折伏について

 

 孔子のいわく『己の欲せざるところを人にほどこす事なかれ』

 この言は、外道の論議といえども、相当に味わうベき言葉である。われわれ人性の常として、自分の好むものを、人にすすめほどこすものである。

 

 相手の者が、その人と同一の好みの場合には、非常に喜ぶであろうが、反対の場合は、非常に迷惑をする。

 

 たとえば、酒を好む人が、客に酒を強いたとする。客が酒好きであれば、非常に喜ぶが、甘党であったとしたら、非常な迷惑である。旅行好きな者が、旅行ぎらいなものを誘うと、これまた非常な迷惑を感ずる。酒党の者に、甘いものを好きな者が、お菓子やお茶をすすめたとしたら、これまた大困りではあるまいか。

 徳川時代の小話に、貧乏人が馬をもらったということがある。江戸に住んでいて、貧乏人が馬を飼うということは、大変な事件である。

 

 自分の好むものを、他人にほどこすということは、種々なる弊害はあるが、自分の欲しないものを、人にほどこさないということは、他人に迷惑を及ぼさないという点で、すこぶる用心すぎた考えである。しかし、すこぶる小心な、消極的な感じがする。人生というものに、覇気というものを認められない。小心よくよくとして、月給取りで終わろうとするような、宮仕えする人たちの気持ちが、巧みに表わされていると思われるではないか。

 

 しからば、おのれの欲するところを人にほどこせというのか。否々、吾人の主張するところのものは、他人の利益になるものをほどこせ、というのである。その人へ価値をほどこせというのである。

 

 吾人に、孔子のごとく言わしめれば、『他を利するものを、なんじはほどこせ』と叫ぶのである。

 

 健康になる食物もよかろう。命を助ける米もよかろう。野菜も、味噌も、またしかなり、ましてや金においておや。

 こういう行為を、仏法では布施行というのである。天理教のように、自分の方へ取りあげるのが布施行ではなくて、一般にほどこすのを、真の布施行というのである。

 

 さて、この物の布施行というのについて、深く考察するならば、今釈迦滅後三千年の今日においては、釈迦仏法の効力まったく地におちて、濁悪のものが世に充満している。

 布施行において生ずるものは、怠惰と依頼心のみである。かつまた、物の布施には限りがあって、全体に平等にいきわたるものでない。早いもの勝ちというのが、世の当然ではないか。

 

 布施には、物の布施以外に、法の布施というのがある。末法今日における法の布施とは、三大秘法の大御本尊を布施することである。この三大秘法の本尊を受けて、強盛に信心するならば、経文において明らかなごとく、新しく強き生命力を得て、事業に、健康に、生き生きとした生活が始まってくる。その強き生活力より生まれ出るところの、金にしろ、米にしろ、健康にしろ、それは地から湧出するところの水のようなものであって、絶ゆることがない。一回限りの功徳であり、限りある、物の布施にくらべれば、荘厳なる布施ではないか。

 

(昭和二十九年二月二十八日)