書を読むの心がまえ
『眼光紙背に徹す』ということばがあるが、古人も、読書の心がまえにおいては、種々に警告を発している。
相当の哲人、文士、評論家等の、世の指導階級が著わされた書物を読むに当たって、その人が何をいわんとし、何を説かんとしているかを、正確につかむことが大事である。
もし、正確につかみえたとすれば、ほとんど、その人に近きものといいうるであろう。それでこそ、読書のかいがあったというものである。
しかるに、なかなか、その人々の所説を知ることは、容易なことではない。されば、一人の人の思想をとらえんとするには、精読が、肝心である。乱読するときにおいては、うわすベりの学問はできても、深い思想点に達することはできない。ある一人の人の思想点に達することができれば、それから徐々に、他の人々の思想の表現を読んでも、それをつかむことができるようになる。そのときには、必ず、同等性と差別性に気をつけなければならない。この考え方で読書するならば、その人々の思想を正しく認識することができるであろう。
ただ慎しむベきは、一人の人の思想に止まってしまったとき、それ以上のものを、受け入れられない感情が生ずることが多い。これは、もっとも恐るべきことで、とくに、青年の注意すべきことである。
また、相当の哲学者、文士、評論家等の人々が、その思想を表現するに当たっては、長い間の研さんがなされていることに、留意しなければならない。だから、自分の学力が、はなはだかけ離れている場合には、その意図の何分の一、あるいは何十分の一をもつかむことができない。この点に留意して、謙遜なる気持ちをもって読書しなければならぬ。
一度読んだぐらいで、もう、その人の所説が、ことごとく、わがものになったとは、いいきれないのである。とはいえ、また、それを読まねば、その人の領域までいくことができない。山へ登るのに、一歩一歩と登り、頂上に至って全体を見下ろすがごとく、読書も、その立ち場をたどるのである。
まえに、思想の比較研究ということを述べたが、低い思想の人から、高い思想の人へと比較研究して学問するのが、当然のように思っているものが多いが、それは大きな誤りであり、また、もっとも時間の不経済なことである。しからば、いかになすべきか。
吾人は、これに答えてかくいう、『もっとも高き思想のものに、最初から深く入れ』と。
ここに指導者の必要があるのである。いかなる思想の人がもっとも高きかを、教えうる人が必要となってくるのである。
政治、経済、文学等々、それらは、いまだ比較研究の時代であるから、いずれを最高ともいいえない。この分野では、相当の比較研究ののちに、自己が判定を与えねばならぬと思う。科学にしても、大学時代の勉強なら順序を追って研究せねばならぬが、それ以上になったならば、やはり同じ立ち場であろうと信ずる。
これらの学問は、いずれも、帰納法の学問の領域を出ないのであるから、前にいった通りであるが、宗教の問題となれば、演繹法の生命哲学であるから、絶対に最高の哲理を最もはじめに研究しなくてはならない。しかも、この最高の宗教哲理は、演繹であるがゆえに、帰納法的学問はこれを目標としていることを考えるとき、なおさら当然のように思う。
吾人が常に叫んでいるところの、日蓮大聖人の哲学が宗教の最高峰であるがゆえに、これを窮めつくすことは、一切の学問の根底をつかむこととなるのである。
(昭和三十年二月一日)

