にいわく、

『譬えば、五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて、人無き怖畏の処あらん。若し多くの衆有って、此の道を過ぎて珍宝の処に至らんと欲せんに、一りの導師有り、聡慧明達にして、善く険道の通塞の相を知れり。衆人を将導して、此の難を過ぎんと欲す。所将の人衆、中路に懈退して、導師に白して言さく、我等疲極して復怖畏す、復進むこと能わじ、前路猶遠し、今退き還らんと欲すと。導師諸の方便多くして、是の念を作さく、此等愍むべし。云何ぞ大珍宝を捨てて、退き還らんと欲する。是の念を作し已って、方便力を以って、険道の中に於いて三百由旬を過ぎ、一城を化作し、衆人に告げて言わく、汝等怖るること勿れ。退き還ること得ること莫れ。今此の大城、中に於いて止って意の所作に随うべし。若し是の城に入りなば、快く安穏なることを得ん。若し能く前んで宝所に到らば亦去ることを得べし』と。

 

 この文は、二乗をして、仏になさしめんと導くの文であるが、文底三段のこころにしたがって、末法正宗分の流通分と読むならば、われわれ凡夫が、人生行路の多難にあえいでいるのを、大御本尊がお救いくださるお姿である。

 されば、われわれ学会の指導者は、この文のなかに、大御本尊のご慈悲と、功徳を大きく感じなくてはならない。この慈悲と、功徳を感ずるならば、いかにして大衆を指導し、いかにして大衆を幸福ならしめるかが、よくわかるであろう。

 

 しかるに、指導する位置というものは、一般よりも、より高き位置にあるように考えられる。事実また、そうであらねばならぬことである。しこうして、学会の指導者は、なにをもって一般よりも高しとしうるのであろうか。

 

 いうまでもなく信心の力である。その人自身の持っている才能、財力、社会的位置等ではない。ただただ信仰の道においてのみであることを深く自覚しなければならぬ。されば、大御本尊のこと以外においては、けんそんであって、決して傲慢な姿であってはならない。また、上長の位置を誇ることなく、なにごとも命令的であってはならぬ。指導である以上、相手に納得のいくようにしてやらなくてはならぬ。そうして、御本尊の尊さ、功徳の偉大さを十分に納得させねばならぬ。

 

 要するに、御本尊を信ずる力と、慈悲とに満ちて、友として指導するものこそ、指導者の自覚を得たものというべきではないか。

 

(昭和三十年三月一日)