利益論

 

『道理証文よりも現証にはすぎず』(三三蔵祈雨事一四六八ぺージ)と。現証とは証拠である。日蓮正宗が、いかに正しく最高であると説くといえども、これを信ずる民衆に利益がなかったならば、だれが信じようぞ。

 

 初信の功徳というは、大御本尊様に偉大な力あることを示された証拠であって、この証拠があればこそ、絶対唯一の宗教であると、誇りうるのである。しかし、初信の人々の信心の至って現われた功徳では、いまだ断じえない。その初信の功徳ぐらいで十分と思うのは、大なる誤りである。三年と、五年と、あるいは十年、二十年と、水のごとき信心を、型のごとく行ずるならば、思いもしなかった、願いもしない、驚くような功徳が現われるのである。この功徳は、なんのために現われるかというに、その人が成仏する証拠なのである。

 

 ここに、三個所の畑があったとする。第一の畑には、なにも植えておらない。第二の畑には菜っ葉のようなものが植えてあり、第三の畑には一粒の種を植えてあるが、その一粒の種は十万円もし、もし、ていていとそびえる木になるならば、一個十万円の木の実が百もなるとすれば、近所のある子どもが、第一の畑を荒らしても、大した文句はいう人もあるまい。第二の畑を荒らしたとするならば、少々の文句はいうが、さほどの叱り方ではあるまいが、第三の畑に、ちょっとでも踏みこんだり、いたずらをしたりすれば、命がけになって怒り出し、この畑を防ぐにちがいない。

 

 大御本尊様を信じないものは、第一の畑のようなものであり、大御本尊様を頂戴しても、信力薄く、ただ家へまつってあるていどであったり、また邪法の神と同居させたり、折伏しなかったりするものは、第二の畑と同じである。大御本尊様を頂戴し、信力強く仏説のごとく行ずるものは、第三の畑である。

 

 さて、だれが、この畑を守ることになるか、だれがこの畑と同じき人を守るか、それは三世にわたる法華守護の諸天善神が、懸命の力をふるって、この人を守護するのである。絶対に食えない思いや、寒い思いをさせるわけはない。心豊かに御本尊様を信じまいらせて生活をしなくてはならない。

 

 法華守護の諸天善神がお守りくださるとしても、心田におさまった仏になる種であるところの南無妙法蓮華経が芽を出し、木になり、枝を出し、葉を茂らし、花を咲かせ、木の実にならなくては、貧窮のわれら衆生は、富める身分とはなりえないのである。

 

 ゆえに、あせることなく信心を続け、一日も早く木の実をならして、永遠の幸福の世界に住むように心がけねばならぬ。

(昭和二十七年十月三十日)