内容主義か形式主義か
世間のいろいろの問題を処理していく上に、形式を重んずるいき方と、内容を重んずるいき方との二つがある。これは、両方とも偏見であって、正見ではない。
信心とか、イデオロギーのごとき精神問題を中心として、内容主義でいくことは、よいとしても、形式を軽視するわけにはいかないのである。とくに、広宣流布の大願成就のごとき大事業、難問題に対しては、とくに適切な形式を打ち立てていくことが肝要であり、形式もまた尊重されなければならない。
たとえば、いくら効能のある医薬品であっても、その使途をあやまっては、所期の効能をおさめることは不可能であり、その薬品が高貴であればあるほど、正確な厳正な処方箋を必要とするがごときものである。
また、これと反対に、内容のない形式ほど無用、有害なものはない。現今の宗教界の通弊は、これである。もし、一つの宗教、宗派を開きたいならば、所要の形式をととのえさえすれば、堂々と『宗教法人』の名のりを、あげることができる。いったん、『宗教法人』となるならば、国家もこの宗教を認めているとか、進駐軍もこれを認めているとかいって、街頭宣伝を開始すると、無智の大衆は、ただ、それだけで、現世の利益を追い求めて、ぞくぞくと、その信者になる。一例をあげるならば、ある宗派は、日蓮聖人の教えを広めているといっているが、その内容は日蓮聖人とは、まったく関係のないインチキ宗教であり、その理由は、かくかくのごとしと、いちいち文証、理証によって、これを指摘しても、それでは、国家は、なぜ、その宗教を認可しているのか、国家が認めるくらいならよいではないかというものがある。
あるいは、また、禅、念仏、真言等の各宗教も、表面では仏教の看板をかかげているものの、その内容は、葬式、法事、墓番人などの儀式や形式のみで、まったく釈迦の真意と、かけはなれた存在なのである。
念仏や真言の僧侶が、いかなる経典を読み、その経典の内容と、われわれの生活とは、いかなる関係があるかを知って信仰しているものが何人いるか。
このような既成宗教は、まったく儀式と形式の飾りものにすぎないのである。
たとえば、いかに飾りたてた、りっぱな処方箋であっても、肝心の薬が処方箋どおりの効能がないか、あるいは、処方箋とは、まったく別の薬がはいっているか、あるいは、薬とは真赤なウソで、内容は激しい毒薬であったら、結果はどうなるか。いずれの宗教も、同様に宗教の看板をかかげていることは、同一の処方箋であり、これを信心するときの一般大衆は、同じ処方箋を見て、同じ気持ちで信仰を始めるのであるが、その内容たる薬は、まったく千差万別のものであり、信仰する結果も、また決して同じではないのである。
また唯物論と唯心論の論争なども、ほぼ、これと同様な堂々めぐりを、くり返している。幸福追求の方法として、経済組織や政治の形態、階級闘争などを、盛んに強調し、これによってのみ、人類の真の幸福が求められるというのに対して、そのような形式も大切ではあるが、唯心的、精神的なものが根本であるというものがある。
これが、また、両方とも偏見におちいった論争である。
そもそも、法華経において、『一切法』と説かれているごとく、また天台大師が、化儀(説法の儀式で処方箋にあたる)化法(所説の法体で薬にあたる)と説かれているごとく、内容と形式とを、最初から円満にかねそなえた『教法』でなくては、真に人類を幸福に導く教えとはいわれないのである。
組織が大切か、人が大切か。組織は、もちろん人が作るものであるが、人はまた、自分の作った組織にしばられ、制約されるものである。ゆえに、われわれの行動も、また、内容と形式とを兼ねそなえたものでなくてはならないことも、いうまでもないことである。
(昭和二十五年八月十日)