科学と宗教
(一)
あらゆる学問は、宇宙の森羅万象を対象として研究せられる。しかして、その現象は分類せられている。各系統によって分類せられるゆえに、科学を分科せられていることは、当然のことである。法律、経済、社会学等は社会現象を研究し、物理、化学、数学等は物質方面の科学であり、心理学、倫理学、哲学等は人間の心の働きを対象とする。医学、生理学は人体を対象として研究せられている。その他、あらゆる分科ありといえども、その分科間に、なんらの闘争も、軽蔑もありようなく、互いに尊敬し、互いに連絡し合うのが常である。
しかるに、宗教と科学との関係においては、互いに対立し、絶対に相容れないように思われているのが、現代の常識である。神の世界、仏の世界、それらは、科学者の望み得ない世界とし、わからないものだとしている。
また科学の世界は、宗教と没交渉の世界で、科学の研究せられた結果や、その研究態度は、宗教界には用いられないものとなっている。これはほんとうの事実であろうか。
以上のような、宗教と科学の関係を正しいとしている宗教は、真実の宗教ではないのである。たとえば、処女が子どもを生んだり、死んでから、うろうろと歩いたりしている、キリスト教のごときは、基本が誤りであるから、科学的に説明のできないのも、当然のことである。されば、その宗教を正しいとするためには、科学を軽蔑し、科学と対立することになる。また、死んでから十万億土の西方浄土へ生まれるなんていうことは、釈迦の一時的仮説であって、証明も説明もなし得ないことであるから、科学とは妥協できないのは、いうまでもない。
真実の宗教は、その研究態度が科学的であり、その研究の結果は、論理的に体系づけられ、かつ科学的な実験証明がなされねばならぬ。しかして、その定理、方程式とも称せられるものは、普遍妥当性を持たねばならぬ。
その体系づけられた定理は、何に役立ち、何を研究対象としているかは、はっきりと明示されていなければならぬ。しかも、その定理は、時間と空間に支配されてはならない。日本で役立っているが、インドではだめだとか、百年前にはよかったが、百年後では役に立たなくなるというものではならない。
しからば、かかる条件に適合する宗教が、世界に存在するか。
(昭和二十八年五月二十日)
