折伏活動に価値的行動を望む
『法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄疑いなかるべし』(曾谷殿御返事一〇五六ぺージ)
このご金言を、創価学会員は堅く信じまいらせ、また御本仏の命令をたっとび、慎むがゆえに、折伏に邁進することは理の当然であり、吾人として喜びにたえないところである。折伏をしなければならぬということを、だれでも知りながら、信力不足の者は世の難に恐れ、人の誹謗をこわがって、なかなか、なしえない。それを、あえてする同志の人々に対して、その信力の強きを、まことに慶賀にたえないのである。
しかるに、折伏をするのに、同じ時間を用いながら、さらに効果のあがらぬ場合がある。それは、折伏の仕方が、相手の悩みの中心にふれないからである。また、相手の求むるところにふれないからである。
現代の衆生は、五濁悪世の衆生である。絶対に悩みのないわけがない。また、願望のないという人間が、この敗戦日本の民族のなかに、有りうべきはずがない。この願いをかなえさせ、この悩みを救わんとなさるのが、大聖人のご大願であらせられる。
されば、われらが折伏に当たっては、その相手が、何を悩み、何を願っているかを、よく見きわめなくてはなるまい。折伏に当たっては、各人各様、悩みと願望に相違あることを、十分意識してかからねばならない。
病気で苦しむ人に、御本尊様が絶対に金持ちにしてくださると説いても、仕方のないことである。
貧乏人に、子どもが生まれる功徳があるといっても、話は通じまい。
理論を知ろうとして願っている人に、功徳の話や罰の話ばかりしても、どうにもなるものではない。
されば、相手を見きわめて折伏をすることは、絶対に必要なことである。これは、時間を価値的に用いることである。
また、御本尊送りは絶対に必要なことではあるが、だれが御本尊送りすることが価値的であり、正当であるかを考えなければならない。時間も、改めて、昼なら昼、夜なら夜に行ったらよいかは、家庭の状況を考えて、価値判断をなすべきである。これは一例であるが、あらゆる折伏活動を価値的に判定して、より高き価値を創造するよう、絶えず考慮すべきである。
座談会においても、十一時、十二時までこれをなして、むしろ座談会の価値を低下する場合がある。それがために、出席した人が夜おそく帰宅するために、物議をかもして、学会の総体活動に悪影響を及ぼす場合がある。
かかることは、全体的立ち場から価値ではない。かかる場合は、少なくとも九時半なり十時なりに打ち切って、故障の起こらぬ者に限って指導すべきであろう。
折伏は信心より起こるものであるが、行学によって信仰の知識を深め、わかり易く時間を使わずに折伏することも、これまた価値的な方法であるから、絶えず行学を励まなくてはならない。
といって、理論によって折伏するということは、折伏の全体ではない。ときにいち早く御本尊をいただかせて、御本尊を拝むことによって、偉大な御本尊のご威光にふれさせることは、もっとも価値的な場合が多いから、この点もよく考慮すベきであろう。
御本尊には、偉大な功徳があらせられる。凡智をもって折伏された相手の機根を、推し量ることはできない。
まず御本尊の偉大なご威光にふれさせることが肝要である。
折伏に熱心のあまり、若い青年が夜の十時、十一時に、他家を訪問するということは、世法を無視するがゆえに、世間の笑いを買い、法をさげ、折伏に害をなすことが多大である。このことは、絶対に価値的ではない。相手の世法的な都合などまったく無視して、無理押しに攻め立てることが、真の折伏であるかのごとく勘違いしてはならないのである。十分注意すべきことである。
以上大略を述べたが、要は折伏を価値的になせとのことであって、考えたり、逡巡したりせよということではない。全会員が信力を本として、勇敢なる折伏の闘士であらんことを望むものである。
(昭和二十六年十二月二十五日)