日蓮大聖人と折伏の徒
御開山日興上人の御遺誡置文に、
一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事。
折伏のじょうずな者、大確信にみちて、折伏をなしとげる門弟は、大聖人様は、非常におかわいがりあそばされた。そして、そのように折伏する者はかわいがっていきなさい、とのご命令である。
されば、創価学会の精神は、折伏に重きをおき、大聖人様よりご愛顧をこうむって、一生成仏をお願いするのである。このことは、また、御開山日興上人のご命令に忠順なことであり、とりもなおさず、大石寺代々の御法主上人に、忠順なる行為である。世間の地位とか、入信の前後とかを問わず、折伏に精進する者は、学会の重鎮であり、大黒柱である。会長たりとも、各部長たりとも折伏行に精進する者に出会わば、大聖人より『善哉、善哉』と、おほめにあずかっているみ仏の使いとして、立って、これをお迎えしなくてはならない。
大聖人は、折伏を行じない者を、次のようにおおせになって、叱っている。
『法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄疑いなかるべし云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし、はかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし』と。
折伏をしなさい、折伏をしなくては成仏できないと、強くおおせである。折伏をしない者は、師檀ともに地獄におつべしとは、なんと強いおことばではないか。折伏を行ずるときは、成仏疑いないと、おおせである。各人が折伏行に励むとき、その人々の生命は、喜びに躍動して、仏界にある心身を感ずるのである。そして、これが一生成仏の証である。
折伏行も、確信にみち、大慈悲の現われとして、勇気にみちていなくてはならないし、確信のあるところ、必ず勇気にみちるのである。
大聖人は、『日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし』(開目抄二〇二ページ)と。
なんと崇高な、大慈悲にみちたお姿ではないか。
われわれ五濁悪世の凡夫は、大聖人のこ慈悲をこうむる身なれば、大聖人のおことばをまねるは、恐れある身なれども、ただ、大聖人のご慈悲をありがたしと思うがゆえに、『われわれ学会員は、大聖人の大慈悲には、千万が一分も及びませぬが、大聖人を信じまいらせ、折伏への勇気のすぐれたることは、迹化の菩薩は恐れをもいだくであろう』との大確信こそ必要であると思う。
佐渡御書(御書全集九六一ページ)に、大聖人おおせあり。
『日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むベしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし』と。
心弱き折伏の者よ、このおことばに恥じないのか。弱輩は、みずから恥じて、まさに、息のたゆるの観をなすべきである。
しかも、時はきているのである。東洋の姿、日本民衆の苦しみ、朝鮮民族の困難は、大聖人ご在世と類似している。活眼を開いて、大聖人の御書を拝読したならば、今をおいて、いつの日に広宣流布すべきであろうか。今をおいて、いつの日、東洋民衆を救うべきであろうか。大聖人ご出現の意義は、かかるとき、かかる世の民に、唯一のたよりにならんがためである。慎んで大御本尊の命を受け、一日も早く広宣流布して、大聖人の慈悲に報いようではないか。
(昭和二十六年七月十日)