(三)

 

 宗教哲学の研究は、釈迦の時代に始まる。釈迦の研究の最高峰は、法華経である。法華経においては、ごく簡単にこれをいうならば、宇宙に仏という境涯の実在があり、われわれにおいても仏になりうると断定し、仏の境涯をさとりえたる人格の出現は、いっさいを仏にせしめんとするにある。しこうして、この仏の生命は永遠であり、したがって、これを信ずる者の生命も永遠であるとし、その永遠の生命を感得した者が仏である。しこうして、仏という生命を感得すれば、人生最高の幸福生活をなしうるのである。

 

 その仏の生命を感得する方法は、ただ法華経を信ずることによってのみえられると、断定しているのである。すなわち、法華経哲学の実践行動は、ただ法華経を信ずるのにあった。

 

 つぎに、天台大師は、さらに法華経哲学に研究の歩を進めて、摩訶止観において、理の一念三千の法門を完成したのである。この理の一念三千の法門は、仏の境涯であって、この仏の境涯を感得するためには、観念観法によったのである。すなわち、理の一念三千の実践行動は、観念観法であった。この理の一念三千の法門は、宇宙生命の実体であり、仏の実相である。

 

 さて釈迦にしろ、天台にしろ、理論体系の完成であって、ごく智慧のある者のみが、仏智をうることができたのであって、過去数十億年において、善根をつんだ者のみが、完成されたのであった。しかるに、釈迦が大集経において予言したごとく、釈迦滅後二千年後においては、釈迦の法華経も、天台の理の一念三千も、その功能を及ぼさない。いかんとなれば、釈迦滅後二千年後の末法の衆生は、本未有善の衆生といって、釈迦の仏法にも、他の仏にも縁を結ばない、荒凡夫の衆生である。

 

 ここにおいて、末法の本仏たる日蓮大聖人、凡夫のお姿として末法に出現して、一切経の哲理をジッと見つめられたのである。しこうして、久遠元初の自受用身であり、上行菩薩の再誕であることを自得し遊ばすや、ここに、一切衆生を幸福に導いていく本尊を、出現せしめたのである。この御本尊は、釈迦にとっては法華経の立ち場になり、天台では理の一念三千になるのである。されば、日蓮大聖人の法華経ともいい、事の一念三千とも申しあげるのである。

 

 この御本尊は、仏法の最高理論を機械化したものと理解してよろしい。たとえば、電気の理論によって、電灯ができたと同じと考えてよろしい。仏教の最高哲学を機械化した御本尊は、何に役立つかといえば、人類を幸福にする手段なのである。されば日蓮大聖人の最高哲学の実践行動は、この御本尊を信じて、南無妙法蓮華経を唱えるにあって、この実践行動によって、人類は幸福になりうるのである。

 

(昭和二十八年九月十日)