神札と菩提寺
―因習の打破―
古来、革命の成否は、因習の打破にあった。古い因習が打破されたときに、革命は成就され、それが不成功のときに、革命は失敗に終わったのである。いま宗教革命にあっては、神札と菩提寺に対する因習が、まず打破されなければならないと主張する。
第一に、神様と神札とは違うのであり、第二には、先祖と菩提寺とは違うことに、気がつかなければならない。神様についていえば、いま世間で『神』とよぶものに三つの種類がある。
第一は天地宇宙を創造したと考えられている神であり、第二には日本独特の、先祖を神としているものであり、第三には仏教上の神である。
第一の神は、宗教のなかでも『天造説』の神であり、これは仏教の『因果説』と相対するものである。惟神の道とか、天理教などの神が、これであるが、この宗教は、自然科学と、まったく相反するものである。
第二の先祖を神とする思想は、道徳と宗教を混交したものである。宗教とは、信仰祈願の対象であり、先祖に対しては道徳的な観点から感謝報恩をいたすべきものである。
ゆえに宗教上の対象となるべきものは、智慧と教えをもって、迷いの衆生を化導する力のあるものでなくては、意味がないのである。この智慧と教えをもって、永世に変わらず、迷いの衆生を教化してくださる方を、『仏』と申しあげるのである。
この意味がわかってみれば、先祖に対して信仰祈願することは、まったく意味のないことは、すぐ了解できる。なぜなら、先祖は、『一切衆生を化導する智慧』など持っているわけがない。先祖は、死んだからといって、仏になったのではない。やはり、われわれと同じ迷いの凡夫であるがゆえに、子孫が幸福になることをのみ、願っているにちがいない。
現在生きている子孫が、仏のご化導に浴し、幸福になってこそ、初めて先祖も幸福になれるのである。
第三に、仏教上の神とは、『正法を護持する』という誓いを立てたものである。大梵天王、帝釈天王等々、すべて『正法護持』の神であり、これらの神は、正法を受持するものを見て放っておくわけがない。必ず正法受持者を護持することのみが、唯一の使命であり、作用である。日蓮宗中山派などで、鬼子母神にお題目を唱えさせることなどは、まったくインチキ宗教の代表といわなければならない。法華経の現文を見よ。鬼子母神は正法護持を誓っているではないか。ゆえに、われわれの受持し帰依すべきものは、『正法』以外に何ものもなく、かくのごとき神々をまつって拝む理由は、仏教のどこにも見当たらないのである。
しかるに、日本人は、神社から、お金を出して、お札を買ってきて、それを、どこかへ、はりつけておけば、それで、神を信仰していることだと思っている。先祖の菩提寺へ行って、その寺が、いかなる宗派で、いかなる教えを説くかなどは、まったく研究もせず、疑問も持たずに、ただ墓場を掃除し、僧侶にお金でもあげておけば、先祖も喜び、自分も幸福になれると思っている。
神社から買ってきたお札のなかには、神様はいないのだ。その実証は、あらゆる神札を山のごとく積み重ねながら、不幸のどん底にあえいでいる人々を見よ。神札には神様がいるのではなくて、悪鬼悪魔の住み家となっているのである。
だから、ススにまみれ、チリにまみれさせたあげくのはては、破って焼きすててしまうではないか。墓場を掃除し、イハイを拝んだところで、先祖の供養にはならないのだ。既成の宗教は、まったく大衆の生活とかけはなれた無力のものである。これらの因習は、ただ神主と僧の生活維持にしか、役立っていないのである。真に先祖を供養し、神様を尊敬する道は、独一本門の大御本尊に、お題目を唱えたてまつる以外にないのである。
(昭和二十五年七月十日)