中道論
信仰人の態度は、中道でなければならぬ。
折伏すれば功徳があると。これはもちろんのことである。特に願いがある人々は、折伏は大事なことである。
しかし、自分の商売もほおって、折伏にかけまわり、金がもうからぬと嘆く者がいるが、これは、バカなことだ。
商売は商売として、しっかりやって、余暇を利用して折伏に励めということである。それを、折伏と聞いては、商売をそっちのけにして、折伏、折伏とでかけて歩くことは、片寄っているというものである。商売道は商売道として、くふう考慮してこそ、もうかるものであって、そのくふう考慮に、根本的な力を与えるのが信仰なのである。損を小さくし、利益を多くするのは、信仰の妙理である。また信仰の力であるのだ。
かまのなかに、米と水とをいれて、御本尊にそなえ、どんなに題目を唱えても飯にはならぬ。これを火にかけて、題目を唱えつつ、よきご飯ができるようにと念ずるならば、自然のうちに火加減と、水加減を会得して、よきご飯ができるのだ。このような理合いで、折伏せよというのである。
さて、商売を熱心にしなけりゃならぬと言うと、折伏等を忘れてしまって、商売ばかり無我夢中になる。それでいて、あまりもうかりもせず、場合によっては損をする。このようなのは、また、片寄ったという以外にはない。
中道は、信仰人の態度である。折伏にも片寄らず、商売道にも片寄らず、中道法相をもって、おきてとせよ。
昔、釈迦の成道したころの話であるが、鹿野苑において、五人の弟子が断食の修行をしておった。釈迦は、五人の弟子の前に現われて教えたのであった。二人は乞食行をせよ、三人は思索せよと。次の日は、三人が乞食せよ、二人は思索するのであると。すなわち、断食ということは、片寄ったことである。であるがゆえに、乞食をせしめて断食をやめさせたのである。全部に乞食させないゆえんは腹いっぱい食って思索できなくなることを恐れたからである。断食をすることも片寄っていれば、腹いっぱい食うことも片寄っているのである。この教えは、阿含部の教えであるが、あの小乗の教えの中にも、妙法蓮華経の境涯より振りかえってみれば、中道法相が説かれているのである。このように読むということは、絶待妙の立ち場において読むということである。
ゆえに、病人であっても、医者にかかって、直る病気は、医者にかかるベきである。それを、折伏で直すなどというのは、片寄ったものと言わねばならぬ。こう聞くと、今度は信心も折伏もやめて、ひたぶるに医者にばかりたよるということは、また片寄った仕方である。中道法相とは言いかねる。
医者にかかって直る病気でも、こじらす場合もあれば、長びく場合もある。しかるに、正しい信仰の上に立っている場合には、それがないのである。
たとえ、へたな医者にかかっても、その医者は、不思議にも病気を正しく見立て、それにふさわしい投薬をするので、奇妙に直りが早いというようなことが起こるのが、信仰の妙理なのである。ただし、医者で直らぬ病気は、ただただ強く信仰する以外にはないことを付記しておく。
(昭和二十九年六月一日)

