学会には信心がある!
会長講演といっても、めんどうな話は別にない。ただ、御本尊様を信じて拝め! それで終わり。私にはそれ以上教えることはありません。
最近は新聞記者があきちゃって、今は、雑誌記者がいろいろなことを書いている。あれを書けば、必ず売れると思って書いているらしい。君らが買うから書くのです。うるさくてしょうがないから、あんまり買うことはない。
それで、その書きかたが、皆おもしろい。今度は、大白蓮華の巻頭言にも書いておいたけれども、佐木先生あたりは、共産党の考えかたで学会を見ている。小口先生あたりは、いままでの宗教というものの生い立ちが、どういう形かという、形のうえから見ている。おばあちゃんや、おじいちゃんがお寺へ集まって、お茶でも飲んで、しゃベり合うことから宗教が発達したみたいに考えている。
また、大宅先生あたりは、これまたおもしろい見方なのです。それは、なにかしら国民のうっぷんを晴らすところをば、なにかに見つけたという。創価学会にそれを見つけたから、それで創価学会は発達したのだと言う。
まだおもしろい男がいまして、学会には組織があるから、それで発達したと、こう言うのです。バカなことを言うものです。
学会には信心がある! 御本尊様がある! この御本尊様の功徳から、皆出たものではないか。それに気がつかない。
またおもしろいのは、このあいだ、大法輪という雑誌に、なんとかという工学博士が書いておったけれども、それは、釈迦仏法から判断しているのです。わが日蓮正宗は釈迦仏法ではない。そういうとおかしいと思うけれども、仏教を論ずると、彼らは、まず釈迦仏法からはいってくるのです。だから、間違ったことを覚えてしまう。
仏法には序・正・流通と申しまして、釈迦仏法にも序・正・流通はある。大聖人様の仏法にも序・正・流通がある。この正宗分というのは、釈迦の正宗分と、大聖人様の正宗分とは違うのです。大聖人様の正宗分は南無妙法蓮華経で、それから、序分もあれば流通分もある。その流通分には釈迦仏法を用いる場合もある。釈迦仏法というよりは、釈迦の教典を用いる場合もある。だが、それが彼らにはわからん。
そこのうえから学会を批判したって、わけがわからない。こっちは、おもしろがって聞いているのです。よくこのごろ、書いているけれども、君らも読んだかもしらんが、おもしろい。書く人の頭が、この感覚がおかしい。
ほんとうです。読んでみたまえ。いろいろと書いて、ぼくみたいな者を驚かそうといったって無理です。書くほうが知らないで書いているのだから。あんなものを読んで、ほんとうにしてはいかん。またあんなものを喜んで買わない方がよい。そうすれば書かなくなる。そうしないと、うるさくてしようがない。だから学会のことが書いてあったって、知らん顔していればいい。
私に妙な甥っ子がひとりおります。まだ二つぐらいですが、『おじちゃま、きらい』とこう言うのです。わたくしのことを。生意気です。それでいて、そう言われて私はうれしい。それと同じみたいに、学会のことを書かれたって心配しなくてもいい。私がやるのだから。
けっして学会は政治をやるのではないのです。また経済界にどうしようというのではない。ただ、信心が中心! 信心をやるのです。それさえ腹に入れたら、だれがなんと書こうと、なんといおうと、そんなこと驚くことはないだろう。そんなことにビックリ、シャックリするならうるさいから、信心をやめなさい。これが講演です。これはまずい話になっちゃって、まことに相すみません。これで、やめさせていただきましょう。
昭和32年11月8日
創価学会第十七回総会
後楽園競輪場