広宣流布の姿

 

 聖人様におかれては、南無妙法蓮華経のお教えが、一閻浮提に流布せらるべしとの大確信でいらせられる。

 仏の確信は事実であって、決して単なる理想ではない。文証、真正であり、理路また整然として、現証もまた厳然たるものである。

 

 在世の仏法は東洋にひろまり、幾億万の人を利益した先証があるから、また大聖人様の仏法が一閻浮提にひろまることは、言うまでもない。釈迦の仏法がインドにひろまり、数百年の後に中国へ伝来し、一千年、東洋に広宣流布して、二千年を益した。大聖人様の仏法が、日本を風靡する年月は、仏記を知らぬわれわれは、その年月を知るよしもないけれども、必ずや三大秘法建立のある時を疑わないのである。その間、幾多の仏子の屍を妙法にささげて、大聖人様のご嘉賞にあずかることであろう。

 

 しかして、現在の仏教界を見るのに、日蓮宗と称するものの各派は、広宣流布の美名にかくれて、愚迷の民衆を狂わして、各自の流派を広めている。その広まり方は、実にものすごいものである。一応見るときは、お題目を唱えているので、広宣流布の姿に見える。

 

 吾人は、その広めつつあるものが、いつわりに満ちた、かってに作った、偽日蓮宗であるというその本質を、今ここで、論議はしないが、かれらの広宣流布の仕方を考えてみたい。

 

 その本質は偽物であるということを考えないで、その広め方を見るだけでさえも、最高無比の純すいな日蓮大聖人の教えも、そのようなやり方で広めなければならないかというに、決して、そうではない。かれらの広め方は、まったく悪らつというよりほかない。

 

 釈迦の経に、『僧として、わが法を広むるものには、わが白毫の光いたって、一国の米を集めて、とぼしからしめない』との意味のおことばがある。表から見て、今盛んになりつつある各派のやり方が、支部長、幹部ともなれば、自分の信徒から本部へ集まる金の割りまえを受けて、その生活が安定して、なんの商売をするよりか、この方が金もうけになると、公然と言っている人があるという状態である。

 

『俗のなかに僧あり』と。かれら、また僧として、わが法を広むるの条件にかなって、このような事実ならば、仏法の規則によって、幾分許されることもあろう。しかし、それは、一応、美名にかくれたもので、宗教屋というかれらの活動にすぎない。そんな深い理論を知っているのではない。なぜかならば、大聖人様の開目抄(御書全集二二五ぺージ)に、涅槃経をひかれたおことばによって、りっぱに証明できるであろう。

 

我涅槃の後乃至正法滅して後像法の中に於て比丘有るべし持律に似像して少かに経を読誦し飲食を貪嗜し共の身を長養す、袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現わし内に貪嫉を懐かん啞法を受けたる婆羅門等の如し、実に沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん

 

 今、町における低級な偽日蓮宗は、前の経文にあるような、正しい教義にせめられると、アホウのバラモンのごとく、一言半句も受け答えができなくて、先達に聞いてくれという。先達へ行けば支部長に聞けといい、支部長へ行けば本部へ行けという。本部へ行けば、末端と同じに、アホウを受けたバラモンのごとく、なんらの受け答えもできない。かれらの唯一の逃げ手は、『信仰は理屈でない。ただ信ぜよ』という。

 

 啞法というのは、『バカ』という意味に、今日では使っているが、このアホウの意味は、人間のことばを忘れる修行をした尊者のことを言うのである。そして、偽日蓮宗の導師なるものは、まったく、このアホウの手を打つのである。このような偽日蓮宗が、広宣流布の形をとって、全国にゆきわたりながら、真実の大哲学を持ち、大慈大悲の日蓮大聖人の真実の教えが、広宣流布の姿を、とりえない現状である。いまだ広宣流布のときにあらざるか、機なきか、仏意はかりがたし。邪教が先にはせて、真実の教えが後にひらくか。いまだ仏子の難にあうこと少なきか。信者の折伏のたらざるか。

 

 日蓮大聖人の真実の教法を広宣流布せんとするものが、例を偽日蓮宗にとって、貪嫉の供養を受けた宗教屋の姿をとるベきか。否、否、吾人はあくまでも貧に甘んじ、罵詈悪口をしのび、杖木瓦石を恐れとせず、命におよぶ大難も何ものぞ。『智者に我義やぶられずば用いじとなり』の大聖人の金口に随順して、屍を仏前にさらさんとするのみである。

(昭和二十五年五月十日)