(二)
科学と相反せず、しかも科学的にして、実験証明のともなう、論理的な宗教が世界にただ一つある。最高にして純粋なものだ。
その宗教の哲学の対象は何かというに、生命である。人間の生命・あらゆる物の生命・社会及び国土の生命・否進んでは大宇宙生命を研究対象としているのである。
しこうして、その宗教は、大部分、人間の生命に、研究の度を置いているがゆえに、いかにせば、われわれは、幸福な生活を送りうるであろうかという点に重きをおくことは、科学と同様である。
科学が、純粋の真理を求めつつ、しかも、討究してえられた定理が、人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、この宗教も、純粋なる生命哲理を、最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は、人間の幸福生活への実践として行動化されているのである。たとえば、原子核の分裂ということは、今の科学においては最高のものであるが、この原子分裂の定理は、単なる学問としてとどまるものにあらずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。
同様に、この宗教の最高無上の定理は、定理としてとどまることなく、各人の幸福、社会の幸福を築かんがために、御本尊として行動化されている。すなわち、この御本尊を信じ、この本尊に向かって南無するときに、各人の希望はかなえられ、旺盛なる生命力は培かわれて、ここに平和な社会が建設されるのである。
かくいうならば、宗教に知識を持たぬ人は、非常に不思議がることであろう。しかし、何の不思議のないことは、科学における原子論について論じてみたら、すぐ了解することと思う。それは、ただそのことについて、知識を持っているか、いないかの差によって、これを疑い、これを信ずるということが、はっきりするであろう。
窒素の原子核に、二個の中性子と、二個の陽子を入れるときには、重酸素に変化するというようなことは、科学を知らぬ者には、窒素が酸素に化けたと思う以外になく、これはウソだというに違いない。本尊についても、知識のない者は、同様のことを主張するであろう。この宗教と、この本尊については、次号において詳述する。
(昭和二十八年七月十日)

