御僧侶の待遇と信者への反省

 

 御僧侶の生活が安定しないということは、考えられないことである。仏白毫の光のゆく所、御僧侶の糧は、十分あるはずである。しかし、万一にも、生活が困るということがあるとすれば、それは、大聖人のご命令にそむいて、折伏教化に努めない仏罰の現われである。しかし、このように、御僧侶の一方のみを考えることは、また、許されない。信者もまた御僧侶の生活に対しては、純真の忠義をはらうべきである。しかして、御僧侶が心おきなく、折伏教化に邁進できるよう努めねばならぬ。

 

 もともと、御僧侶に対する供養は、仏に対する真心を現わすものであり、御僧侶は、大聖人に代わって、これをお納めになるのであって、供養は、純真なものでなくてはならない。寺が衰える、寺が亡びるということは、御僧侶にも絶大なる罪があり、信徒にも、重大な責任があるのである。

 

 しかし、御僧侶が、お寺の経営から退かなければならぬ境遇になられた場合に、その生活に対する考慮が、法文的に規定されていないことは、まことに残念である。たとえば、法主上人の御引退後の生活権の安定、お年をめした御僧侶が、寺務を執れなくなって、ご引退した後の生活権の安定、または、病気の場合、相互扶助の方法等、いくたの問題が、未解決のまま残されてはいまいか。このことは、一国信者の総意として、至急に確立しなければならない問題であると信ずる。若いときに、働けるだけ働かせておいて、年をとったら捨ててしまうというような考え方になりはしまいか。一国信者総体として、不知恩の限りである。最低の年金制度をもうけるとか、あるいはまた、病気の場合は、全国の各寺院の信徒代表が、無尽式においてでも、あるいは、醵金してでも、これを救いあげる方法をとらなければならない。

 

 また、青年僧侶の教育に対しては、甚深の関心をもたなければならない。学林の復興、勉学費の扶助等々、なんらかの待遇をあたえて、心安らかに、おおらかな気持ちになって、勉強のできるよう、取り計らうベきではないか一国信徒の代表が決起して、まず、このことを議するぐらいの情熱が、各地方に喚起せられなければなるまい。これは、全国御僧侶が、各信徒に呼びかけ、かつ、信徒を指導しなければならぬとも思うが、一方、こういえば、全国信徒代表が、御僧侶に進言しないということも、誤りではなかろうか。お寺の修理復興すら思うようにゆかぬ時代だからとて、信者を眠らせておく方も悪いし、眠っている方も悪いと思う。

 

 つぎに、御僧侶のなくなった後に、残った遺家族の生活のこと等は、枯っ葉のように気にもかけないというような今日の風潮は、是正しなければならない。これらまでも、信心を土台にして、云云するわけにはゆくまいから、やはり法文化して、妻およびその長男ぐらいの教育費は、なんらかの機関をもうけて扶養するよう、研究しなければならないと思う。

 

 要するに、寺を建て、寺を増築し、寺をりっぱにするということは、大切なことではある。しかし、宗門の隆盛は、人によらなくてはならない。その人を待遇する方法をとらずして、どうして、人材を集めえられようか。

人材なきところ、衰微は当然である。強く、全国信者諸君の猛省を促す次第である。

 

 こういうことを、口で言い、文で現わして論ずることは、ごくかんたんなことではあるが、さて、実際問題となると、容易なことではない。熱烈なる中心人物の出現も、望まなければならないし、全国信者の結集ということも、第一前提になってくる。部分的活動では、とうていなし得ないことであるから、長年月の努力も必要としよう。されば、各寺院に、めざめた中心人物が、一日も早く出現してもらいたい。そして、その中心人物たちが、期せずして、一人の人物のごとく活動してゆかなければなるまい。一々、御僧侶に言いつかったからやるというようでは、とうていできない仕事である。七百年記念事業も、明年にせまっているから、この事業が終わったならば、直ちに、この運動がおこされることを切望するものであるが、あるいは、いまだ時機尚早であろうか。

 

 ただ、ひとこと注意しておくことは、こういう一山の大事業を、信者側がおこす場合に、お山の行政にまで口を出す恐れのあることである。かかることは絶対に許しがいたことであって、信者は、ただ真心をもって、御本尊様へのご奉公を、いちずにつとめなければならない。われわれ、御本仏大聖人様に、お目通りできなかったその悲しみを、お山のご奉公にかえるのでなければ、真のご奉公とはいえないと信ずるのである。

(昭和二十六年十二月一日)