折伏小論
(二)
はじめ信仰にはいった当初は、非常に感激にもえて折伏する人がある。この人は、寿量品において『不失心者』と説かれている人で、すなわち、久遠元初の下種を忘れない人である。ゆえに、経論は知らなくても、折伏の方法はきわめなくても、御書を読まずとも、大御本尊様を、おさげわたしいただくやいなや、久遠元初に拝し奉りし御本仏を、まのあたり再び拝し得て、歓喜にもえ立つのであるから、久遠元初の姿にもどって、ただただ御本尊を讃歎し、人々に、久遠の本仏を思い出すようにすすめるのである。
ゆえに、その感激は、人々の琴線にふれ、大いなる折伏ができるのである。これこそ、真の折伏の姿であって、真実にして、久遠元初の折伏の方程式ともいいえようか。
御本尊様をいただきながら、いまだ、真の感謝がわきいでざる者は、寿量品に説くところの『失心者』である。しかし、この人といえども、折伏を行じ、御本尊様に、たびたび接することによって、久遠元初を思い出し、感激し、真の折伏を行ずるようになる。
しこうして、失心者の人も、不失心者の人も、真実の感激を忘れたときに、折伏の仕方に、特種の形を現わすときがある。この方法は、ごく危険なものであって、よく注意しなければならないのである。
第一は、感激のないのに、理論にはしる形である。大聖人様の哲学は、荘厳にして、真実偉大にして、完全無欠なるがゆえに、この大哲学に感激することはいうまでもないが、これを理解し、これを会得することは、至難のことである。しかし、信じまいらせ感激することは、かんたんなことである。その感激と信仰とを基礎にして、大聖人様の哲学を理解し、教えを乞おうとするならば、会得も早いのであるが、信仰と感激を外にして、日本の大学教育、専門教育および科学万能の思想に毒せられし、ただ記憶し、ただ覚えをしゃべろうとする癖を出して、大聖人の哲学を研究した者が、折伏することは、危険この上なきことである。旧信者の折伏、御僧侶の折伏、学会青年部の折伏のなかに、この形をみて、慄然とすることがある。この形のなかには、ときに、自己の偉さをしめさんとし、はったりのような形にみえることが、しばしばある。これが、上位にある者のやるときには、とくに弊害が多い。慎しむベきであろう。
第二は、御本尊の威光をかりて、折伏の系統を、自分の子分とみなす徒輩がある。折伏が、真の慈悲ではなくて、大親分になってみたいという考え方から、あるいは本性的の働きから、この形をやるものがある。これは、増上慢の形であって、私の徹底的排撃をする徒輩である。この形は、寺院にも、時々みうけられるが、学会内にも、時おり発生する毒茸である。この毒にあてられた者が、四、五十人の折伏系統をもつと、寺の僧侶と結託して、独立する場合があるが、末法大折伏の大敵である。これを許す御僧侶は、慈悲の名に隠れた魔の伴侶とも断じたい思いであるが、御僧侶は尊きがゆえに、言うにしのびない。
第三は、信仰利用の徒輩である。信仰を利用して、自己の生活を立て、および名誉をたもたんとする折伏系統である。この連中の考え方は、戒壇建立という美名に隠れて、世の金持ち、世の権力者に阿諛する徒輩であって、なんとかという代議士、なんとかという金持ち、それを折伏することを、大へんなことであると考えている。こういう徒輩は、学会精神に反し、仏の真意に反するのである。今の世は、民衆の大半が苦悩の人々ではないか。
この苦悩の大半を救うことが、学会の根本精神である。もちろん、権力者といえども、小さな悪人として救ってやりたいのは、もちろんである。
第四は、信仰しているふりして、実は、信心なく、信仰の人々を利用して、生活の一助とする徒輩であって、かかる者は、徹底的に排撃しなければならない。
第五は、偉大な信念も、絶対の確信もないのに、さも、自分が、大信仰者のような顔をして、指導者に立つ輩もいる。かかる輩は、まことに危険であって、信心する者を、誤った道へ入らしむる恐れがある。この形は、おもに、学会人が、旧信者と呼ぶ者のなかにいるのであるが、われわれ学会人も、とくにこの点を注意し、旧信者のこの形をみた場合には、追い打ちに追い打ちをかけて、再折伏をしなくてはならない。とくに、御僧侶にこの形があったりする場合には、面をおかしてご諫言申し上げねばならぬ。
(昭和二十七年四月二十五日)