異体同心

 

 異体同心ということを、よくあやまって用いている。同じ宗門であるから、きみの心と自分の心とは同じだ。

 心のどんな状態が同じなのであろうか。

 

 そこまで吟味をしないで、ばく然と、からだは違うが、心は同じであると、だから仲良くしなければならないのだ、などとずいぶん浅薄な観察ではなかろうか。

 

 なかには、異体同心だから金をかせ、商売の手伝いをせよなどと、世法のなかにもちこんで、わが身に都合のよいように用いる者もいる。

    

 異体同心の『心』は観心の心であり、信心の心である。からだは異なっても、信心が同じであり、観心が同じであることを意味するのである。当門において、観心とは受持即観心といって、弘安二年十月十二日の、一閻浮提総与の大曼茶羅を、余行をまじえず、ひたぶるに信心し奉ることである。

 

 このように、各自が同一の信心をもっているがゆえに、異体同心というのである。

 

 このように、信心が同じであるがゆえに、互いにそねむことなく憎むことなく、相和して御本尊に仕えまつる。この精神を、和合僧の精神というのである。

 

 いたずらに、この言葉を、世法のことに、用うベきでない。ただ、互いの信心を励ます言葉として、これを用うべきである。

 

 このように、同一の本尊を信ずる、異体同心の輩は、たとえていえば、兄弟のようなものであると、考えることができる。ゆえに互いに信じ、互いを愛し、協力するということは当然のことである。

 

 学会においては、信者同士の金銭貸借を禁じているが、それは何のためであるかといえば、金銭の貸借によって、返さない者をうらみ、さいそくされたことを憎むことによって、和合僧の精神を破るゆえに、禁じているのである。

 

 もし、金を貸さんとする者あらば、返さなくてもよいという精神で貸すならば、貸してもさしつかえないのである。また、借りた者も、その金が有用につかわれ、かつ感謝に満ちているなら、借りてもよい。ただし、絶対に返すという心を、忘れてはならない。仕事の協力においても、同じである。

 

(昭和二十八年十二月十日)