御書の拝読について

 

 日寛上人の御抄を拝見するのに、それが、三重秘伝抄にせよ、文底秘沈抄にせよ、末法相応抄にせよ、当流行事抄にせよ、観心本尊抄の文段にせよ、みな五重の相対を明らかにし、久遠元初の自受用身即日蓮大聖人なることを明かそうとしていられる。天台と、蓮祖聖人との仏教観の相違を明らかにし、種熟脱も強く論ぜられ、末法適時の仏法は、蓮祖聖人の仏法であらねばならぬと強調せられている。

 

 ゆえに、一品二半を論ずるにあたっては、天台は略開近顕遠と動執生疑を、一品二半のなかにいれていられるのに、大聖人は略開近顕遠を除いて、動執生疑からの一品二半をお説きになっていられることを、強く説明せられ、かつ第三の法門についても、天台の第一第二を当門の第一とせられ、天台の第三法門を第二と呼び、蓮祖大聖人が新しくお唱え遊ばされた下種の第三法門を、強く主張せられている。

 

 これは、大聖人の御書を大観するときに、このように配列せられているゆえであって、日寛上人ほど正しく精密に、しかも忠実に、大聖人の御書をお読みになった方は、いないのである。このゆえに、未来の末弟にこの文をとどめるとか、広宣流布の日のために、これを書きおくとの御文書が、諸所に拝読せられるのである。

 

 いま広宣流布はなはだ近きにありと、吾人は断ずるのであるが、この時にあたって、われわれが御書を拝読するには、いかようにして、拝読すベきであろうか。その拝読の指導を、日寛上人の読み方に受けなければならないと思う。また御書を教うるものも、その心がまえをもって指導すべきであろう。

 

 初代の会長も、常に口グセのごとくおおせられたのは教授主義ではなく、指導主義であった。われらは初代会長の指導主義を遵奉し、日寛上人の御書拝読の法に指導をうけ、後進に対しても、またまた、そのごとく指導しなければならぬ。

 

 御書をあらためて見なおしてみよ! お若きときの御書には、天台の学説を強く用いられているのもある。これは、権実相対をもって、お説き遊ばされているのである。ある御書には、内外、大小、権実、本迹、種脱相対を、完全におしたためあり、ある御書には、権実、本迹だけのものもあり、また、ある御書には、大小、権実、種脱とあるものもあり、ある御書には、久遠元初の自受用身即日蓮大聖人とお説きになっているのもあり、また第一、第二、第三の教相をもって説かれ、また種熟脱をもって説かれ、また下種仏法の根底たる三大秘法を説かれているものもある。

 

 三大秘法においても、三種ともにこれを説かれているもの、題目のみを説かれているもの、題目と本尊を説かれたもの等々がある。また五重の相対を能化の釈尊を用いて、これをまた六種に説かれている場合もある。すなわち蔵通別の釈尊、文上本迹二門の釈尊、文底下種の釈尊と分けて説かれていることに、気をつけねばならぬ。

 

 この御書は、いかなることを大聖人が説かれているかということを、たえず、以上にのべた分類に注意して拝読しなければ、無意味のものとなる。

 しこうして、以上は、教学的立ち場に立った場合であるが、いずれも信の一字をもって、一切をつらぬいていることを、知らなくてはならない。かつまた、民衆救済の大確信と、燃ゆるがごとき大聖人の情熟が、その根底をなしていることを、読みとらなくては、また無意味になることを知らなくてはならない。

 

 われら凡愚といえども、絶対なる大聖人の確信と情熱とにふるるとき、信心の火が、いやがうえにも、燃えあがるのを、感ぜざるをえないのである。

(昭和三十年一月一日)