折伏小論

 

(三)
 日蓮大聖人様の弟子檀那たるものは、広宣流布のため、生命を賭するのは当然である。謗法を呵責して、大聖人様のお教えにこたえることは、当然至極のことであり、なんら不思議とするに当たらぬ。


 しかるに、現在、寺院信徒のなかに、これを観念的には良く理解しておりながら、実際生活には、ぜんぜん反対な行動をなしている者が多々あるのは、まことに遺憾なことである。大聖人様、生死のことわりを現わされて、ご涅槃の後、年久しく、その間、強信な信者、名僧多く出現すというとも、邪宗に押されて、正宗の勢いまったく地におち、全国百余か所の寺院を支えるにすら、ようやくの現状とは、あまりに、なげかわしきことではなかろうか。少数の寺々を除いては、タタミ破れ、壁は落ち、信者また折伏の意力さらになく、法まさに滅尽するの感深きにあるを、まことに信ある者は、なんとみるであろうか。まことの信者あるならば、百万の敵ありとも、仏法を救い、仏法を守り、大聖人様いらいの正統、清純なる日蓮正宗を守るべきが当然であろう。


 ここに、この理にかなうて、創価学会は、起ち上がっているのである。しかるに、わが会員中においても、折伏することが、相手に悪いように考えたり、遠慮したり、義理にからんだりして、ちゅうちょしているのは、なにごとであろうか。折伏をすれば功徳のあることは、自明の理であるとしていながら、御僧侶が、これを一つも叫ばない。叫ばないからとて、利益がないのではない。絶対に利益があるのである。自分ひとり、御本尊様を拝でいるのは『慳貪に堕す』といって、仏のもっとも忌まれるところである。これ、安楽行品の意に準ずるものであり、大聖人様のとくにおしかりになっていられるところである。


 さりとて、組長以上の幹部級が、折伏しろ、折伏しろといっているのは、あたかも、戦争のときに、小隊長、中隊長が、後から、進め、進めといっていたのと同じことである。折伏しろといわれた者は、なんのために折伏するのか、その意味がわからなくては、折伏できるものではない。広宣流布のためだ、大聖人様のお心だというようないい方では、初信の者は、自分に関係ないものと考えてしまうものである。


 折伏することが、御本尊様を拝むと同様に、非常に大きな功徳があるのであって、われわれの悩みを解決するには、強盛な信心と、剛毅な折伏とが、絶対に必要なことを理解させるならば、折伏しろといわなくても、当然折伏するであろう。また、その裏づけとして、日蓮正宗がいかに正しく、大御本尊様はいかに偉大な功徳があるかを、確信させるならば、なおなお、強き折伏の闘士が出現するであろう。それがためには、折伏教典を完全に用いられるべきことを付言しておこう。
(昭和二十七年七月三十日)