青年よ国士たれ
われらは、宗教の浅深・善悪・邪正をどこまでも研究する。文献により、あるいは実態の調査により、日一日も怠ることはない。いかなる宗教が正しく、いかなる宗教が邪まであるか、またいかなる宗教が最高であり、いかなる宗教が低級であるかを、哲学的に討究する。またいかなる宗教が人を救い、いかなる宗教が単なる観念的なものであり、いかなる宗教が人を不幸にするかと、その実態を科学的に調査している。
しこうしてその要をえて、日蓮正宗こそ真実であり、最高の宗教であることを知った。かかるときにおちいりやすき考えは、われらは宗教家であるとの錯覚である。われらは決して宗教家であってはならぬ。しからば、われらはいかなる見識を持つべきものか。
吾人は叫ぶ、『諸君よ! 諸君らは吾人と共に、日蓮正宗のよき信者であり、後世に誇るべき国士であるとの見識の上に立て』と。
そもそも、吾人らが正しき宗教を求めたゆえんのものは、この地上の不幸がその原因である。
諸君よ、目を世界に転じたまえ。世界の列強国も、弱小国も、共に平和を望みながら、絶えず戦争の脅威におびやかされているではないか。一転して目を国内に向けよ。政治の貧困・経済の不安定・自然力の脅威、この国に、いずこに安処なるところがあるであろうか。『国に華洛の土地なし』とは、この日本の国のことである。隣人を見よ! 道行く人を見よ! 貧乏と病気とに悩んでいるではないか。物価は高くして、絶えず生計の不足を嘆く者、住むに家なくして心うつうつとして楽しまざる者、事業不振におののく者、破産にひんしてとまどう者、数えあげれば数限りがない。また肺病と宣言せられて、生きる心地なき者、小児マヒの子を持ちて、いずこに訴えるすべなき者、背むし、盲、つんぽ、胃癌等々、どうしようもなく、神も仏もなきかとつぶやく者のみである。
『不幸』よ! 汝はいずこよりきたり、いずこへ去らんとするか。
目をあげて見るに、いま、国を憂い、大衆を憂うる者はわが国人に幾人ぞ。国に人なきか、はたまた利己の人のみ充満せるか。これを憂うて、吾人は叫ばざるをえない、日蓮大聖人の大獅子吼を!
『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』(開目抄二三二ぺージ)
この大獅子吼は、われ三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救いいださんとのご決意であられる。われらは、この大獅子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ。
青年よ、一人立て!
二人は必ず立たん、
三人はまた続くであろう。
かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである。
青年は国の柱である。柱が腐っては国は保たない。諸君は重大な責任を感じなくてはならぬ。
青年は日本の眼目である。批判力猛しければなり。眼目破れてはいかにせん。国のゆくてを失なうではないか。諸君は重大な使命を感じなくてはならぬ。
青年は日本の大船である。大船なればこそ民衆は安心して青年をたよるのである。諸君らは重大な民衆の依頼を忘れてはならぬ。
諸君よ! 良き日蓮正宗の信者として、強き生命力を養い、誉れある国士として、後世に名を残すべきである。
(昭和二十九年十月一日)

