人間革命

 

 終戦後、にわかに唱え出されたことばのなかに、『革命』ということばがある。おそらく戦争時代に教育を受けてきた者にとって、この革命なることばは、およそ日本の国家や社会とは縁遠いものと教えられ、考えられてきたにもかかわらず、戦後は何々革命と盛んに喧伝されるにいたったものである。

 かつて、東大の南原総長は、人間革命の必要を説いて、世人の注目をあびたのであったが、われわれも、また、人間革命の必要を痛感する。ただし、その内容と方法においては、大いに異なっているのである。そして世間一般においても、革命の立脚点および、その理論と方法について、千差万別であり、無用の摩擦やアツレキの生ずる原因となっている。

 

 いま、われわれの提唱する『宗教革命』『人間革命』についてのベるには、宗教の五綱、宗旨の三秘、唯物論と唯心論の問題、認識論と価値論の問題等々、幾多の重要問題が解決されなければならないのであるが、ここにおいては、道徳的修養と、仏道修行の一面から考えてみることにする。

 

 一般に、修養といえば、道徳上の問題を取り上げている。その代表的なものは、儒教道徳であって、五常五倫の道など、深くわが国民生活にも、食い入っている。

 しかしながら、道徳上の教訓で、人間革命をすることは不可能である。革命とは、旧弊を打破することであるならば、道徳的教訓は、かえって逆効果を生ずるにすぎない。実践項目をたくさん並べあげることはやさしいが、全部そのまま実行することは、現実の生活には不可能であるし、根本的には、たとえば、『孝行せよ』と教えても、なにが孝行であるかは、明らかにされていない。同じ孝行の道にも段階があって、小さな孝行に甘んじて、大きな孝行を忘れては、かえって不孝になることを考えなければならない。さらに、どうすることが最高の孝行であるかは、はなはだ困難な問題であって、通常の学問や修養では、とうてい解決される問題ではない。

 

 孝行についてさえ、すでに、このような状態であり、まして、善悪となれば、善悪の基準がはっきりしない上に、なにが最高の善であるかは、各人各様の議論のみあって、明確な目標は、容易に立てられるものではない。

 かの滝沢馬琴が、自分の子どもに対して、儒教による模範的な、厳格な教育をほどこしたにもかかわらず、その子は病弱であり、ついに馬琴の予期を裏切って、一人前の働きさえできなかったことは、あまりにも有名な話である。

 

 仏教について、これをみれば、日蓮大聖人の立ち場は、これらの戒律、道徳万能の修養方法を排斥して、修行の根幹を三大秘法におかれていることが明らかである。

 すなわち、観心本尊抄(御書全集二四六ぺージ)に、

『無量義経に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等云云、法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云、乃至釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う』と、おおせられているが、これこそ仏教界はもちろんのこと、あらゆる修養、修行の方法に対する一大警鐘なのである。

 すなわち、われわれの修行は、受持の一語につきるのであり、今さら倫理道徳を云云するときには、すでに、その人は大聖人の門下ではないのである。

 

 これを要するに、まず人間革命の究極の目標が確立されなくては、その方法も立たないのである。しかして、布施とか、持戒等の手段を用いることなく、直達正観し即身成仏する大道が、日蓮大聖人によって確立されているのである。

 

 われわれの日常生活は、種々様々の縁にふれて、あるときに怒り、あるときに笑い、あるときに貧りなどして、しかも、瞬間、瞬間に、これを断続しているのである。そして、貪瞋癡の三毒が、もっとも不幸の原因であり、地獄、餓鬼、畜生が、もっとも不幸の状態であるとともに、日蓮大聖人によって説き出された仏の境涯こそ、もっとも社会も個人も、幸福の境涯なのである。これこそ、人間革命の究極の目標なのである。

 

 しかるに、一般社会人は、仏の実体も知らず、まして三大秘法随一の、本門の本尊も知らないでいるが、よろしく宗教革命を唱え、人間革命を叫ぶものは、日蓮大聖人のご教示に対して、深く思いをいたすべきであると、信ずるものである。

(昭和二十四年八月十日)