僧侶の大功績

 

 日本中にいる一般の坊主は、全然不要なものである。非生産的階級であって、社会になんの寄与するところもない、寄生虫的存在である。外面は文化面に属し、宗教の衣を着ているが、宗教の使命を自覚もしないし、なんら宗教行為を実践していないのである。

 

 釈迦の出世の目的も知らなければ、釈迦の仏教が、どうなっているかも知っていない。生命の実相観もないし、人と仏との真実の関係においても、思索が徹底していない。知っているのは、意味を知らないお経文を読むことと、『檀家』の数と、金の勘定と、社会的名誉のことである。寺に住み、葬式および法要のときに、ケサをつけるがゆえに、日本語において僧侶と名づけるのである。二十の扉の語をかりれば、『動物』という題で、陰の声が『寺に住む動物の親分』ということになる。すなわち高級乞食である

 

 かかる何十万の動物のなかで、同じ姿こそしておれ、厳然として人であり、人のなかでも、りっぱな僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝であり、仏のおおせの僧宝であると、万人の尊敬すべきところで、まことにめずらしい教団である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。

 

 かかる、りっぱな教団でも、身近に住む信者は、ありがたいとも思わず、ふつうだと考える。これは、この教団の偉大な功績を見ないものであって、この教団の一部分観をなしたり、または、この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを、唯一の願いであるとしている猫坊主が多いと攻撃して、功績の方を見ない。

 

 この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、かつ一面には、猫もねずみも出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない。かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人ご出世のご本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである。

 

 わずか小勢百数十人の僧侶が、愚僧、悪僧、邪僧充満の悪世に、よくたえるもので、大聖人の『ご出世のご本懐』たる弘安二年十月十二日ご出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護したてまつって、七百年間、チリもつけず、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで、一瞬も身に心に心身一つに、御本尊を離れずに、今日にいたったのである。朝夕の給仕、大聖人ご在世と一分も変わりなく、時勢の隆替にも、法主上人の代々にも、なんら変わりがないことは、大聖人ご在世を拝すると同様である。天台大師いわく、『霊山一会の大衆、厳然としていまだ散らず』と。私のいわく、『大聖人ご在世の一会大衆厳然として石山にあり』と。

 

 もったいなくも、代々の法主上人の丑寅の勤行は、御開山より、ただの一日も休んだことがない。丑寅の勤行とは、夜の二時からのご勤行で、暑くとも、寒くとも、大衆救護の御法主上人はじめ石山僧侶一同のおつとめである。もったいないではないか。神々しいではないか。ありがたいではないか。他山に、かかる勤行があるであろうか。かくも、法体を守護し、かつ化儀連綿たる功績こそ称えねばならぬことである。この上に、大聖人のご教義は、深淵にして、厳博であって、愚侶の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損するなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのままに伝えられたということは、仏法 - 真実の仏法哲学を滅しないことであり、実に偉大なる功績ではないか。

 

 以上、この二つのご功績は、これ日蓮正宗僧侶の大功績と称えなくてはならない。この大功績によって、真に大衆の苦を救う広宣流布するの日には、東洋の民衆は、大聖人の仏慧をこうむり、世界平和の礎が、きずかれるのである。

(昭和二十六年六月十日)